アプブラウゼン侯爵によるバイルシュミット将軍暗殺未遂が一応アプブラウゼン侯爵の逃亡とい
う形で幕を閉じた後、誰が見ても分かるほどには沈んだ。

 フリードリヒが主宰する音楽の勉強会に出席することも、エリーザベト王妃に呼ばれて宮廷に足
を運ぶ事もなくなり、バイルシュミットの屋敷でじっとしていることが増えた。体調が優れないのも
あるらしく、アプブラウゼン侯爵の件で神聖ローマ帝国との利権争いも増えたために軍事的に忙し
くなったギルベルトと顔を合わすことも減った。あっという間に9月も半ばにさしかかり、結婚するま
で1ヶ月となっても、の気分はなかなか晴れないようだった。



 仕方ないと言えば仕方ないのかも知れない。

 血が繋がらぬとはいえアプブラウゼン侯爵はの父であり、父の罪を告発したのは
身なのだ。母親の違う姉のヒルダは幽閉と決まったが、それでもその原因を生み出したのは
で、彼女の性格からしてそのことに心痛めるのは仕方のないことだ。






「まぁ、そのおかげでお前は助かったわけだがな。」






 が沈んでいるという話をギルベルトがすると、フリードリヒはあっさりとそう言った。





「ひとまず、良かったじゃないか。おまえの優先順位はどうやらアプブラウゼン侯爵以上になった
らしいな。」





 確かにその通りだ。仮に父親がギルベルトを殺そうとするのを黙っていれば、事態が発覚するの
はギルベルトが 殺されてからだったかも知れない。その恐れがあったからこそ、は父を慕って
いながら父の計画を 密告したのだ。

 彼女の中の優先順位において、アプブラウゼン侯爵よりギルベルトが上に置かれたと言うことだ。
従順である彼女の性格を考えれば、父親よりもまだ結婚していない、それも勝手に婚約を決めた自
己中な婚約者に軍配が上がったのだから、凄いことではないだろうかとフリードリヒは言う。





「あとのライバルはフォンデンブロー公爵ぐらいか。」





 フリードリヒはいっそ清々しいほどの笑顔で手を叩く。

 が従いそうな人間はこの間めでたく正式なの後見人となったフォンデンブロー公国
の主である公爵くらいだ。の今や唯一と言っても良い近しい親族で、アプブラウゼン侯爵に
疎まれるを保護しており、ギルベルトとの婚約を決めたのも彼で、は全面的に彼の言
うことに従っている。

 公爵は老人なので、老い先が短い点ではあまりに寿命の長いギルベルトの勝利か。





「そう言う話をしてるんじゃねぇよ。」

「おや、てっきり君は喜んでいるかと思っていたけどね。」

「いやそれは、嬉しいけどな。」






 ギルベルトはあっさりと、素直に認めた。

 は言ってしまえばギルベルトを選んだわけではなかった。

 婚約は母の死後からを保護していたフォンデンブロー公爵と、ギルベルトが勝手に決めたも
ので、に決定権はなかった。ギルベルトは彼女を見て、良いなと思ったわけだけれど、
は違う。

 ギルベルトとしては今更彼女を手放すのは嫌だからに選択権を与えなかったけれど、どこ
かで他人よりも自分を選んで欲しいと、自分でなくては嫌だと思って欲しかった。

 少なくともは父親とギルベルトを天秤に掛けて、ギルベルトを選んでくれた。ギルベルト
が死ぬのは嫌だと思ってくれた。ギルベルトの与える場所を居場所だと認めてくれた。


 それはとても嬉しい。顔がにやけるほどに。





「でもさ、沈んでるんだ。」





 ギルベルトは椅子に反対向きに腰掛けて、仕事をしながら聞いているフリードリヒを不満げに見
る。





「もともと彼女は暗いじゃないか。」





 フリードリヒは気のないふうで答える。

 は確かに元々明るい性格でもないし、言ってしまえば暗い。すぐに俯くし大人しい。地味
だ。でもあんなふうに落ち込んで体調を崩すこともなかった。王妃や国王の誘いを断るほどに閉
じこもることはなかった。地味だと言っても、ただ単に普通の女のようにパーティーなどに頻繁に
参加しないだけで屋敷の中は自由に動き回っていた。

 なのに、今のときたらほとんど部屋からでない。あれほど好きだったピアノも弾かない。
体調が悪いのもあるが、落ち込んでいるのは明白だった。






「疎まれていたと言っても、彼女は父親を慕っていたからな。仕方ないんじゃないか。」 






 フリードリヒは書類にサインをして隣に置く。ギルベルトは椅子をがたがたさせてその答えに頬
を膨らませた。






「じゃあ俺はどうすりゃ良いんだよ。だったら、俺を見捨てたら、は楽だったのか?」






 ギルベルトを殺すこと認めれば、殺せば、は楽だったのか。これほど悩んだり、体調を崩
したりしなかったのか。

 もしくは、ギルベルトを殺さなかったことを後悔しているのか?

 だから彼女は沈んでいるのかと思うと、ギルベルトの方も沈みそうだった。






「どちらを選んでも、彼女は罪悪感を持っただろう。」

「そんなの選んだって言うのかよ。」

「おまえは捨てた選択肢に関して未練がなさ過ぎる。それは長く生きていく上では必要かもしれな
いが、そんな簡単なものじゃないんだ。」





 フリードリヒは言いながら、を思い浮かべる。

 も後から自分が良心の呵責に苛まれることも、父を裏切ったという罪悪感に魘されること
も、分かっていただろう。ギルベルトを助けて父を裏切ると決めた時には、起こる事態が大きくな
ることも知っていたはずだ。


 ある意味ではそう言った罪悪感を超えても、ギルベルトを助けたかったとも言える。


 それは捨てた選択肢を振り返ることをしないギルベルトよりも遙かに大きな“想い”だ。後悔も
すべて理解していながらも、それを凌駕するほどに、ギルベルトを想っているのだから。





「本当に、おまえは長く生きてるのかと頭を悩ませるときがあるよ。」






 プロイセンそのものであるギルベルト。彼はフリードリヒの父親にも祖父にも寄り添っていた。
ホーエンツォレルン家の歴代の王に、そうやって寄り添って共に歩んできたのだろう。

 云百年もの間、否もっとか。彼は生きてきたはずなのに、どうにも子供のような、少年のような
生き急ぐ様子がある。

 それをフリードリヒは不思議だと思うが、これはプロイセンの国家そのものなのだろうか。


 大国にのし上がろうと生き急ぐ。それこそが、己の原型であると、





「ひとまず、彼女は選択を後悔しているのではないよ。ただ、自分が起こしてしまった事態をまざ
まざと見て、…そうだな、恐ろしいことをしたと、そう思っているんだよ。」





 フリードリヒは言葉と感情をかみ砕いて説明したが、ギルベルトは不満そうな顔をした。どうや
らわからなかったらしい。






「俺には難しくてわかんねぇよ。どうやったらは明るくなるんだ。」

「それは無理だろう。元々彼女は暗い。」

「…最近頓に暗いだって、」






 ぶすっとした顔で言い捨てる。





「あー俺にはわかんないぜー!」 






 ギルベルトは考えるのも嫌になってきたのか、椅子で手を挙げて反り返る。






「あいつ笑ったら可愛いのに。」

「口から惚気が出てるぞ。ついでに惚れた男の可愛いほど女の評価で当てにならない物はない。」






 フリードリヒはギルベルトの言葉をばっさりと切り捨てて、溜まった書類をきちんとまとめ、揃
えていく。





「明日から休みをやるから、結婚式まで一ヶ月、ちょっと家でゆっくりしろ。」

「え、マジで?」

「最近働き通しだったからな。」





 アプブラウゼン侯爵が神聖ローマ帝国に逃げて向うに出仕し始めたらしくその関係上最近は軍
隊への指示も出してもらわねばならず、ギルベルトを忙しく使っていた。

 最近少し動きも落ち着いてきたので、急を要することもないだろう。それにもし何かあればバイ
ルシュミット邸は王宮からも近いので呼び出しをかければいい。馬で20分程度のものだ。





「感謝するぜ。」





 笑ってギルベルトは立ち上がり、帽子を取ってうやうやしく国王に頭を下げる。





「日頃からそのくらい礼儀正しくあって欲しい物だな。」





 フリードリヒは嫌みを言ってから、ため息をついた。









 
どうして願いは尽きることを知らないのだろう