「どうなさったの?廊下で立ち尽くしていらしたときいたけれど」
そう言ったのはエリーザベト妃だった。
あの後は数時間廊下に立っていたのだが、それを女官のマリアンヌに見られていたらしく
休んでから帰るように言われて小部屋へと招かれた。そうこうしている間に、ほかの女官たちがエ
リーザベトにがいると声をかけたのだろう、彼女が心配して自室にを呼び寄せたのだ
った。
「そういえば今日はアプブラウゼン侯爵令嬢のヒルダさんがいらしていたわね。」
エリーザベトはゆったりとした調子だが、少し不愉快そうな声音で言った。
ヒルダがに対してひどいことを言うことは彼女も知っているし、一度見ている。そのため
彼女は極力をアプブラウゼン侯爵家の人間に近づけないようにしてくれており、自
身
もそれをありがたく思っていた。
今日はたまたま会ってしまったのだが。
「あ、いえ、はい。」
はなんと答えていいかわからず、混乱した心持のまま俯いた。
ヒルダの言葉が頭から離れない。ギルベルトを殺してアプブラウゼンに戻れ。オーストリアへ
嫁げ。プロイセン王国にはもうつく気はないと言う話をはどう処理すればよいのか到底わ
か
らない。
ギルベルトを殺さなければならないのだろうか。アプブラウゼンにそのまま戻るべきなのだろう
か。それともすべてを無視してここにいて良いのか。
でも、無視すれば父はギルベルト暗殺を別の人に頼むかもしれない。
「どう、すれば…」
は俯いたまま小さな声でつぶやいた。楽譜の間に挟まっている父の手紙の封は恐ろしくて
まだ開けていない。
「さん?」
心配そうにエリーザベトがの肩をなでる。
そういえばエリーザベトもブラウンシュヴァイク公爵家の出身だったはずだ。大きな家であり、
もともとはオーストリアの元帥の家系でもあった。
「あの、ひとつ、ぶしつけな事をお聞きしてもよろしいですか?」
はおずおずと尋ねる。すると彼女は大きくうなずいた。
「もしも、大切な人が敵同士になったら、どうなさいますか?」
父の家であるアプブラウゼン侯爵家とギルベルトと。
味方をする国家が違うなんて、どうすればよいのかわからない。父に申し訳ないことをしたのも
わかっている。母の浮気で迷惑をかけた。父の味方をしたい思いもある。だが、ギルベルトを殺す
なんてことが、自分に出来るだろうか。かといって事を荒立てないようにと手紙を黙殺すれば、次
に父は暗殺者でも立てるだろう。ギルベルトはまた狙われる。または大切な人を失うかもし
れない。どちらにしても、ギルベルトを殺す結果となるだろう。
父が示す選択を選べば、彼を殺さなくてはいけなくなる。しかしそれをしなければ父への裏切り
になる。父の言葉を国王に告発すれば、大変なことになるだろう。国家反逆罪はどこでも死刑だ。
今プロイセンの将軍を殺してオーストリアに味方をすれば、それは裏切りとみなされるだろう。
二つは、うまく両立しようがない、反対の意見だ。
「難しい質問ね。」
エリーザベト妃はいつもののびやかな様子で少し困ったような顔をしたが、の真剣な面持
ちを見て、真顔になった。
「自分の、気持ちを重要視すると、思う、わ。」
「どちらも、選べないんです。」
「あら、それはとても難しい、」
エリーザベトは頬に手を当ててから、淡く微笑んだ。
「でしたら、貴方にとって、どちらが幸せか、ということかしら。」
彼女の手が、優しくの背中をそっと撫でる。
「で、でも、どちらにも恩があるんです。」
「だったとしても、同じ。どちらが、貴方は幸せだと思う?」
エリーザベトにたずねられては涙ぐむ。
父に対して申し訳なく思っている。不義の子なんかの自分を認知する羽目になって、存在自体が
迷惑をかけてしまった。だからこそ、迷っている。
けれど、どちらが幸せかと問われれば、答えは決まっていた。
「わたしは、」
ギルベルト様のもとに、いたい。
ぽたぽたと涙がドレスに零れ落ちて、俯けば俯くほどきれいなドレスに落ちていく。白地に紫色
のリボンのついたドレスは、たまたまギルベルトが買ってくれたものだ。薄気味悪い色だといわれ
ていたの紫色の瞳を、彼は菫にたとえた。暗い亜麻色の髪に緑色のリボンを絡めて、これ
で菫だと。
ここにいても良いと、居場所を与えてくれたのだって、彼だ。
「さん、貴方は変わらない過去にこだわりすぎている気がするの。」
エリーザベトは泣くの肩に手を置く。
はいつも下を向いて生きてきた。自分は母の不義の子だから、責められても仕方がない。
ひどいことを言われてもそれだけの迷惑をかけたのだから仕方がないと思ってきた。
でも、それはいつまでたっても変わらない過去だ。
「私たちは、確かに運命に翻弄されるわ。でもね、未来を、幸せを、見なくてはだめなの。」
エリーザベトだってそうだ。国王と言うよく知らない相手に嫁がされた。政略的な話に他ならな
い。一見すると不幸な話だ。しかしエリーザベトはそれが不運だったとは思わない。子供もいない
が最高の国王に嫁ぐことが出来た。
趣味に熱中することも許される。人にえらそうに言われることもない。女性としては最高の立場
にある。
「これから、を良くするためには、幸せを見つけないとね。」
エリーザベトはそう言っての目じりにたまった涙をぬぐう。は恥ずかしそうに頬を
染めて俯いた。
「ごめんなさいね、話がそれてしまったわね。」
「い、いえ、」
エリーザベトが謝るとはぶんぶんと首を振る。
そしてぎゅっと胸元でこぶしを握ると、意を決したような表情でエリーザベトの方を見た。
「答えは、決まった?」
「…はい。」
はそれでも未練があるのか、目を伏せて俯きがちだったが、それでもひとつ頷いた。簡単
に割り切れるような決断ではない。これをやってしまえば、ギルベルトは助かるが、大事だ。それ
は物を知らないでも分かった。
持っていた楽譜の間から、手紙を取り出した。は手紙をエリーザベトに差し出す。
「これ…は?」
エリーザベトは宛名のない手紙をひっくり返す。裏には蝋で封がされており印蝋が押され、四つ
に分かれた旗に花が描かれている。
「わたしの、父からだそうです。ヒルダから預かりました。」
アプブラウゼン侯爵家の紋章だ。
エリーザベトは封の切られていない手紙をもう一度眺めてから、を見る。
「貴方は、開けていないの?」
「…はい。けれど、多分ヒルダの話では…わたしの手に負えるものではないと思います。」
は泣き出しそうな様子で目を伏せた。
「開けても?」
「……はい。」
エリーザベトの問いには目をつぶって頷く。
エリーザベトは近くにあったきれいな彫刻の入ったペーパーナイフで封を切り、中を慎重に取り
出す。整った羊皮紙はどこから取り寄せたものだろうか。1枚の手紙はそれでもびっしりと文字で
埋め尽くされている。
「あら、これは…」
エリーザベトの表情が徐々に険しくなる。はそれを感じながらも、俯くしかない。
この行為が何を意味しているか、は明確にわかっていた。父への裏切りだ。手紙の内容は
見ておらずとも、大体ヒルダの話から想像がつく。
読み終わると、エリーザベトはそれをきれいに折りたたみ、もとのように封筒に戻す。
は体が震えて自分の体を抱きしめて、涙を一生懸命つばとともに飲み込んだ。自分が恐ろ
しいことをしている自覚はある。
「……つらかったわね。」
エリーザベトは近くのサイドテーブルにその手紙を置き、先ほどの険しかった表情と打って変わ
って、やさしい声音がに向けられる。
「…」
は答えることすら出来ず、俯く。
「ありがとう、」
エリーザベトはそっと震えるを抱きしめる。
いまだは自分が選んだ道が正しかったのか間違っていたのかすらわからなかった。
ちっぽけな倖福論