苦しくないだろうか、とギルベルトはカウチに横たわるの頭を自分のひざにのせる。青い
顔のを見た医師は、彼女が起きたらまた呼んでくれと言って部屋から退出した。もしも錯乱
状態になるのならば起きないとわからないと言うのが彼の話だった。
「ごめんな、」
ギルベルトはの額をそっとなでて、汗で張り付いた前髪を払ってやる。
ヒルダの遺体は簡単な検分の結果、即死だったとの見解がなされた。ギルベルトの撃った銃弾
は彼女のこめかみを正確に打ち抜いており、助かりようのない傷であったと言う。本来ならば銃を
王宮で構えるなど許されないことだが、一応、フリードリヒが許可したということで罪は不問とされ
た。
を殺そうとしたのだから、どのみちヒルダは捕まっても処刑されただろう。本来ならギルベ
ルトを暗殺するのに加担しただけでも即刻処刑でおかしくはなかったのだ、それをが懸命
にあちこちに働きかけて軟禁におさめたというのに、その彼女を殺そうとしたのだから、死刑は当
然だった。だから、あの場で殺さなくても処刑されていた。
しかし、ギルベルトはぐっとこぶしを握り締める。
――――――あ、か、
突然血を見た途端にそう言って泣き始めたの様子は、明らかにおかしかった。
ギルベルトがヒルダを殺したという事実は、理由はどうあれ変わりない。は疎まれてはい
ても、姉を慕っていた。そのヒルダをギルベルトはを助けるためとはいえ、手にかけてしま
った。
「許しては、もらえないか。」
は、自分が殺されても人を殺すことを拒絶しただろう。そういう女だ。戦場に出るギルベ
ルトにとって殺すことは生きることだが、にとっては違う。それは理解している。
ギルベルトはヒルダよりもが大切で、に生きていてほしかった。でも、のヒ
ルダを失った悲しみが、それによってなくなるわけでもない。
憎まれてしまうかもしれない、
錯乱状態になって泣きじゃくったを見て、ギルベルトのほうが泣きそうになった。自分が
怖いのだろうか。
彼女に目覚めてほしい。でも、目覚めてほしくない。彼女の瞳に自分がどう映るのか、それが恐
ろしい。
「彼女は起きたか?」
フリードリヒが部屋に戻ってきて、すぐにのことをギルベルトにたずねる。ギルベルトは
首を振った。が目覚める気配はない。
フリードリヒは「そう・・・」と一言うなずいて、先ほどの事件の報告書らしき紙切れをギルベル
トへと手渡す。そこにはヒルダがに向けた銃がプロイセン軍支給のものであるとか、ヒルダ
が隠れていたのは廊下に面した一室だとか、そういったことがつらつらと書かれていた。ちらりと
ギルベルトは目を通してから、フリードリヒを見る。
彼は向かい側の椅子に腰を下ろし、足を組んだ。
「しけた面だな。」
「しけたくもなるぜ。に嫌われたかもしれないんだからな。」
ギルベルトは言葉を吐き出して、ため息をつく。するとフリードリヒはに目を向けた。
「…別に叫びだしたのは、おまえがヒルダを殺したのが原因ではあるが本質的には違うだろう。」
はヒルダの遺体を見て叫びだしたわけだが、おそらく本質的には関係ないはずだ。彼女の
中に眠るトラウマを呼び起こすきっかけになっただけで、ヒルダの死でなくても、同じだっただろう。
彼女にとって赤は死と喪失を呼ぶものなのだ。
ギルベルトはよくわからないという顔で首をかしげている。フリードリヒはため息をついた。こ
の男
は彼女のことを好きだというが、彼女の過去を知ろうとしたことはあるのだろうか。
「おまえ、嬢の母親の自殺は聞いたことがあるか?」
「…なんとなーくは。」
ギルベルトはあいまいな言葉を返す。
と婚約するにあたって適当には彼女の経歴も調べた。
母はフォンデンブロー公爵の従兄弟の娘マリア・フォン・フォンデンブロー。父はアプブラウゼン
侯爵ルドルフ・フォン・アプブラウゼン。姉のヒルダ、兄にヨーゼフがいるが、二人の姉兄とは生憎
母親が違う。マリアはルドルフとうまくいっておらず、結婚後すぐに生まれたを連れて諸国
を放浪していたが、多くの場合は実家のフォンデンブロー公国に滞在していた。が12歳の
時にマリアはイングランド滞在中に死亡。父に疎まれていたは母の縁を頼ってフォンデンブ
ロー公国に身を置いた。
これがギルベルトが知る、の情報の全てだ。
あと、彼女から聞いたのはフォンデンブローの後継者だったカール公子があのオーストリア継承戦
争で死ななければ婚約予定だったことと、実はは母の不義の子で、父はアプブラウゼン侯爵
ではない。それくらいか。
「もう少しおまえは、彼女についてよく知るべきだな。」
フリードリヒは仕方ないという顔をして立ち上がり、棚にあった本の中から紙束を取り出して、
また椅子に戻った。
「まず、だ。嬢は母親に連れられて諸国を放浪していたわけだが、実家のフォンデンブロー
公国を除けば、母親の滞在先はハノーファーか、多くの場合イングランドだ。」
書類はの調査書らしい。フリードリヒは淡々と読んでいく。
ハノーファーといえば現在、イギリスとの同君連合となっている。1714年ハノーファー選帝侯で
あったゲオルグがイギリス国王ジョージ1世として即位しているためだ。現在はイギリス国王ジョー
ジ2世の統治下にある。
「なんでイギリスなんだ?」
「聞いてないのか?嬢の実の父はイングランド貴族だったって話。母親の墓所はイングラン
ドにあるらしい。そして彼女が自殺したのもイングランドだったそうだ。」
フリードリヒはなんともいえない表情で目を細める。
「嬢は、母上の死を、目の当たりにしたらしい。」
「目の当たりって、」
「そのままだ。飛び降り自殺を庭で見てしまったらしい。カール公子とともにバラ摘みに庭に出て
いたそうだ。」
飛び降り自殺というのは、かなりひどいものだ。ギルベルトは見たことがないが、大砲で吹っ飛
ばされた人間くらいのひどいもので、戦場にいるギルベルトですら気分が悪くなると思う。母がそ
うしてこの世から去っていくのを見て、12歳のは何を思っただろう。
たったひとりの母で、父から疎まれていたにとっては唯一のぬくもりだった。
「カール公子も亡くなったときはひどい傷だったと聞いているからな。」
カール公子は戦傷で亡くなっている。血まみれだったとしてもぜんぜんおかしくない。彼もまた
、母を失ったを庇護し続けた人物だった。
ギルベルトは手を組んだまま、俯く。
赤はの大切なものを、いつもさらっていく。ひとりにする。フリードリヒが彼女をなだめるた
めに口にした「彼はそばにいる、」という言葉は、彼女にとっては非常に重要な言葉だったのだ。
赤はから大切なものを奪う。奪わない。ギルベルトがここにいるというのは、彼女を落ち
着
かせるには一番の言葉だった。
「は、俺を憎むか?」
ギルベルトは問うても仕方がないとわかっているのに、フリードリヒに聞く。すると彼は小さく
困ったように笑った。
「おまえを憎むなら、カール公子が死んだときにそうしているだろう。」
カール公子が死んだ戦いのプロイセン側の指揮官は、ギルベルト自身だった。戦い自体はプロイ
センが敗北したが、カール公子は戦死した。もそのことは承知で、彼を慕っていたがギ
ルベルトを憎むならば、もう婚約の時点でギルベルトは寝首をかかれていてもおかしくない。
それはヒルダをギルベルトが殺した今でもおそらく同じだろう。彼女には人を憎むということが
できないのだ。
ただ、心の琴線に、ヒルダの死が引っかかったのは事実だ。それはトラウマという意味で。
青白い顔をしているは、静かに目を閉じている。彼女の心にあるのは、ギルベルトが思う
よりもずっと深い傷だ。疎まれて、粗略に扱われた悲しみだけではない。俯いて生きてきただけで
はない。大切な人々の喪失もまた、の傷なのだ。
ギルベルトはぎゅっとの白い手を握る。その手がわずかに握り返してきた気がした。
全てを捨ててしまうということ