長い亜麻色の髪がひらひらと蝶々のように頼りなく舞って、それが赤にすり替わる。
緋色に崩れたのは母だったはずの人で、は緋色の薔薇の花を取り落とした。自分を必要
してくれた唯一の人の温もりは、緋色とともに冷たいものになった。
喪失。
必要としてくれていた人がいなくなった途端に、自分は無意味なものになった気がした。
―――――――――どうして、助けなかった!!
父の叱責は、耳に痛かった。悲痛な叫びは、心を揺さぶられた。
どうやって助けたら良かったのだろう。引き留めれば、良かったのだろうか。悲しそうに笑う彼
女を、どうしたら失わずにすんだのだろう。
失いたくなかった。自分は彼女以外に必要とされていなかったから、誰よりも助けたかった。自
分の存在意義を失いたくなかった。なのに、助けられなかった。
永遠の喪失。
母はの手の届かない人になって、がこの世に存在する意味も、失われた。
父はを連れて帰ることはなく、イングランドに放置した。母がいなくなった今、父にとって
は用なしだった。これからどうすれば良いのか、12歳になったばかりのには、母が
死に、父に見捨てられれば生活の資本などあるはずもなく、途方に暮れるしかなかった。
黒い人達が並ぶ中、ひとり置いて行かれ、俯くしかなかったに手をさしのべたのは、カー
ル公子だった。
―――――――――、おまえフォンデンブローに来い
の手をとって、彼は言った。彼はに生活の資本を与え、自分の婚約者となるべき人
間としての地位を与えた。フォンデンブロー公国の後継者であった彼が後ろ盾となってくれれば、
は暮らしていくことが出来た。
彼は、に新たな居場所を与えた。を必要とした。
その彼も、赤が奪っていった。
―――――――――…どうして、
戦いが終わって、彼は帰ってきた。
緋色に染まって、冷たくなって、もう動かなくなって帰ってきた。数日前は生きていた人を緋色
が奪っていく。
は、また居場所を失った。必要としてくれた人は消えて、またがこの世で存在して
良いと認められた場所は失われた。
の喪失はいつも緋色と一緒にあった。
どうすれば、失わずにすんだのだろう。
行かないでと、自分を置いていかないでと、泣けば良かったのだろうか。縋り付いて止めれば、
何かが変わったのだろうか。
いかないで、つれて、いかないで、
自分の居場所を攫っていく赤を、は恐れた。嘆いた。そして何度も何度も手を伸ばした。
「い、か、ないで、」
掠れた高い声音が自分の耳に響く。それを口にしたのが自分であると、気付くまでに時間がかか
った。熱い滴が目尻から伝い落ちる。涙が、溢れる。
連れていかないで、
手を伸ばしても、その手はいつも届かない。力なく伸ばした自分の手が視界に映る。白い手は宙
を掴む。そこには何もない。いつもそうだ。が掴める物などありはしない。ただ、手は空を切
るばかりだ。
は静かに目を閉じる。涙が目尻から溢れた。
しかし、次の瞬間、伸ばした手は温かい手に包まれる。慌てて目を開けば、そこには心配そうな
顔のギルベルトがいた。
「ぁ、」
は涙でぼやける視界を細める。
「目、覚めたか?」
気遣わしげで、少しいつもより弱々しいギルベルトの声が響く。上手く答えられずにいると、ぎ
ゅっと手を握られた。何となく、無意識のうちに彼の手を握り返す。温かい手の感触に、また涙が
溢れた。
「まだじっとしてて良いぜ。ここはフリッツの控えの間で、しばらくいて良いって言われてるから
な。」
ギルベルトはの手を握ったままの額に手を添える。熱を確認したようだ。頭に膜が
掛かっているようで、酷く感覚が曖昧で頭が重たい。熱があるのかなと考えていると、なんだか後
頭部が温かいことに気付いた。どうやら膝枕をされているらしい。日頃なら酷く恥ずかしいはずな
のに、今のには何も感じなかった。
「どうした、怖い夢でも見たか?」
ギルベルトは優しく尋ねてくる。それすらなんだか夢の中のように柔らかな響きに聞こえた。ふ
わりとはつかれたように身を起こし、自分の手を見つめる。
「…手が、」
届かなくて、とは吐息だけで告げて、握っている手に、力を込める。
伸ばしても届かない手。遠い背中は、母なのか、カール公子なのか、わからない。でも自分の失
った居場所であることだけは間違いない。渇望していて、欲しくて、欲しくて、失いたくなくて、なの
に、失ってしまった、大切な人。居場所。自分を求めてくれた人。
赤色に染まっていく。それらが、失われる。
「ぁ、」
は目を閉じてふるりと首を振る。赤に視界が覆われていく。過去に感情が呑み込まれてい
く。勝手に体が震えて、止まらない。頭を抱え、駄目だと表情を歪めれば、握られていた手を引っ
張られた。
そのままぎゅっと抱き込まれる。
「ん、」
少しだけ意識が現実に浮上する。触れあう温かさや腕の力の強さが心地良くて、は涙で濡
れた瞳を閉ざして、彼の肩に頬を寄せた。体の震えがゆっくりと止まっていく。
心が、ゆっくりと平静を取り戻す。
「ごめんな。」
ギルベルトはぽつりとそう言った。
どうして謝るのだろう、彼は悪いことなどしていないのに。
ふっと視界を掠めた緋色を思いだして、はぎゅっとギルベルトに縋り付く。口を開こうとすれ
ば、ぶれるように声が震えた。
「ヒルダ、は?」
「…死んだよ。」
いつも偉そうな彼にしては酷く力のない声だった。
「ごめんな。」
その謝罪は、に対してなのだろう。は首を振った。違う。彼が悪いのではない。確
かにヒルダを殺してしまったのは彼かも知れないけれど、それを責める資格はにはない。
慰めの代わりに、彼の背中に回した自分の手に力を込める。
「いかないで、」
言葉が勝手に漏れて、涙が溢れる。
たったこれだけの言葉が、はずっと言えなかった。失ってしまったら、おかしくなってしま
うほど、大切な居場所だった。自分でもそれが分かっていて、口にしなくても心の中で何度も何
度も繰り返していたというのに、本当に大切な人達に言ったことがなかった。失いたくなかった。
なのに一度たりとも。
母は、に引き留める時間すら与えてはくれなかった。いつも微笑んでいた彼女は、もうイ
ングランドに行ったときには覚悟を決めていたのだと思う。には、優しく微笑んだだけだった。
気付けば赤が彼女を攫った。
でも、時間があったカール公子にですら、は行かないでと言うことが出来なかった。馬上
の彼に、必ず帰ってきてと言うことくらいは、出来たはずだ。泣くばかりのはただ彼が残し
た言葉に従うことしかできなかった。自分から手を伸ばすことをしなかった。
言えば、手を伸ばせば、失わずにすむのだろうか。
「俺はここに居続ける。」
ギルベルトが、に応えるように腕に力を込める。
それは、ギルベルトの本質だ。ここにあり続けること、この地の独立性が保たれる限り、存在し
続けることだ。
ある意味での期待に一番応えられる存在。
「うん。」
はまだ知らない。けれど言葉だけで十分だった。
今は、それだけで、十分だった。
愛してよ終わりまで