「へぇ、一応恋愛結婚だったんですか。」






 は隣のマリアンヌを見つめる。彼女は女官でまだ若いが、伯爵家に嫁いだ。今聞いていた
のはその話だった。






「そうですよ。兄が彼を連れてきていて、一目ぼれで、」






 だから話を進めてもらったのだと、マリアンヌは恥ずかしそうに笑う。

 彼女はフランス貴族だが、先のオーストリア継承戦争の前からフランスとプロイセンは同盟を組
んでおり、仲が良かった。その関係で行き来があったのだろう。マリアンヌの夫はプロイセン王国
の軍人で、ギルベルトの話もよく知っていた。






「バイルシュミット将軍のお話は、かねてから聞いていたんですけど、実際にお会いして驚きまし
たよ。」

「どうしてですか?」

「だってお若くてハンサムでしょう?」





 にこりとマリアンヌは笑う。確かにハンサムと言われれば彼はハンサムの部類なのかもしれない
も思う。今はやりのかつらまがいのくるくるヘアーではないし、髪も長くないが、颯爽と帽
子をかぶって馬を翻す姿は、女性ならばあこがれるだろう。

 は馬を自在に操る時点で彼にあこがれるが、たぶん問題はそこではない。





「王妃様の控え室は、バイルシュミット将軍の執務室まで行くには遠くて不便ですわね。」






 マリアンヌは少し悪態をつく。も淡く笑んで頷いた。長いドレスは重たくて、歩くのはつ
らい。

 王宮の一角にある王妃の控え室は本来王宮に居室を持っていない王妃のためにあるが、軍の官
舎とは一番遠い場所にあって長い廊下を抜けていかなければならなかった。彼は昼過ぎに一度王
宮を訪れると言っていたから、昼過ぎには執務室にやってくるだろう。

 肖像画を描こうと言い出した王妃の意見を止めようとギルベルトに自分でその件の話を言いに行
くと言っただが、彼女にはが肖像画を描かない方面に持って言おうとしていると言う
ことはばれていたようで、それではフェアではないから、女官のマリアンヌを肖像画擁護派として
連れていくように言われてしまった。


 だからふたりでとことこと廊下を歩いている。



 途中衛兵やら、士官がばたばたと走り回っているのを見て、は首をかしげた。







「今日はずいぶんと軍人さんが多いのですね。」





 姉のヒルダが軟禁場所に移送されると聞いていたが、それにしても随分と兵士が多い。女性一人
を移送するだけなのだから、これほど人数が多いのは不思議だ。ヒルダのことを思い出して、
はずきりと心が痛むのを感じた。






「そう、ですわね。聞いてみますか?」

「いえ、こんなに走っていらっしゃるということは、お忙しいのでしょう。」





 は首を振って、廊下を歩いていく。忙しいのに呼び止めて事情を聞くのはかわいそうだ。


 大きな窓から庭を眺めることができ、絵画や彫刻の並べられた廊下は広くて、歩くだけでも楽し
いし、一級の品で中にはイタリアやフランスものもある。さすがはプロイセン王宮だが、ただ天井
画を見ていると首が痛くなりそうだ。廊下の両側にはいくつもの部屋がある。最近建てられたこの
ポツダムの宮殿はとても美しくて、お呼びがかかって行けるだけで少し気分が弾む。






「フリードリヒ王の治世から、プロイセンは随分とにぎやかになりましたわ。」






 マリアンヌがうれしそうに笑う。






「でも、マリアンヌさんはフランスの方でしょう?」






 は母に連れられてフランスを訪れたときにきらびやかな建築物に驚かされた。マリアンヌ
がフランス出身だというならば、フランスはさぞかし【にぎやか】だっただろう。少なくとも今のプロ
イセンよりもずっと。






「フランスはすさまじいですもの。大体…」






 マリアンヌは機嫌よく話していたが、ふと顔を上げる。言葉が途切れて、も首をかしげて彼
女の見ている方向に目を向けた。

 廊下に面している部屋の扉が開け放たれており、廊下の中央にみすぼらしい女性が立っていた。
ぼろぼろのドレスに埃か何かでくすんだ金色の髪。女性がゆらりと動く。

 マリアンヌが「ひっ、」と引きつった声を上げる。は、声さえも上げられなかった。





「お幸せそうね、」






 竦むほどの憎悪の光がを捉える。





「おまえ!!」






 遠く廊下の向こうから衛兵が走ってこようとしているのが女性の肩越しに見えた。しかし彼らは
すぐに足を止めた。彼女がに突きつけたものを見たから。





「ひる、だ…」





 は小さく、姉の名前を呼び、自分に突きつけられたものをぼんやりと瞳に写す。黒なのか
銀なのか光るその筒を見たことは狩猟のとき以外一度もない。

 銃は大きな窓から入ってくる光に反射して、きらりと光った。





「良いご身分よね、」






 掠れたヒルダの声音に、は動けなかった。




 血の繋がらない姉。彼女の不幸の全ては、が作ったものだった。

 姉とは母が違う。ヒルダの母は、の母と結婚するために離婚され、彼女は母を失っ
た。の母が死ぬと、今度はヒルダが婚約予定だったフォンデンブローのカール公子が、ヒル
ダではなくとの婚約を望み、彼女は婚約者を失った。

 そして、はまた、ギルベルトの暗殺を企てた父・アプブラウゼン侯爵のことを密告し、ベル
リンに父からの手紙をに渡すために来ていたヒルダは、その計画の共謀者として逮捕され
た。

 父にギルベルトを殺せといわれたは、彼を殺したくなくて、父の行いを密告した。だが、ヒ
ルダがベルリンを出てから事を発覚させても良かったはずだ。だがは、ギルベルトに暗殺者
が来たりするのを恐れて、自分の心の重みに耐えかねて何も考えずに、父からの手紙を王妃に渡
た。



 それによって、彼女は逮捕された。




 は母方のフォンデンブロー公爵の養女となり名実ともに父の子供ではなくなって罪を受け
ることも、中傷を受けることもなくなった。

 ギルベルトの隣にいられる幸せは、罪悪感を薄れさせた。でも、





「憎いわ、心底あんたが憎い。」





 簡潔な言葉に込められた恐ろしく深い憎悪。向けられた銃口に恐怖は感じなかったが、のしかか
る罪悪感がを動けなくする。






「あんたに、幸せなんてあげない。」






 ヒルダは、低い声でそう言った。





「やめろ!!」





 悲鳴のような衛兵の声が響いた。衛兵の数はいつの間にか増えていて、しかしが人質に
なっているため動けない。

 は近くにいたマリアンヌの背中を押して、衛兵の方に行かせる。マリアンヌは拒絶するよ
うに、首を振ったが。目で促して衛兵の方へと歩かせた。マリアンヌが離れていくことに
安心した。これでヒルダがどんな諸行を自分にしたとしても、彼女が巻き込まれることはない。


 はヒルダを静かに見上げる。



 思えば、姉妹というには何も繋がっていなかった。言ってしまえば名前だけだ。は母の不
義の子で父とは血は繋がっていないしヒルダとも母が違う。名前が一緒なだけ。が不義の
子と知るヒルダは、を召使のように扱うことも多かった。それをも仕方のないことだと
認めていた。


 貴方の幸せを奪うつもりはなかったの、と。

 言うのは簡単だ。でも、そこにある奪った事実は変わらない。は自分の幸せのために、彼
女の幸せを売った。これはその罰なのかもしれない。






「…ごめんなさい、」






 額に銃口を突きつけられても、は謝罪の言葉しか口にできなかった。

 いつもヒルダの目には、に対する憎しみがあったけれど、もっと奥には深い悲しみが見え
ていた。だからはいつも酷いことをされても何も言えなかった。



 ヒルダの唇の端が上がる。ゆっくりとトリガーが引かれていく。


 怖いとは思わなかったけれど、は瞼を静かに閉じた。

 ギルベルトはここで殺されてしまうを見て、どう思うだろうか。死んでしまうのは悲しいけ
れど、それでも、はやっぱり父の言いつけに従ってギルベルトを殺さなくて良かったと思
った。ギルベルトを暗殺するという父の計画を、国王に密告してよかったと思う。自分が殺される
ことになった今でも、後悔はない。

 絨毯に膝をつき、カウチに座るの手を額に押し当てて、彼は言ってくれた。




 ―――――――ありがとな。





 小さな彼の笑みを思い出す。

 は静かに目を開く。緋色に染まる世界を、ぼんやりとその紫色の瞳に写した。





 
多分ね それくらいにはあなたのことを愛していたんですよ