は穏やかな表情で目を閉じた。彼女の額に銃口を突きつけた女が引き金を引こうとした。

 距離はだいたい50メートル。遮蔽物はまったくない、まっすぐな廊下。目標は小さく、もしも
外したときの代償はだ。



 引き金を引いたギルベルトに、躊躇いはなかった。

 大きな銃声が一発、高らかに王宮に響き渡る。緋色に染まる綺麗な大理石の廊下。




 は息が抜けたように大理石の床に崩れ落ちた。






様!!」






 一番近い位置にいた女官のマリアンヌが最初にに駆け寄り、の体を抱き起こす。






「レディ!」






 衛兵たちも慌てての方に歩み寄った。ギルベルトも銃を放り出して駆け寄る。は緊張
のためか青い顔で崩れ落ちていた。ギルベルトは彼女の近くに膝を着いて、軽く肩を揺さぶる。す
ると、うっすらと目を開いた。






「ギル…さ?」






 小さく呼んだ名前は、この間ギルベルトが教えたものだった。

 こんな時にあれほど恥ずかしがってなかなか呼んでくれなかった名前をあっさりと呼んでもらえ
るなんて、変な話だ。むなしさの中に変なおかしさがあってなんとも形容しがたい気分になった。





「良かった…」






 ギルベルトは自分が吸い込んだ息を全て吐き出すように深く深く言葉を吐き出した。

 が銃を突きつけられているのを見たとき、心臓が縮んだ。戦場でもあれほどあせったこと
はない。は暴れようとも抵抗しようともしなかったが、そのことがますますギルベルトをあせ
らせた。近くにいた衛兵の銃を取り上げて構えた時には、すでに迷いはなかった。



 あてる自信は、あった。



 を抱えていたマリアンヌが体を離し、場所をギルベルトに譲る。ギルベルトはを抱
きしめて、自分の手が震えていることに気づいた。






「良かった、本当に良かった。」






 衛兵もいるとわかっていたが、言葉が止まらない。強く強く、を抱きしめて、彼女の存在
を感じる。少しぼんやりとしていただったが、やっと意識がはっきりしてきたのだろう。苦
しそうに呻いた。

 マリアンヌも涙ぐんでの方を見ている。






嬢に怪我は?」






 落ち着いた様子でフリードリヒが身をかがめての様子を見やる。






「あぁ、無事だ。怪我はねぇ。」






 ギルベルトは彼を振り返って言った。するとフリードリヒも少し安堵したような顔をして、ギル
ベルトの肩をたたく。






「さすがお前だ。」






 狩猟の時もそうだったが、ギルベルトは銃の腕では定評がある。距離は50メートルほどだった
が的は人間の頭で、外せば近くにいるにあたってしまってもおかしくなかった。それを綺麗
に当てた彼の技術は相当のものだ。

 そしてその技術が、ギルベルトが一番愛する少女の命を助けた。






「あの…、わたし、」






 は事態が把握できていないようで、戸惑うようにギルベルトを見上げる。彼女が家を出た
時、ギルベルトはまだ屋敷にいて、王宮に出向くのは昼過ぎの予定だったから、此処にいることに
驚いているのだろう。




「ヒルダが逃亡したって話を聞いたから、呼び出されたんだよ。フリッツに。」





 ギルベルトは言って、から少し身を離す。はゆっくりと頷いて、それから顔を上げ
た。





「ひ、ルダ、は…?」






 紫色の瞳を丸くして問うその声への答えを、ギルベルトが話すことはできなかった。誰もが口を
つむぐ中で、ぼんやりと視線をさまよわせていたは、ギルベルトの肩越し、衛兵の間に赤を
見た。





「あ、か、」





 が小さな声で呟く。ギルベルトはが見ている、見てしまったものに気づいて、硬直
する。

 そこにあるのは、倒れ伏した女の死体だ。を疎み、憎み、悲しんだ、彼女の姉の遺体。ギ
ルベルトの銃弾は綺麗に彼女の頭の横を打ち抜き、血が大理石の白の上に飛び散っている。



 ひゅっと彼女が息を呑んだのがわかった。





「きゃぁああああぁあ!!」





 一瞬、彼女の口から漏れたとは思えないほどの、酷い悲鳴だった。おとなしい彼女からは到底想
像できないほど甲高い悲鳴。

 細いの体が震えだして、は頭を抱え、ぎゅっと自分の髪を握り締める。瞳にかかった
涙の膜があっという間にの紫色の瞳を覆い、ぼろぼろと零れ落ちる。





「いや、ぁ…赤、い、怖、…いかな、」






 いかないで、と彼女は首を振る。






「おい、!」






 ギルベルトがの肩を強く揺さぶるが、の紫色の瞳は現実を映してはいない。確かに
人が殺される場面など、普通にしていれば見ることなどないだろう。ましてや貴族の令嬢ともなれ
ばなお更だ。だからショックは大きいと思う。

 しかし、彼女の様子はそれとはまったく違うようだった。彼女は【赤】を見ただけで、それ以上を
見ていないのだから。





「しっかりしろよ!!」






 がたがたと震えて いかないで、怖い、と喘ぐをどうすればいいかわからず、ギルベルト
の方が泣きそうな顔をする。精神的に強い彼にとって、錯乱状態のは理解しがたいようだ。
正気に戻らない、戻れないは震えて動けるような状況ではない。






「大丈夫だ、どこにもいかない。」





 見かねたフリードリヒが、はっきりとした声音で言って、の頭に触れ、そっと撫でる。

 彼はの望む言葉を持ってして、落ち着かせようとする。






「怖くはない。誰もどこにもいかない。君を置いていったりしない。」





 が言葉にびくりと反応した。





「彼は君のそばにいる。」






 呪文のように、フリードリヒはそう言いながらの頭を撫でる。震えは相変わらずだが、
がこぼしていた意味のわからない嗚咽が止まり、小さくフリードリヒの言葉を唇だけで反芻し た。


 そばに、いる、と。



 ゆっくりと体の震えも止まっていく。

 ギルベルトは驚いたような顔でフリードリヒを見ると、「抱きしめてやれ、」と短く命じられ
をぎゅっと抱きしめた。すがるようにもギルベルトの服をぎゅっと掴む。





「もう、運べるな?」






 フリードリヒは確認するようにギルベルトに尋ねる。震えも止まっているし、は酷くおとな
しい。ギルベルトはそっと彼女の視界に赤が入り込まないようにを抱き込み、そして立ち
上がった。






「私の控えの間に運んでかまわん。」





 フリードリヒはギルベルトに指示を出してから、その辺りにいた衛兵を捕まえる。






「医師を連れて来い。良いな。」

「はい。」





 衛兵は緊張した面持ちで敬礼を返し、走っていく。

 ギルベルトがを見ると、顔色は青かったが、気を失っているようで、規則的な吐息が聞こ
えていた。頬には涙のあとがある。亜麻色の長い髪は乱れていた。






「さっきの、なんだったんだ。」






 頭がおかしくなったみたいだ、とギルベルトは思った。名前を呼んでも、反応しない。






「…仕方ないさ。」






 フリードリヒは息を吐いた。少なくとも彼にはの心を理解できる何かがあるらしい。





「ヒルダ嬢は、死んだか。」

「当たり前だろ。一発で殺せるように、頭を打った。」






 ギルベルトは投げやりに言い捨てた。

 もしも仕損じれば、が撃たれる可能性があった。だからすぐに戦闘不能にしなければなら
ない。殺す気で、頭を狙った。






「…かわいそうにな。」






 フリードリヒは目を細めてを見つめる。

 青い顔からは、何もうかがえなかった。







 
感情と心臓は対等であるのか