の熱が下がったのは一週間も過ぎた頃だった。夜は相変わらずで飛び起きることもあっ
たが、ギルベルトはのそばにい続けた。彼女も人がいると落ち着くようで、夜飛び起きる回
数は目に見えて減っていった。

 丁度その頃、ギルベルトがフリードリヒにポツダムの宮殿に呼ばれた。結婚を3週間後に控えた9
月の終わりだった。

 宮殿で待っていたのは、フリードリヒと、意外な人物だった。





「少しやせたかな、」






 しわだらけの目じりを少し下げて、フォンデンブロー公爵がに言った。





「そう、でしょうか。」







 は小首を傾げたが、確かにやせたかも知れない。ギルベルトはをやさしく公爵の方に
押し出した。






「大変だったね。だが、心配しなくても良い。君はアプブラウゼン侯爵の子供ではなくなったのだ
から。」





 老公爵はゆるく寂しげに微笑んで、の手をとった。はその言葉すらも複雑なのか、
目を伏せる。

 もともと、は母の不義の子であり、父であるアプブラウゼン侯爵が一応認知はしたが、そ
れでもずっと負い目を背負ってきた。今回を通じてギルベルトを暗殺しようとしたアプブラウ
ゼン侯爵の目論見が表面化し、それを密告したとはいえ、も父の子であるので、罰されて
もおかしくなかった。

 だが父はを疎んでおりがアプブラウゼンに足を踏み入れることはほとんどなかった
し、兄姉とも母が違う。言ってしまえばアプブラウゼン侯爵とは赤の他人なのだ。父に疎まれる彼
女を保護し続けていた母方の親族であるフォンデンブロー公爵がの立場を気にして、自分
の養女―フォンデンブロー公女としてをギルベルトに嫁がせることを決定した。もともとギル
ベルトと国王のフリードリヒがオーストリア継承戦争以降、オーストリア側に付きつつあったアプブ
ラウゼン侯爵を警戒して父方ではなく、の母方の血筋を重視し、フォンデンブロー公爵の縁
者としてみなに広めていたこともあって、あっさりと人々はの立場を受け入れた。


 またフォンデンブロー公国は、カール公子が先の戦争で死んでから後継者がなく、血筋的には
が一番近しいので、を公爵が養女としたことは、後継者問題への布石としてもおかし
く はなかったし、そのがプロイセン王国の将軍に嫁ぐことは、プロイセン王国にとってもフ
ォンデンブロー公国という小さいが豊かな国との交易が進むと言うことで悪くない。だからプロイ
セン王国ではあっさり受け入れられた。




 ただ、当然ながら対外的には違う。

 の父であるアプブラウゼン侯爵もまた、遠いとは言えフォンデンブロー公国の血筋に連な
る。オーストリア側についたアプブラウゼン侯爵は、女であるではなく、自分こそが正当な
フォンデンブロー公国の継承者となるべき人間だと主張し始めていた。

 要するにオーストリアはアプブラウゼン侯爵を通じて、プロイセン王国はを通じて、どちら
もフォンデンブロー公国の宗主権を欲している。今は正当な統治者である老公爵が死んでいない
ため表面化していないが、公爵が亡くなり次第継承争いが開始されるであろうことは明白だった。


 軍事的に負ける気はしない。しかし、そういった領土問題に疎く、感情論の大きなでは、
血がつながっていないのに不義の子であるという罪悪感を持つために、あっさり領土を譲ってしま
うことだって考えられる。それをギルベルトやフリードリヒだけではなく、老公爵自身が、一番心配
していた。







「しけた面すんじゃねぇよ。」





 ギルベルトは明るさを装って、彼女の頭を軽くたたく。






「ギルベルト、」

「おーおー、悪うございましたー。」





 フリードリヒが呆れたようにいさめたが、ギルベルトは肩をすくめて気のない謝罪をした。その
まま近くにあったカウチにどさりと腰を下ろす。はギルベルトのほうか公爵のほうかどち ら
の隣に座ればよいかと迷って視線をさまよわせたが、ギルベルトが目で合図するとおとなしくギ
ル ベルトの隣に座った。





嬢にも、認めてもらわなければならない、事柄だからな。」







 フリードリヒは椅子にもたれる。ぎしりと背もたれが鳴った。ギルベルトは足を組みなおして
の横顔を眺める。

 重々しい空気にが姿勢を正す。

 の向かい側にいたフォンデンブロー公爵が、ゆるりと微笑んだ。






、おまえに新たなるフォンデンブロー公国を、託すことになると思うのだ。」







 老公爵はしわがれた声に、喜びとも悲しみともつかない感情をにじませた。は案の定目を
丸くして彼を凝視する。






「で、でも、お父様だって、」






 すぐには反論した。やはり予想通り、抵抗があるのだろう。アプブラウゼン侯爵と、まと
もに争うのは。しかし、老公爵はすがるような目をに向ける。






「カールは、戦場に立つ時、古きフォンデンブローはここに消える。新たなるフォンデンブローは
とプロイセンと共に、と言った。」






 公爵は悲しげに目を細める。

 豊かなるフォンデンブローと、人々はいう。人口は50万ほど。土地の割には人は多い。農作物も
よく育つし、国々の狭間にあるため交易の要衝だ。だからこそ、小さな公国は発展することができ
た。今、フォンデンブロー公国は二つの大国の狭間にある。神聖ローマ帝国―オーストリアと、プ
ロイセン王国だ。後継者と目されるふたりは、それぞれの国についている。どちらかを選択する必
要がある、ならば。





「私は、カールの願いを、信じようと思うのだよ。」





 本来の後継者であったカール公子はプロイセン王国の方に未来があるとずっと言い続けていた。
彼の言うことを無視して、先の戦争で公爵がオーストリア側に着いたからこそ、彼は死んだ。力な
きオーストリアは、フォンデンブローを守るために何もしてくれなかった。






「フォンデンブローのためになるのが、オーストリアなのか、プロイセンなのか。それはもう私に
はわからんよ。」






 あまりに統治者として無責任な言葉ではあったが、公爵は穏やかに微笑む。

 オーストリアとプロイセンとどちらを選ぶことが将来のフォンデンブローのためになると言うのは、
老い先短い老公爵には正直分からない。長い寿命の中で公爵が見ていたものは、実際に先の
戦争では正しくなく、若きカール公子の言ったとおり、プロイセン王国が勝利した。年齢も、かつて
の力も、何もかも、あてにはならないと知った。

 けれど正しい未来を選択していたはずのカール公子は、自分の亡き後のフォンデンブローを
に託していた。そして、幸せそうにギルベルトの隣で微笑むがいるのなら。





「ならば、フォンデンブローが、君の笑顔とともにあることを望む。それが、プロイセン王国と寄
り添うことでも、頭を下げることでも、私はもうかまわん。」






 どうせ老い先短い命だ。頭を下げようが、屈辱だろうが、所詮数年の話だ。これから数十年を過
ごしていくの幸せと比べれば、安い。






「わ、たし、どうしたらいいんですか?」






 は戸惑いの目で公爵を見上げる。彼女は覚悟もない上、小さな公国とはいえ、治めていく
だけの教育をなされていない。





「争いが起こらぬ限りは、おまえが思うならばプロイセン王国に寄り添えばよい。」






 二つの大国の狭間にあるフォンデンブローが交易を守るには、もうフォンデンブローだけの軍事
力ではつたない。そのことは、オーストリア継承戦争でよくわかっていた。

 少なくとも公爵がフリードリヒ王と話をする限り、オーストリア側との狭間にあるフォンデンブロー
公国を自国の近しい領土としておきたいというのが思惑だった。そういう意味では、とプロイ
センそのものであるギルベルトが結婚し、がフォンデンブロー公国の統治者の地位を得るだ
けで、十分にその思惑を満たすことができる。フォンデンブローから何らかの形で搾取をし、無駄
な反感を買うのはマイナスだ。だから、この賢い国王は、そんなことしないだろう。

 は浪費家でもないし、戦争も望んでいない、わざわざ財政難や戦渦に巻き込むこともなか
ろう。






「でも、争いが、起きたら…?」

「その時は、誰にもわからんよ。だから、おまえが幸せになれる道を選択しなさい。」






 公爵は不安そうな顔をするに笑う。

 彼女にとっては重荷でしかないかもしれない。彼女には公国を保持することはできないかもしれない。だ
が、それでもかまわない。






「まぁ、どうにかなるって、」






 ギルベルトがに笑ってばしばしとの背中を叩く。非常に粗暴な動きではあったが、
生き生きとした彼には目を丸くして、でも先ほどの暗い顔はそこにはなかった。






「豊かなるフォンデンブローを、プロイセンに、」







 公爵はギルベルトに目を向けて言う。

 国ではない、けれど国を持つ。彼にはその意味が理解できただろうか。






「けせせ、了解!」







 えらそうに、しかし不敵に笑う彼の目は光に満ち溢れている。その緋色の瞳に、公爵は満足げに
微笑んだ。




















  ひかりのなかのひと