がフリードリヒが主催する音楽の勉強会に参加するようになると、彼女がピアノの名手
であるという噂はすぐに広まった。バッハが彼女に与えた主題から彼女が作曲した曲はフォンデ
ン ブロー公国の民俗音楽にも似ていたが、楽しげでいてワルツにもよく合う優美さがあった。

 国王のフリードリヒ2世が音楽を好むこともあって、は自然と宮廷になじむことが出来た。





「楽しかった・・・・」






 はぽつりとつぶやく。

 音楽の勉強会はとても楽しいし、たくさんの楽器と親しむことが出来るからはとても好き
だった。呼んでくれたフリードリヒに素直に感謝する。

 楽譜を抱きしめては宮殿の一角にある馬車置き場に向かった。“出かける時は徒歩ではな
くて馬車”と言い聞かされたのは、ギルベルトの書類を宮殿に届けに行った時だ。ギルベルトの屋
敷から王宮までは歩いて一時間ほどだったため歩いて行ったが、近くても馬車で行くようにギルベ
ルトから説得された。


 最初はわざわざ馬車で行くのも悪いと思ったが、彼がそういうならば仕方ないと乗るようになっ
た。





「あら、、」





 王宮の廊下を歩いていると、ゆるく巻いた金髪の女性が立っていた。壁にもたれていた彼女は、
を待っていたのだろう。




 は目を丸くして俯き、視線を床に落とす。




 アプラウゼン侯爵令嬢ヒルダ。母親の違う姉が、は苦手だった。相手もを嫌ってい
る。が母の不義の子で、父であるアプブラウゼン侯爵が自分の子ではないが、醜聞を避け
る ために仕方なく認知したことを知っているとともに、彼女が婚約する予定だったフォンデンブロー
公子カールは高飛車なところのあるヒルダを嫌い不義の子と知っていながら年の離れた
選んだ。婚約する前にカール公子は死んでしまったが不義の子と蔑んでいたにカール公子
を奪われたと思った彼女の怒りはすさまじかった。

 そしてまた、は今プロイセン王国で1番の将軍であるギルベルト・バイルシュミットに嫁ご
うとしている。ヒルダが良い印象を抱くはずもなかった。現に国王主宰の舞踏会の時も、酷いこと
を言われた。






「ちょうど良かったわ。」






 薄気味悪いほどに機嫌よく笑って、ヒルダはの手をとる。はとっさにその手を振り
払ってしまった。あわてたとはいえ失礼なことをしたと彼女を見上げれば、彼女は笑っていた。






「お父様があなたにギルベルト・バイルシュミットではなく、オーストリアに嫁いでほしいとい
うことよ。」

「え?」





 意味がわからずはヒルダを見上げる。彼女はひどく楽しそうに笑っていた。





「え、だって、おじいさまが、」





 とギルベルトの結婚は、母の死後アプブラウゼン侯爵家には居場所のないを預か
っていたフォンデンブロー公爵が、プロイセン国王フリードリヒ、そしてギルベルトと話し合って決
定した。それに対して父が反対を唱え、持参金などの婚資は絶対に出さないと豪語していたのは、
も知っている。





「あら、貴方の父上はたとえ不義の子であっても、お父様、でしょう?」






 何を言っているのとでも言うように、ヒルダはを見下ろした。

 確かにプロイセン王国での決定は、オーストリアで通用することではないから、もしも父が神聖
ローマ帝国にを連れて行き、誰かと結婚させることは可能だ。娘の身柄は基本的には父親
に委ねられる。今までは父に冷たくあしらわれてきたため干渉されなかったが、本来は父の
命令に従うべきなのは事実だ。





「お父様はバイルシュミット将軍を殺してほしいそうよ。」





 ヒルダは冷ややかにに言う。






「殺すって・・・」






 は呆然として目を見張る。

 アプブラウゼン侯爵領は先のオーストリア継承戦争の時にプロイセン王国に味方をしたはずだ。
だからこそその隣にありオーストリアに肩入れしたフォンデンブロー公国は非常に苦しい立場に
立たされたのだ。フォンデンブロー公国にいたは一番それを知っているし、だから跡取りで
あったカール公子が死ぬほどの激しい戦いになった。

 なのに、今度はプロイセン王国の将軍を殺せという、






「ど、う、いう。」

「馬鹿な子ね。もうお父様はプロイセン王国につく気はないの。あんた国際情勢というものを知ら
ないの?」






 嘲るようにヒルダは笑った。






「オーストリアのマリア・テレジア様はシュレジェン奪還のために同盟を組んでプロイセンを倒
そうとあちこちで外交戦略を繰り広げているの。」

「戦争は、終わったんじゃ・・・・・」






 はふるりと首を振る。

 フォンデンブロー公国にいたは、直接オーストリア継承戦争として知っているのは、フォ
ンデンブロー公国がプロイセンに攻め込まれ、オーストリアは助けてくれず、プロイセン王国の
侵入を阻んだがカール公子が死んだというそれだけで、由縁も何も知らない。

 プロイセン王国がシュレジェンをとったなんていう話も、それを取り返そうとマリア.テレジア
が外交をしている話も、知らなかった。






「じきにプロイセンは不利になるわ。だからお父様は貴方のためを思ってるのよ。」






 ヒルダはせりふとは裏腹な冷酷な笑みを浮かべて、に手紙を渡す。

 ギルベルトを、殺すことが、のためだとでも言うのだろうか。





「これはお父様から、」







 アプブラウゼン侯爵家の封印のある手紙をは確認する。

 不義の子であり、認知したとはいえ実子ではないに対しては彼はいつでも冷酷であり、残
酷だった。手紙も存在そのものが恐怖でしかない。

 そしてもそれを仕方がないことだと認めていた。


 だが、人殺しは別だ。ましてや、ギルベルトをだ、なんて、





「わたしに、どうしろと、」






 は手紙を開けることも出来ず、立ち尽くす。







「言ってるじゃない。バイルシュミット将軍を殺してアプブラウゼンに戻れって、」





 ヒルダは腰に手を当てて面倒そうに言い捨てる。

 戻れ、と言われても、父を嫌う母に連れられて諸国を放浪していたがアプブラウゼンに行っ
たのはもう2年も前。母が死ぬ数ヶ月前に、それも数週間だけだ。滞在期間だけを考えれば母の実
家であるフォンデンブロー公国にいた時間の方がはるかに長い。

 ひどい、違和感があった。



 ―――――――――俺が死んだら、おまえはプロイセンの軍人に嫁に行け




 カール公子はそう言った。

 だが父はにギルベルトを殺し、アプブラウゼンに戻ってオーストリアに嫁げと言う。フ
ォンデンブロー公爵はギルベルトに嫁げと言った。

 誰の言うことを聞けばよいのだろう。どうすればいいんだろう。

 これは多分、だけの問題じゃない。

 は父からだと言う手紙を握り締め、俯く。





「何を迷う必要があるの?貴方は、私たちに悪いとは思ってないわけ?」






 迷うそぶりを見せるに、ヒルダは不機嫌そうに唇を尖らせた。






「そ、そんな、」





 は首を振る。

 不義の子である自分を一応認知してくれたのも、感謝している。ヒルダにだって、今までのこと
は悪いと思っている。

 でも、



 ―――――――――おまえがおまえである限り、おまえの居場所はここだよ。ばーか




 屈託なく笑うギルベルトの姿が瞼の裏に浮かぶ。

 ここでうなずくことは、彼の好意への裏切りになる。

 今までは求められれば応じてきた。大人たちの事情の全てに従い、父に疎まれても受け入
れ、母に連れまわされればついてまわり、フォンデンブロー公爵に嫁げと言われればギルベルトと
だって婚約した。


 従順に従ってきた。




 しかし、自分にギルベルトを殺すことなんて、出来るだろうか。






「しっかりしてよね。」






 ヒルダがぎろりとを睨んで帰っていく。

 は廊下で立ち尽くすしかなかった。
























 
知らないままでいたほうが倖せだったのでしょうか