王宮の中の軍の官舎にいたギルベルトは昼過ぎに王妃の控えの間に呼ばれた。日ごろこの王宮で
暮らしていない王妃だが、今日はバッハが来て国王が主催する音楽の勉強会に来ているはずだ。そ
れはもだ。もともと父親であるアプブラウゼン侯爵に疎まれており、彼と会う可能性のある
王宮
は避けたいところではある。だが勉強会に行った後の彼女はギルベルトの良くわからない話を
してい
るが、それでもとても楽しそうなので、ギルベルトも勉強会への出席自体は許可していた。
「なんだってんだ。」
ギルベルトは銀色の短い髪をかきながら、廊下を歩いて王妃の間へと向かう。
そもそも王妃に呼び出しを食らうようなことはたいていのことだろう。だが最近の
とギル
ベルトの関係は誰が見てもいたって良好で、嫁入り前の不健全交渉だって行っていないから
、責めよ
うがないはずだ。
だが、国王の近衛兵がばたばたしていたから、また別のことが王妃の間であって、その報告の可
能性もあった。
いったい何なのだろう。
悩みながら王妃の控えの間の近くに行くと、いつもどおり見慣れた女官が控えていた。
「お待ちしておりました。国王陛下もすでにいらっしゃっています。」
「はぁ?フリッツが??」
ギルベルトは思わず素っ頓狂な声を上げた。
王妃と国王の不仲−というか国王が王妃に興味を示さない話は有名だ。用がなければあまり訪れ
ることはないはずなのだが、いったいどうしたのだろう。
首をかしげていると、女官が扉を開いた。
「あぁ、待ってたぞ。」
フリードリヒは立ったまま何かの紙切れを持っていた。表情が険しいのは仕事の疲れか。
勝手に推測して中を見回すと、カウチに座る王妃のエリーザベト・クリスティーネの隣に
が座っていた。エリーザベトがの肩を抱き、は彼女にもたれて抱きしめられている。
目元は赤くて、ギルベルトは首をかしげた。
「いったい何事なんだ。」
少し早足で中に入る。するとは声にびくりとして、ますますエリーザベトに体を寄せた。
「なんだ。その手紙。」
「あぁ、アプブラウゼン侯爵から嬢へだ。」
フリードリヒは早口で答えてギルベルトに手紙を突きつける。
ギルベルトは手紙をためらいがちに受け取って、の様子を見た。この手紙が、彼女の泣い
ている原因なのか、と、紙切れ一枚に振り回されるに笑いそうになったが、内容を読み進め
ていくとそんなこと到底いえそうになかった。
「・・・・なんだこりゃ」
ギルベルトは手紙を握り締めて吐き捨てる。
手紙の趣旨は前にもギルベルトがもみ消した手紙と同じだった。早くアプブラウゼン侯爵領に帰
ってくるようにとのことだ。しかし前回と違うことがいくつかある。
ひとつは今回は帰ってこれば別の嫁ぎ先を用意しているという点だ。それもオーストリア側へ
の。そしてもうひとつはギルベルトの暗殺だった。にギルベルトを殺せといっているのだ。
ギルベルトはを見下ろす。
父親に疎まれていたとしても、が父を慕っていたのは知っている。その父親が自分の娘に
言ったのは、婚約者を殺せという言葉だったのだ。ギルベルトは今、人としては有数の将軍として
名をはせている。国であるギルベルトを殺すことなど簡単にはできないのだが、知らぬからこそ
暗殺しろといったのだろう。
そしてが罪悪感から従うであろうと思ったから。
彼の誤算は、は、彼が思う以上にギルベルトに心を寄せたことだろう。
「ろくでなしの典型みたいな奴だな。」
散々を疎み、フォンデンブロー公国にいても手紙のひとつもよこさず、婚約したら結婚に
反対
して持参金は出さないと言い放ったにもかかわらず、今度はその地位を利用し、ギルベルトを
殺さ
せようとする。残酷なんてものではない。
「命令でアプブラウゼン侯爵令嬢のヒルダはすでに捕らえてある。すでにこの手紙がアプブラウゼ
ン侯爵からのもので、嬢に渡したということは証言してくれたよ。」
フリードリヒが言うと、はびくりと肩を震わせた。
は疎まれ、憎まれていたとはいえ、ヒルダのことも気にかけていた。自分の密告によって
捕らえられてしまった姉には申し訳なさがあるのだろう。
だが、ギルベルトも表情が険しくなるのをとめられなかった。
「呼びつけてごめんなさいね。でも、わたくしたちの手には到底負えないものだと思ったのよ。」
エリーザベトはの背中をやさしく抱きしめてなだめながら言う。
は表情がもう伺えないほど俯いて震えていた。これが反逆であることが理解できているの
だろう。どこの国でも、国家反逆罪ほど重い罪はない。もちろん告発し、ほとんどの場合フォンデン
ブロー公国の縁者であるとされているが責めを受けることはないが、それでも父が罰される
ことには抵抗があるのだろう。
不義の子で自分の子ではないを認知した父を、実父でないとわかっていても慕っていた。
もしもギルベルトに少しでも思いがなければギルベルトはに殺されていたかもしれない。そ
れくらい、は父を大切に思っていた。その心を利用しようとしたのはアプブラウゼン侯爵で、
罰を受けて当然だ。
それでも、は良心の呵責にさいなまれている。
「封はわたくしがあけましたから、まちがいはありませんよ。」
エリーザベトが困ったように付け足す。改ざんの可能性もないということだ。
「、」
ギルベルトはの座るカウチに歩み寄るの前にひざを着く。エリーザベトは抱きしめ
ていたをゆっくりと離し、ギルベルトのほうを向くように促す。
しかし、が顔を上げることはなく、乱れた前髪のせいで表情すらうかがえない。
「、」
もう一度名前を呼んで、血が出るほど握り締めたの手に、自分の手を重ね、そっと開かせ
る。
「あーあ、こんなにしちまって。」
爪が特別長いわけでもないのに、の手の平には深々と傷跡が刻まれていた。ギルベルトは
ポケットからハンカチを出してきて、それを破いて、簡単に包帯を作り、手に巻く。こういう事は
戦場に
出て長いから得意だ。傷に痛かったのか、はびくりと大きく体を震わせた。
もともとは力の強い方ではない。それなのにこんな傷が出来てしまうほど、は悩ん
だのだ。
一番ことを穏便に運ぶのは、黙殺することだった。
ギルベルトを殺すこともせず、アプブラウゼン侯爵家に帰ることもせず、何も言わず、手紙を燃
や
してしまえば、それで全てはゼロになる。アプブラウゼン侯爵はギルベルトを殺す別の方法を考
え
ただろう。だが、そうすればギルベルトはまた別の人間今度は暗殺者に狙われるかもしれない。
は何も知らないかもしれないが、その危険性についてはわかっていたのだ。
「ごめん、なさ、い、ごめ、」
は自分の手を握るギルベルトに呪文のように繰り返す。それは、誰に言っているのだろう
か。
ギルベルトはの小さな手を自分の両手で包み込む。守ろうと思ったのに、守られたのはギ
ルベルトだったらしい。
ギルベルトはの前にひざをついたまま、の手を額に押し当てる。
「ありがとな。」
とたん、ひぅっとが息を呑んだのがわかった。
何を言われるかと、緊張していたのかもしれない。大人の勝手で翻弄されてきたにとって
は、
父親へとはいえ初めての他人への反抗だ。心の負荷はギルベルトには想像できない域だろう。
だから、あえてそれ以上は何も言わない。
ギルベルトは下からの顔を覗き込んで笑う。
「ほら、ぶっさいくになってんぞ。せっかく普通の顔してんだから。」
もともと特別美人ではないが、涙でぐしゃぐしゃで目元も真っ赤。表情もゆがめてひどい顔にな
っていた。ギルベルトはその顔を屈託なく笑って、の頭を自分の方に引き寄せた。
エリーザベトはギルベルトの言い方に眉を寄せたが、フリードリヒに止められて何も言わなかった。
その腕を その存在を