彼女の涙で彼女が失ってしまったものの重みを知る。


 彼女の悲しみで彼女から自分が奪ったものの重さを知る。

 では、自分が彼女にして上げられることとは何なのか。ギルベルトはぐっと拳を握りしめる。与
えてやれるものは、何なのだろうか。なくしたものに見合うだけの、ものを自分は与えてやれる
の か。





「難しい顔だな。」






 フリードリヒはちらりと座ったままギルベルトを見る。ギルベルトはそれに答えなかった。

 演奏会と言っても正直ギルベルトには退屈なもので、常ならば適当に理由をつけて逃げ出してい
る。しかし難しい顔をしたままギルベルトは椅子に座り続けていた。がピアノを弾いている間
も、表情は動かない。





「さっきの話を気にしているのか?」






 フリードリヒの問いは見事に的を得ていた。答えは返さずとも、彼には理解できただろう。

 から聞いた話。

 カール公子との話を聞くと、最近は酷く心が波立っていた。婚約予定だけで、実際的に婚
約もしていなければ、恋愛関係もなかった。ただ、後ろ盾のないは彼を信頼し、経済的にも
依存していた。彼もまたそれを当然のことと知り、そしてを自分の婚約者とするべく地位を
与えた。




 すべては過去のことだ。カール公子は死んでいるし、焼き餅を焼いたところで無駄だと分かって
いるけれど、でも、聞く度に不快になった。心乱れた。



 なのに、先ほどの話はギルベルトの心を驚くほど沈ませた。




 誰からも必要とされなかったを唯一受け入れたのは、カール公子だけだった。少なくとも
は彼を慕っていたし、恋愛関係ではなくても大きな信頼をおいていただろう。その希望を奪っ
たのは、間違いなくギルベルト本人なのだ。

 過去は後悔しない主義だ。過去を振り返ってもどうせ何も意味がない。過去には戻れない。

 ただ、不安になる。





「奪ったものを、与えることは、出来るのか?」





 ギルベルトは彼女を大切に思っている。しかし、奪ったものがあることは事実だ。

 国家そのものである自分が与えられないものは無いと思っていた。彼女の望むものを与えられる
と信じていた。それが傲慢そのものであったことを知る。

 フリードリヒは静かにギルベルトの言葉を聞いていたが、ぱらりと楽譜をめくって笑った。





「馬鹿じゃないのか?奪ったものを、与えられるわけ無いだろう。」





 嘲るような言葉に、ギルベルトははっとする。





「勘違いするな。一度壊れた物は戻らない。彼女に同じものを与えてやるなんて事は不可能だ。」






 死んだ人は戻ってこない。奪ったものをそのまま与えるなんて、無理に決まっている。そんなこ
とまさに考えるだけ無駄だ。






「・・・そりゃそうだけど。」






 ギルベルトは出鼻をくじかれたように頭を掻き、ため息をつく。






「じゃあどうすりゃいいんだよ。」

「なんだ、おまえ、なんだかんだ言って嬢が好きなんだな。」

「うるせぇよ。」

「いや、良いんじゃないか。」






 フリードリヒは穏やかに言って、ピアノを弾くに目を向ける。

 やはり彼女の腕は一流で、フリードリヒが聞いても遜色がないほどだ。彼女自身もバッハが見て
いる前で弾くことには抵抗があったようだが、弾き出すと堂々とした音を響かせる。





「ギルベルト、お前は国だから分からないかも知れないが、時が傷を癒すと言うことがある。」





 遠い目をして、フリードリヒは言う。






「その時に大切なのは環境だ。温かな人、穏やかな周囲、そう言ったものがあり続ければ時が傷を
癒す。おまえはそれを与え続けてやればいい。」






 時が傷を深くすることは、新たな事が起こらなければ無い。

 そう言ったものから守りながら、新たな幸せを与え続ければ、なくならないけれど、何時かは傷
が癒えていく。





「・・・そんな気長に待てねぇよ。」






 ギルベルトはぶつりと悪態をつく。






「おまえ、長生きだろ?」






 それを彼が言うかと、フリードリヒの方が笑ってしまった。

 彼は国であり、この国土があり続ける限りは存在し続ける。そのギルベルトの発言は、まるで生
き急ぐ若者のようだ。






「おや、嬢の演奏が終わったな。」






 フリードリヒは顔を上げ、の方を見る。バッハと何かを話しているようだ。しばらくする
と、ギルベルトの方に帰ってきた。





「何か言われたのか?」

「はい、弾き方を少しご教授頂きました。あと宿題に主題を与えてもらいました。」







 楽譜を持っては幸せそうに微笑む。

 彼女は作曲もすればピアノも弾くので、有名なバッハに会えてとても嬉しいのだろう。そのほこ
ろんだ顔ですぐに分かる。





「へぇ、この紙切れがねぇ。」





 ギルベルトからしてみれば、変な●と傍線が並んでいるだけの記号にしか見えないのに、
にはそれが音楽として見えるのだから不思議なものだ。






「2週に一度ほど私の予定もあるので不定期だが、バッハを招いての勉強会をしているが、君も参加
するかい?」

「え、よ、よろしいんですか・・?」






 フリードリヒの申し出に珍しくは好意的な反応を返す。







「もちろんだとも。君ほどの腕ならば、伴奏役として重宝されるだろう。」

「そ、そんな・・・・」





 は恐縮するように頬を染めて俯いた。ほめられることにはあまり慣れていないらしい。





、こっちに座れよ。」






 ギルベルトはカウチの隣を示す。は少し恥ずかしそうな顔をしたが一つ頷いてギルベルト
の隣に座った。

 本当に嬉しそうなの様子にギルベルトもほっとすると同時に先ほどの言葉を思いだした。





「温かな人、穏やかな環境、か。」

「はい?」







 呟きはの耳には届かなかったのだろう、は首を傾げてギルベルトの顔を見上げる。

 彼女は最近少しだけ俯かなくなった。もちろん俯くことも多いけれど、所在なさげに理由もなく
いつも俯いていると言うことは少なくなり、纏う空気も少しだけ暗くなくなった。そうやって、穏や
かな環境を与え続ければ、傷は時が徐々にいやしてくれるのだろうか。

 彼女がいつか、自分だけを見てくれる日が、来るのだろうか。






、」






 ギルベルトは彼女の名を呼ぶ。






「明日、休みだからさ。お茶でもしないか?」

「え?」

「否、別に他意はないんだが、ばたばたしてて、俺もゆっくり話す時間なかったし、な。」






 ピアノにかじりつく彼女も好きだけれど、自分との時間もとって欲しいな、なんて言いにくい。

 ましてや一緒に居る時間を作って欲しいなんて、どういう風に言ったらいいのか分からない。長く
生きてきたくせに、言葉一つまともに思いつかない自分に、ギルベルトは呆れた。

 不器用なギルベルトの誘いに、フリードリヒは肩を震わせて笑っている。対しては状況を
飲み込めなかったのか、首を傾げていた。






「要するにだ、嬢。ギルは君と一緒に明日過ごしたいらしい。」






 フリードリヒが助け船を出して、意地悪くに笑う。は意図を察すると顔を赤くして
恥ずかしそうに俯いて、胸元で楽譜をぎゅっと抱きしめた。






「だまんなよ、」






 沈黙が下りて、ギルベルトは顔をそらしての頭を軽く叩く。






「え、ぁ、だって、あの、なんて、お答えしたらいいのか、えっと、」






 は焦った調子で訴えて、ますます俯いてしまう。






「嫌なのか?」

「ま、まさか!」






 ふと不安そうにギルベルトが尋ねると、慌てては首を振った。





「あの、朝は、女官の方がいらっしゃるのですが、お昼からは、開いていますので、・・・・わた
しで良ければ。」

「わたしで良ければ、じゃねぇよ。」






 おまえが良いのに、とぼそりと言うと、フリードリヒの方がとうとう耐えきれずに声を上げて笑
った。












 
空白の距離