フォンデンブロー公爵フランツが亡くなったのは5月も半ばに入った頃だった。
突如狩猟の途中に落馬し、一生を終えた。既に78歳を超していたため大往生とも言えるが、こ
れがフォンデンブロー公国の波瀾の幕開けとなった。
フォンデンブロー公国の議会は公爵の遺言通りを正式な公爵として認め、プロイセン王
国、オーストリアおよび神聖ローマ帝国へと承認を求めたが、プロイセン王国の承認は得られて
もオーストリア側からの返答はなかった。
は即座に議会の承認を得て、プロイセン王国に留学させていた将校達を国に戻し、要塞
などの体制を整え直そうとしていた。ギルド側からプロイセン王国領でである隣のアプブラウゼン
侯爵領が軍隊を整えているという噂を聞いたからだ。
その危惧は正解で、がフォンデンブロー公爵になった数日後、フォンデンブローの銀山
をアプブラウゼン侯爵の軍隊が占拠した。
公爵の死と共にすぐにフォンデンブロー公国に帰り、首都のヴァッヘンにいたはその報
を受け驚愕した。
「そ、そんな…」
こんなに動きが早いなんて思いもしなかった。
は自分の迂闊さを呪うが、もう後の祭で言っても仕方が無いことだ。アプブラウゼン侯
爵側の言い分は、がフォンデンブロー公国を継承することを許す代わりに、銀山を渡せと
いうものだった。
似たような手をプロイセン王国が先のオーストリア継承戦争でオーストリア側に使ったことも
あって、責めることは出来ない。弱肉強食がこの時代のヨーロッパのあり方だった。
状況が余りよくないのは誰が見ても分かっていた。銀山はフォンデンブローの国益の要であり
通商の根源のひとつだ。特に通商で栄えるフォンデンブローにとって銀山の収益は死活問題で
あり、現状ですら通商が滞って来ており、もう一つある金山で何とか賄っている状態になりつつ
あった。
今回の一件についてはアプブラウゼン侯爵の独断と言うことで、オーストリア側は表向きには
中立を保っているようだ。元々アプブラウゼン侯爵はプロイセン側の貴族であったが、フォンデン
ブロー公国を巡る不和からバイルシュミット将軍暗殺を企て、裁判所への召喚を求められている
ときにオーストリア側の宮廷に出向くようになったという複雑な経緯がある。
フォンデンブロー公国は独立国で、オーストリア継承戦争の折は神聖ローマ帝国、しいてはオ
ーストリア側に着いたが、後継者と目されるがプロイセン側の将軍であるに嫁いで
からはおおむね良好な関係を築き、通商でもプロイセン王国側に偏りつつあった。
しかし当然オーストリアは面白くない。のフォンデンブロー公国の継承を承認しないのも
その一環だろうし、血筋的には遠いが男だからという理由で公国の継承権を主張するアプブラ
ウゼン侯爵をオーストリアの宮廷に匿うのも、プロイセンと仲良くする公国が気に入らないから
だ。
「どうやら神聖ローマ帝国はアプブラウゼンに兵を貸したらしいのです。」
議会の議長であるシュベーアト将軍は慌てふためくに渋い顔をする。
シュベーアトは黒髪と白髪が交じるもう壮年の男で、フォンデンブロー公国の議会の議長であ
り、伯爵の地位を持つ。同時に軍の最高司令官でもあった。
4万と言えば現在の常識としては大国並みの兵力だ。対してフォンデンブローがかき集められ
る軍隊はおそらく2万強。オーストリアとも国境を接しているため砦などへの警戒を考えれば正
直難しいだろう。迂闊には兵を集められないし、兵力を割けない。
かといって、銀山を放棄するわけにもいかない。
「ど、どうすれば…」
は頭を抱えたくなったが、助けを求める相手が誰も思いつかない。それは当然だ。今は
が公爵で、実質的にはがこの国の最高権力者なのだ。宣戦布告と軍隊を動かす権利
を持つのは議会ではなく、だ。
「シュベーアト将軍はどう思われますか…?」
は仕方が無く、ベテランの将軍である彼に尋ねた。
「…道はいくつかあります。」
彼は若いに呆れたようだったが、誤魔化すことなく言った。
「ひとつは、自国だけで取り戻すために本気で兵を集めると言うことです。ただしこれはお金も
かかりますよ。そして、他の砦がおとされる可能性もあります。」
フォンデンブロー公国は豊かである。その資金を使って傭兵を集めると言うことは可能だ。そ
れと現在保持している軍隊によって、銀山を取り戻すということだ。しかしデメリットとしては軍
隊を一箇所に集めれば集めるほど、他の場所が手薄になる。その隙を突かれ、オーストリアに
領地の一部をとられる可能性もある。
おそらく、それがオーストリア側の狙いだろう。
「他には、もう銀山は諦めてしまうと言う手もございます。」
シュベーアトは恐るべき言葉を口にした。
「あの銀山はもってあと3年でしたから、」
銀とはとればなくなるものだ。だからこそフォンデンブロー公国は銀や金の採掘量を慎重に管
理している。
アプブラウゼン側が占領した銀山はあと3年で枯渇すると言われていた。3年分の利益はもちろ
ん大きいが、軍隊を動かしたり、他の地がとられる可能性を考えるならば、諦めてしまうと言うの
も考えられない選択肢ではない。
ただし、ギルド側の反対は大きいだろうし、もう一つ言うならば、銀山で働いているフォンデン
ブローの民はどうなるのだという話になる。
「最後の一つは、援助を要請すると言うことです。」
「援助、ですか?」
「その通りです。フォンデンブロー公国一国では太刀打ちできないのですから、イギリスなり、
プロイセンなり、フランスなりを味方につけるのです。ただし、見返りは必要です。」
国が利益以外で味方についてくれると思ってはいけない。
プロイセンでもイングランドでもそうだが、おそらくは見返りを求めてくるし、それ相応のも
のを用意しなければならない。無償なんて考えてはならないのだ。
「…戦争に、しない方法はないのでしょうか。」
は自分の意見があまりに消極的であることを知っていた。
それでも問わずにはいられない。オーストリア継承戦争の折に唯一の庇護者であったカール公
子を失った痛手は、の中に根強く残っている。戦争はとても怖いものだ。
その思いをシュベーアト将軍も察したのだろう。難しい顔で俯いてしまった。
の父は攻めてきたアプブラウゼン侯爵と言うことに公式上はなっている。しかしは
母の不義の子で、実際には彼が父ではない。フォンデンブロー公国の血筋を一番近く引くのは
母であり、母亡き今はのみであるが、不義の子であるため父からは長らく疎まれ、
は後ろ指さされていつも俯いて生きてきた。
それでも父を慕う気持ちは嘘ではない。本当は争いたくないのだ。
だが、今は亡きフォンデンブロー公国の後継者であったカール公子が国を守って亡くなり、フ
ォンデンブロー公爵がを大切にしてくれたことを思えば、単純にの争いたくないと
いう感情だけで物事を決めることは出来ない。
「…っ、」
泣き叫んでしまいたい。全てを放り出したい気持ちに一生懸命抗って、唇を噛む。
――――――――――決断を下すのは君だ。
フォンデンブロー公国の後継者となることが決まり、ギルベルトと結婚したとき、プロイセン
の国王であるフリードリヒはにそう言った。
決断を恐れてはならない。行動を恐れてもならない。勝利も敗北もの手の中にあると。
これが最初の決断だ。
「兵を集めれば、勝てますか、」
はシュベーアト将軍に尋ねる。
オーストリア継承戦争の折り、プロイセンと戦ってフォンデンブロー公国はかなり兵力を消耗
した。その再編のためにはギルベルトと結婚して2年間を使ってきたわけだけれど、まだ
十分とは言えない状況だ。
兵を育てるというのは、存外に難しい。
また女であるは戦場に出られない。カール公子のように最前線に立って戦うことは不可
能だ。将軍達に兵を全て委ねることになる。
「…全力を尽くします。」
シュベーアト将軍はに頭を下げてそう言った。
勝利の約束など、出来るはずがない。兵力、戦術、そのすべてがある意味で時の運と天から与
えられた才能なのだ。シュベーアト自身自分にその天賦の才があるとは彼女に保証することは出
来ない。
「銀山の、労働者はどうなっていますか?」
国営管理の銀山であったため、労働者の賃金は公国自体が払っていた。
今は一体どうなっているのか、
不安になって尋ねれば、シュベーアト将軍はますます渋い顔をした。
「賃金は、もらえていないようです。」
当然の話だろう。アプブラウゼン側は銀山を乗っ取り銀が欲しかっただけで、労働者への賃金
などこれっぽちも考えてはいない。
けれど、それでは労働者達は飢えてしまう。
は表情を歪める。
「…」
どうすれば、と、問うことは誰にも出来なかった。
この手で一体何が救えると云うのでしょう?