クーネルスドルフの戦いでの敗北はプロイセンにとって酷く大きいものだった。




「あぁ、気持ち悪い。」





 国土を、自分の躰を蹂躙されているせいか、もしくは国土自体が疲弊しているせいか、ギルベルトはすこぶる体調が悪かった。ただ弱音を吐いている状況でもないので、ぐったりしながらも頭を振ってどうにか意識を保つ。

 1759年8月の敗北は大きかったし、危うくベルリンに侵攻されるかという時期が何度もあった。

 イギリスが幸いフランスにインド大陸の方で勝利を収めたが、ギルベルトたちが特別有利になったわけではなく、むしろイギリスも財政的に厳しいため、プロイセンへの借款を打ち切られそうな勢いだった。

 クーネルスドルフの戦いではフリードリヒが遺書を書くほどひどい状態で、今も何とかザクセンに戻って戦線を保っている状態だ。とはいえ、ぎりぎりも良いところで、戦えているのが不思議なほど、国土も経済も疲弊していた。


 ベルリンに戻っていないし、戦場を行き来しているため、もうしばらくからの手紙を受け取っていない。

 プロイセンが負けているため、ヨーロッパ大陸におけるオーストリアやフランス、ロシアの監視の目は厳しい。そう簡単にフォンデンブロー公国もプロイセンの援助は出来ない。おそらくハノーファー近くにある飛び地を使ってのイギリスへの密かな借款でぎりぎりだろう。

 今だけ、がプロイセンではなくて、フォンデンブローの君主であったことを神に感謝する。


 自分の民でないと言うことに嫉妬を抱いた時期もあったが、今プロイセンにいれば争いに巻き込まれていただろう。彼女は国ではなく所詮人だ。人のみで争いに巻き込まれればひとたまりもなかっただろうから、彼女が他国の人間であることは良かったのだ。結局は。





、」






 フォンデンブローで泣いているのではないだろうか。

 彼女は泣き虫で、かつて婚約者となるはずだったカール公子をオーストリア継承戦争で亡くしているため、ギルベルトが傍にいないことを、戦争に出ていることを嘆き、心痛めていることだろう。またあの紫色の瞳に涙をためているかも知れない。

 フォンデンブロー公国の君主であるのに、はいつも頼りなくて、泣いてばかりで、自信がなくて、議会に右往左往させられて困っているだろう。


 カウチに横たわりながら、ギルベルトはふーとため息をついて目を閉じた。

 国が滅びるかも知れないと言う、本当に危ないところまで来ている。実際にフリードリヒですらクーネルスドルフの戦いの後にベルリンにこう書いていた。




『私にこれ以上の手段はなく、そして正直に言って、全ては失われたのだと思う。私は生きて、祖国の滅亡を見たくはない。さようなら、永遠に』




 それほどに、戦局は圧倒的に不利になっていたのだ。幸い何とか立て直したが、疲弊していることに変わりない。財政的にも相当限界に来ており、ギルベルトの体調が悪いことがその全て示していると言っても間違いない。

 クーネルスドルフの戦いではフォン・プットカマー大将をはじめ、多くの将校も亡くなった。これからの戦いはより厳しいものとなるだろう。



 次は間違いなく、攻め込まれるものとなる。



 終わりを、自分の死を考えたことがないわけではない。自分をおいて死んでいく者たちを見て感じた郷愁も、絶望も、何もかも忘れていない。だから、長い時間が自分たちにあるとは言え、死を考えなかったことはない。

 だが、これほどまでに滅び行くことを口惜しく思ったことはない。




、」




 目を閉じて、思い浮かべるのは彼女のことばかりだ。

 今までギルベルトには家族なんていなかった。確かにプロイセンの、ホーエンツォレルン家の子供たちは、フリードリヒは自分にとって家族にも等しい存在だった。だが仕えると同時に、自分に属する彼らに感じる感情は庇護的なもので、対等ではなかった。まるで子供を慈しむような感情だった。

 同時に自分をすぐにおいて行くものだ、生まれて死んで、また生まれて、すぐに移り変わるものだという、一線引いたもの悲しさと孤独もまた、抱えていた。



 だが、は違う。




 生身で初めて抱きしめて、ともに過ごしたいと願って、愛して、結婚して、寄り添って。当たり前のように、自分を国だとすらも知らない彼女とともに、国だと言うことも忘れて、一人の男として彼女と一緒になった。子供を作った。

 今となっては彼女が自分を国だと知らなかったことは良かったのだ。多分、もうそろそろ自分が年をとらないことにも気づいているだろう。でも、当たり前の幸せを国でありながら手に入れることが出来たのは、彼女が何も知らなかったからだ。

 国と人は、幸せにはなれないと言ったのは、フランシスだったか、アーサーだったか。

 寄り添ったがために処刑されたフランシスの恋人。国家という枠組みの中で、悲しい別れをするのは、国としては当たり前のことだった。




「でも、俺は、」




 一人の男として、当たり前の幸せを手に入れた。


 に妊娠を告げられた時、なんと応えて良いかわからなかった。嬉しくて、幸せで、どうして良いか、どう表現すればその感情が伝わるのか、わからなかった。息子を初めて抱いた時の、あの泣きそうな、幸せでたまらない、こみ上げてくる感情は今でもはっきりと思い出せる。





 ―――――――――――大切にしろ。絶対、なくすなよ





 の妊娠がわかった後、初めてのことに戸惑うギルベルトに、アーサーはそう言った。

 当たり前のように結婚し、恋人を愛し、そして子供を作り、幸せになったのは、列強と呼ばれる大国の中で、ギルベルトだけだ。たまらないくらい、プロイセンという国であるというのに、意識が国なのか、人なのかわからなくなるくらいギルベルトは彼女を愛している。


 ギルベルトは国を捨てられない。自分そのものだから、プロイセンという国がなくなれば、ギルベルトはギルベルトでいられない。死を意味する。でも国を捨てて彼女の元に行きたいと、会いたいと願うほどに、ギルベルトは彼女を愛してしまったのだ。






「死んだら、」




 人と同じ場所に行けるのだろうか、彼女の元に行くことが出来るのだろうか。そんなこと考えるだけ無駄だとわかっていても、思わずにいられない。

 ギルベルトは自分の腕で目元を覆う。




「会いてぇよ、」




 絡まりやすくて柔らかい亜麻色の髪を撫でて、あのすぐに潤む紫色の瞳を眺めたい。細い、その癖に豊満になった躰を抱きしめたい。温もりを確かめて、震える彼女を安心させてやりたい。ただ、寄り添っていたい。

 最期が見えて、思うのは彼女のことばかりだ。

 感傷に浸っていたギルベルトの意識を浮上させたのは、何の遠慮もないけたたましいほどのノックの音だった。




「・・・」




 ギルベルトはだるい身を起こし、ドアを睨む。相手は誰だかわかっていたが、応える気になれない。すると案の定、思いっきりばんばんと殴るようなノックとは言えない音が聞こえてきた。




「バイルシュミット将軍−!いますかーーー!!寝てるんですか!!」




 何年たっても変わらない、テンペルホーフの声がする。彼は今年大佐にまで昇進したはずだが、昔と変わったところは勝手に部屋に入ってこなくなったことくらいで、けたたましさと遠慮のなさは全く変わっていない。

 ギルベルトはこめかみを押さえて、息を吐いてから、口を開いた。




「・・・入って良いぞ。」




 静かに考え事くらいさせてくれと思うが、テンペルホーフに言ったところで無駄だろう。




「失礼します!」




 彼はぱっと敬礼をして見せる。それだけは昔と違って様になっていて、年齢の経過を感じさせた。




「なんだよ、だりぃって言ってんだろ。」




 ギルベルトはぎろりとテンペルホーフを睨む。大抵の部下はそれですぐに退出するが、テンペルホーフは全く動じない。





「陛下から正装をするようにとの連絡です。」

「あぁ?なんだよそれ。」





 ここは一応離宮だが、戦争中で、何かあればすぐに戦争に出る。ギルベルトの体調が悪いこともあり、軍服も着崩した状態だし、正装をするような要人も来ない。今の状態で結べる条約は間違いなくプロイセンに不利なものだろう。

 条約でも結びに行くのかと眉を寄せると、テンペルホーフの頬が僅かに笑みの形に上がって、ますますギルベルトは眉間の皺を深くした。




「おまえ、うざい。」

「そんなこと言って良いんですか、将軍に嬉しいお知らせを持ってきましたよ!」




 テンペルホーフは腰に手を当てて、心から嬉しそうに笑う。

 この戦争中に何でおまえはそんなに嬉しそうなんだとギルベルトが口元を嫌そうに上げると、彼は何故か自慢げに胸を反らして言った。



「フォンデンブロー公爵、女公がおいでです。」





 ギルベルトは呆然と赤い瞳を見開く。

 心臓が大きく震える。夢で何度も見るほどに、会いたかった、でもこんな戦場に近い危険な場所で、会いたくなどなかった。情けない自分の姿など、見て欲しくない。

 ない交ぜの感情に、ギルベルトはどうして良いのかわからなかった。








  Ich hoffe, dass er noch lebt.


貴方に会いたい