アプブラウゼン侯爵令嬢ヒルダの遺体は一応アプブラウゼンに返された。オーストリア側はプロ
イセンが殺したと遺憾の意を表明したが、プロイセン王国側はを殺そうとしたためと公表し
真っ向から争う姿勢を見せた。
は心労のため体調を崩し、ヒルダの移送を見送ることは出来なかった。殺されかけても、
はヒルダのことを憎んでおらず、見送りを望んでいたが、熱を出してそれはかなわなかった。
代わりに彼女はヒルダの棺に自分が持っていたカール公子の形見の一つだという本を入れてくれ
るように頼んだ。
ヒルダは、カール公子が好きだったという。
フォンデンブロー公国の跡取りであり、オーストリア継承戦争が亡ければと婚約する予定
だった彼の婚約者候補に元々挙げられていたのは、ヒルダの方だった。しかしカール公子はヒル
ダを選ばず、幼いを名指しで選択したという。
「…本当は、アプブラウゼン侯爵領と、フォンデンブロー公国はお隣同士ですから、その故あっ
ヒルダが婚約者の候補になったのです。」
はベッドに座ってクッションを抱きしめて、懐かしそうに瞳を細める。ギルベルトは
の体を支えるようにして後ろからを抱きしめていた。彼女の体は酷く熱い。熱が高いせい
だろう。ギルベルトの足の間に座ったの紫色の瞳は熱のせいかぼんやりしている。
ギルベルトはヒルダの遺体の移送を確認したと同時に、すぐに屋敷に戻ってきた。どうせ元々は
休みを与えられていたのだ。のためにも、結婚式までの間はフリードリヒからもゆっくりする
ように言われていた。
「ところがカール公子はヒルダにあった途端、うるさい女は嫌いだし、暗い女の方がましだって。
わたしが、まだ6歳くらいの時。」
小さな、淡い笑みを含んだその声音から、は彼の発言を直接聞いたのだろう。は6歳
の時から暗かったのかとギルベルトは肩を竦める。
「うるさい女は、誰でもごめんだぜ。俺もやだ。」
「そんな、ヒルダは、少しよくお話しするだけだったんですよ、」
はヒルダを擁護するが、殺されたヒルダはどう見ても彼女のような好意的解釈は出来そうに
ない人間だった。
カール公子とは十以上の年の差があったと聞いている。が6歳の頃丁度彼は10代
後半か、20代前半くらい。ヒルダはよりもいくつも年上だと聞いているから、おそらく年齢的
にはよりもヒルダの方が相応しかっただろう。だが、彼はヒルダではなくを選んだ。そ
こに少なくとも恋愛感情はなかっただろうと、思う。6歳の子供に、欲情は出来ない。多分。
「あまり笑わない人で、でも、わたしを特別疎むこともない人だったんです。」
が彼のいるフォンデンブロー公国を訪れるのは一年に数度。数ヶ月。母に連れられて諸国
を放浪していたから、彼に会える時間も限られていたし別に構ってもらった記憶もないけれど、彼
が読む本を興味深そうにじっと見ていたら、読み聞かせてくれた。冷たい人ではなかった。カール
公子は、賢くて、優しい人だった。
父から疎まれていたし、ヒルダやヨーゼフと言った母親違いの兄姉からも嫌われていたから、た
だ嬉しかった。
「ヒルダは彼が好きで、ずっと頑張ってたんです。だから、」
恨まれても仕方が無かったとは思う。
一生懸命彼の後を追い続ける彼女を、はずっと見ていた。幼心にはそれが不思議だったが
今ギルベルトを思うからこそ、気持ちがわかる。ヒルダの視線に、きっとカール公子だって気付い
ていただろう。ただ、彼はその生涯を通じてヒルダには冷たかった。酷い時はこれ見よがしに
を優遇した。プライドの高い彼女にとって、不義の子であるが優先されることは屈辱でし
かな
かっただろう。
「また、天国でヒルダはカール公子を追いかけているのかも、しれませんね。」
黄昏れるようにはゆったりと言う。ギルベルトはその言葉にヒルダを殺した事への罪悪感
を覚えた。彼女にその意図がないことはわかっているが、がヒルダを嫌われながらに慕って
いたと言うことは、何となく分かっていた。
「眠たいですか?」
ギルベルトが黙っているから、は心配になったらしい。
確かにもう夜中も過ぎている。外の月は中天をこしており、朝の光の方が近いかも知れない。ギ
ルベルトはに分かるよう後ろからの肩に顎を乗せて首を振った。
最近の起床時間はおかしい。それは体調が悪いこともあるのだが、突然悲鳴を上げて夜
中に飛び起きたりして、部屋にろうそくをつける。安定した光などこの時代あり得ないからは
危ないんじゃないかと言うほどろうそくを灯したりする。暗いのが怖いらしい。ヒルダの一件から彼
女の傷は癒えてはいないということ。
流石に隣の部屋がごそごそするので、ギルベルトも目が覚める。結局休暇を与えられているため
次の日に仕事もなく、別に夜中に起きたところで問題ないし、彼女がひとり震えて泣いているのを
放置するのも気が引けて、夜は自分の部屋に呼び寄せるようになった。
今日もは一応10時過ぎに眠ったのだが、夜中に目を覚まして、泣き叫んで怯えて、ギルベ
ルトが抱きしめて必死で宥めて、やっと落ち着いて今に至る。
「あの、部屋、戻りますよ?」
は眉を寄せて、不安そうに言う。ギルベルトの睡眠時間を心配しているのだろうが、律儀な
彼女と違ってギルベルトは仕事さえなければ非常に怠惰な生活を歩む。長期休暇の際は大抵そん
な感じだ。だから、別に問題ない。
「気にすんなよ。せっかく休みなんだからさ。それに眠たくなったらこのまま寝るし、」
を抱きしめながら眠るというのも、悪くない。独り寝には広いベッドだし、結婚すれば寝室
は一緒にする気だったから、慣れてもらう意味では良いのかも知れない。ギルベルトはそんなこ
とを考えながら、の体をぎゅっと抱きしめる。
最初は緊張していた彼女も随分慣れて体から力を抜いて身を委ねている。彼女の方が少し眠た
いのかも知れない。紫色の瞳をのぞき込めば、瞼が落ちてきそうだった。
ギルベルトはの額に手を当てて、熱を確認する。だが、まだ高そうで、酷く熱い体温が伝
わってきた。丁度夏も過ぎ、涼しくなってきた時期なので、彼女の体温が心地良い。
「水、飲むか?」
脱水症状に気をつけろと医者に言われている。サイドテーブルにある水差しの水を片手でコッ
プに注いで彼女に差し出すと、彼女は頷いて受け取った。こくんこくんと呑み込む度に喉が動く
飲み終わったコップをサイドテーブルに置き、ギルベルトは先ほどと同じように彼女の腹に手を
当てる。とくんと鼓動が聞こえる。
「、おまえは、俺を選んだよな。」
確認のように尋ねると、はこくりと頷く。
少なくとも、は今までいたアプブラウゼンという家を捨て、ギルベルトを選んだ。自分を縛り
付けていた過去そのもの。それを捨てたことがどれほど重みを持つのか、国であるギルベルトには
理解出来ない。けれど、
「わたし、は、貴方と、ともに幸せはあると、思ったんです。」
まどろむように柔らかの声音。日頃ならこんなに素直に物を言ったりしないだろう。熱が
彼女をおかしくさせるらしい。
それでも、ギルベルトはかまわなかった。
「なら、約束しろ。おまえの生がそこにある限り、俺の傍にいるって、」
自分は国で、彼女は人。
その立場の違いが、自分と彼女を何時かは引き離す。何時かわかたれる日が来る。それはわかっ
ている。国である自分とてそれに抗うことは出来ない。
だから、の生がある限りは、自分の傍にいて欲しかった。
立場の違いなんて関係ない。寿命の違いなんて関係ない。ただ、生きている限りは、傍に。
「わたし、は、貴方が、望む限り傍に、います、」
ぼんやりとした声音が、ギルベルトが望む答えを紡ぎ出す。
彼女はその重さも、時の長さもまだ知らない。ギルベルトは彼女の感触を堪能するように、ぐっ
と腕に力を込めて彼女を抱きしめた。
は行かないでと泣くけれど、一番そう思っているのは、ギルベルトだ。真実を知り、彼女
がいつか離れていくのを恐れている。
「約束だぜ。」
繰り返し、そう言えば、抱きしめる自分の腕に、が手を添える。
すべての不安も幸せも、今は彼女の中にあった。
信じられるものは繋がれたあなたのこの手だけ