1759年になると、プロイセンの戦況は徐々に悪化、イギリスがインドにおけるヴァンデヴァッシュの戦いでフランスへの勝利が確定したため、フォンデンブローは対英借款を年末で停止することになった。これからは少なくともイギリスから借金と利子の返還があるため、フォンデンブロー側としては安泰と言うことになる。
だが、プロイセンの状況は酷いもので、8月のクーネルスドルフの戦いでは、フリードリヒが騎馬を二度も打たれ、捕虜になりかけるほどのプロイセン側にとっては大きな敗戦となった。オーストリアとロシアは勝利したが、すぐにプロイセンは防衛戦をひき、何とか持ちこたえた。
とはいえ、予算も兵員もそこをつきている。長引く戦争はプロイセンという国家を疲弊させている。それが示すものを、は知ってしまった。
達は国をなくしても、死ぬことはない。
しかしプロイセンという国の滅亡はギルベルトの死そのものを表す。一つの国の終わりこそ、彼の死なのだ。
イギリスへの借款が停止し、利子支払いが始まることでフォンデンブローの財政は安定した。だが、の心はざわめいたままで、ただただギルベルトの無事を祈り、日々を過ごすだけだ。幼い頃、カール・ヴィルヘルム公子の無事を願い、不安に震えたあの日と同じ。
君主となった今でも、後ろ盾も両親もなく、ただ嘆いていた頃とあまり変わりない。
「・・・プロイセンは、限界だよ。」
ユリウスは静かな声音でに言った。
ギルベルトからの手紙は、今年に入ってからほとんど来なくなった。戦局はプロイセンに不利な者ばかりで、の気分を重くさせるだけだ。議会はプロイセンの敗北によってフォンデンブローが危うくなるのではないかと危惧している。
なんと言ってもフォンデンブローはオーストリアとプロイセンの狭間にあるのだ。明らかにプロイセンとオーストリアの勢力範囲図が書き換われば、フォンデンブローとて無事では済まない。
だが、誰が見ても明らかなほどプロイセンは疲弊しつつあった。それはギルベルトの死そのものを意味する。
は息子の言葉を聞いて、目を閉じる。
『 Was ist Land? Es ist alter Stein. 』
カール・ヴィルヘルム公子の日記の一説を思い出す。
国とは、なんぞや。それは古い石だ。その一説の石とは、フォンデンブロー公国そのものであるアルトシュタインのことを示すのだろう。ドイツ語においてアルトとは“古い”、シュタインとは“石”のことだ。
『 Alter Stein ist ich nicht. Ich kann anderns dauern wenn alt Stein verhaulen.古い石は我ではない。石が朽ちても、我らは続くことが出来る。 』
国はわたしではない。国が亡くなってしまったとしても、わたしは生きていくことが出来る。別の場所で、別の国であり続けることが出来る。
『 また我らがひとりが朽ちても 古い石は死なぬ。だが、すべての人が朽ちれば、石も朽ちる。』
同時に私たち一人が死んでも、国は亡くならない。でも、すべての人々が死ねば、国も滅亡する。国が負けても、国は滅亡する。
『 古い石が新たな石の礎となるまで、石を守り続けなければならない。』
古い国が、新しい国の礎となるまでは、私達は国を守らないといけない。
人ではないと、ずっとギルベルトはに隠し続けてきた。が彼と一緒になったのは14歳の時だ。はもう28になる。人生の半分を彼と過ごした。彼と出会って初めて、穏やかで幸せな日々を、子供を得た。
心から涙が出るほどの幸せを味わって、君主となって悲しいこともあったけれど、ずっと支えてくれた。いつも自信のないの背中を押してくれた。
彼がどんな人生を歩んできたのか、にはわからない。
国として長く生きてきた彼は、年をとっていくを、子供たちを見て何を感じていたのだろうか。それは短い人生しか与えられていないには想像も出来ないものなのかも知れない。どんな感情を抱いていたのかもわからない。
―――――――――すっげぇおまえ!
子供が出来たとギルベルトに伝えた時、彼はを強く抱きしめてそう言った。
妊娠してからもを心配して、必死で医師に子供のことを聞いて、母がおらず実家もないを精一杯支えてくれ。子供たちを愛し、大切にしてくれる彼を、は偽物だとは思えない。彼を大切に思う気持ちは、彼がプロイセンという国家そのものだと聞いた後も、やはり変わっていない。
にとって、彼は心から大事な存在だ。
彼が国だったとしても、どんなものだったとしても、自分とは違う寿命を持っていたとしても、帰ってきてほしい。カール公子の死を、受け入れるだけだったあの日のように、ただ手をこまねいて、彼の死を待ちたくない。
だが、は君主だ。の肩にはたくさんの国民がのしかかっている。
が判断を誤れば、フォンデンブローという国家がなくなる。国民が犠牲になるのかも知れない。でも、このままいってしまえば、ギルベルトを失うかも知れない。
ユリウスの言うとおり、プロイセンはもう限界なのだ。
「ねぇ、ユリウス。父様と、お国と、どちらが、大切?あなたはどうしたい?」
は問いながらも涙が頬を伝うのを止められなかった。
ユリウスの自分と同じ瞳がぼやけていく。精悍な息子の顔つきは、ギルベルトそのものだ。彼とよく似ている。
「今、プロイセンを助けないと、彼はいなくなってしまうかもしれない。でも、わたしたちの国は、なくなってしまうかもしれない。」
公国の主としての責任がある。民を守らなくてはならない。でも多分、ここでプロイセンに味方をしなくてはプロイセンが負けてしまうだろう。そうすれば、永遠にギルベルトはこの世から消えてなくなってしまう。人とは違うけれど、それは彼の【死】だ。
だが、プロイセンに味方をすれば、フォンデンブロー公国を戦火に巻き込むことになる。
「わたしは、」
最低だ。今、国を選ぶことも、夫を選ぶこともできずにいる中途半端な君主だ。
ギルベルトを愛している。でも、自分の祖国を愛している。その感情をどうすればよいのかわからない。ギルベルトを愛することは、多分国である彼自身、プロイセンをも愛することだ。そしてプロイセンの喪失は、彼の喪失でもある。
「どうして、わたしは、」
自分はなぜ、フォンデンブロー公国の君主なのだろう。どうしてただのではなかったのか。ただのならば迷いなくギルベルトを選べた。ギルベルトを選んで、共に死だって願ったというのに、今こうして動けないでいる。
そんな自分が祖国に対しても愛する夫に対しても薄情な気がして、どうすればよいのかには自分のことだというのにわからなかった。
俯いて涙をこぼしていると、そっと小さな白い手がの頬を撫でる。ユリウスはそのギルベルトとよく似た顔の、唯一と似ている紫色の瞳を揺らして、小首を傾げて見せた。
「僕は、お父様とお母様がいっしょなら良いよ。」
よしよしとの頭を撫でて、ユリウスは笑う。
その表情は仕方ない奴だと笑って頭を撫でてくれたギルベルトによく似ている。精悍な顔立ちが彼を思い出させる。
遠くで戦い続けて、けれどくじけそうになっている、たったひとりの大切な彼を。そして国を。
「あのね。僕はお庭で農作業しても良いよ。農民してても良い。お母様とお父様がいてくれれば、統治者でなくても、良いよ。」
ユリウスは生まれた時から公太子として育ってきた。そのための努力も彼はしてきたはずだ。それでも、父を思ってユリウスは笑う。
「アーデルハイトと、話してたんだ。お父様はいつ帰ってくるのかなって。」
からりと笑う彼は軽い口調で、でもはっきりと意志を示す。
が初めてユリウスを腕に抱いた時、彼は泣くことしか出来なかった。それでもギルベルトとの子供を欲していたから、嬉しくて、二人で心からかわいがった。初めての子供であったため、色々苦労もあったけれど、大切で、大切でたまらなかった。
守らなければならないと思っていた子供が、ギルベルトと同じように、の背中を押す。
「お母様が悲しそうな顔をして、お父様が帰ってこないなら、国なんて、もう良いよ。」
ユリウスにとって父が国であっても、父であることに変わりはない。君主として立派で、ユリウスにとって目指すべき人物でも、本当は泣き虫で、弱くて、頼りない人でも、ユリウスの母であることに、変わりないように。
まだ幼いユリウスにとって国なんてものはよくわからない。望まれるものには応えるし、その能力があると自負している。だが、所詮まだユリウスにとって国とは、母がいて父がいて、そういう場所だ。国のために父が欠けるのはたまらない。
「僕が公太子でがんばるのは、お父様やお母様がいるからだよ。」
自分が褒められれば、父母の評価も上がる。それを明確に感じるから嬉しい。そして何よりも、両親に褒められるのが、父に認められるのが嬉しいから頑張るのだ。
「だから、それのない国はいらないんだ。」
ユリウスは泣いている母を抱きしめる。
まだ自分は母や父に守ってもらうばかりの存在だが、それを未だに理解しているからこそ、父がいなくなるのは困る。そして国なんてなくても、父と母がいてくれることこそが、ユリウスにとっては何よりも大きいのだ。
「父様を、迎えに行こう。」
きっと泣き虫な母は、ユリウスの答えを、心から待っている。それを知っていて、ユリウスは自分の望みとともに、母の望む答えを紡いだ。
Ich hoffe, dass er noch lebt.