驚くべき事に、フォンデンブロー公国は公爵となったばかりのが開戦を決断すると、議会は
早々にそれに伴う臨時委員会を招集。現職の将軍を全員集めて具体案の作成に入った。

 はその委員長になったが形ばかりで、結局ギルベルトが実戦経験のあるフォンデンブロー公
国側の将軍と共に委員会で決められる動員準備や配置、砦の防衛などの議案に立ち会うことになっ
た。

 他国では実質的な権限のない筈のギルベルトだが、はギルベルトにあっさりとフォンデンブ
ロー公国での最高位将軍の地位を与え、実質的にフォンデンブロー公国の軍事を任されている議
長のシュベーアト将軍と対等に会話できるようにした。

 シュベーアト将軍も決して頭でっかちというわけではなく、若く(見える)ギルベルトの意見もプロ
イセン王国の現職の将軍であるという事を加味して真剣に聞いたため、ギルベルトも大方のことは
すすめやすかった。

 は本当に軍事的な作戦に関してはさっぱり分からないらしく、黙り込んだままだった。落ち込
んでいるのもあるのだろう。





「動員に1週間か、早いな。」





 ギルベルトはベッドの上で作戦やら軍事的な資料を開きながら、ぽつりと呟いた。

 は戦争をして奪い返す気はないまでも、威嚇のために軍隊の動員は早くからすすめていたら
しい。この時代軍隊を動員する速度は遅く、それが決め手となることもしょっちゅうだったからある程度
兵士を揃えてあるのは有り難かった。





「…だい、丈夫ですか?」





 は眉を下げて、心配そうに資料をのぞき込む。





「大丈夫大丈夫。抜け道とかもかなりあるしな。」





 銀山はたくさんの穴が掘られており、ギルド側が穴の配置や通路などの記録を細かくとってい
たおかげで、幾らでも作戦のたてようがあった。鉱夫側の代表者も積極的で、軍隊の作戦を行う
日に蜂起すると約束してくれた。不満がかなり溜まっているらしい。 

 アプブラウゼン側が占領地域に圧政をしいたのが、フォンデンブロー公国の統治下に戻りたい
という民衆の大きな意志へと繋がったのだ。

 おそらくが想像するよりもずっと簡単に事は運ぶだろう。

 は顔が見えないほどに俯いて、ギルベルトの話を聞いていた。ギルベルトは資料をベッドの
近くのテーブルに置き、の髪をくしゃりと撫でた。

 ぽたぽたと彼女の寝間着にがこぼれ落ちる。表情は俯いているので伺えない。声も上げずに
泣く彼女が酷くいじらしかった。





「泣き虫、」





 ギルベルトはぼそりと言って、彼女を抱き寄せる。

 ずっと、一人で泣いていたのだろうか。ギルベルトはの頬をぐっと強く自分の方に引き寄せ
て、背中をさすってやる。ギルベルトの肩に頬を押しつけた彼女は、それでも声ひとつあげなか った。

 泣くことを、我慢していたのだろう。声を殺して、周りに心配をかけないように必死で気を張って
いたのだ。





「もう大丈夫だ。泣いて良いぞ。」





 ギルベルトは優しくこめかみに口付けて言う。するとの体がびくりと震えて、涙で濡れた瞳
でギルベルトを見上げた。



 紫色の瞳が、ゆらゆらと揺れている。

 頬を流れる涙を拭ってやりながら、柔らかな唇に親指で触れた。日頃より赤い唇。は表情を
歪める。





「切れてるな、」





 強くかみしめすぎたのだろう。親指で唇を押すと、左の端だけではなくて中央にも噛んだような
痕が見て取れた。涙を我慢するために噛んだのか、それとも別のことか。彼女の葛藤を思えば心
が痛んだ。

 ギルベルトは彼女の唇を軽く舐める。するとそれだけでも痛むのか、は眉を寄せた。

 の小さな肩に、のしかかるのはフォンデンブロー公国という国。そしてそこに住まう数十万
の民。真面目なのことだから、一生懸命役目を果たさなければと思ったのだろう。ギルベルト
と結婚し、後継者となることが決まってからの2年間。は懸命に勉強してきた。


 だが、あまりに現実は厳しい。



 最初の仕事が、領土を奪うか奪われるかの戦争とは。





「わたし、情、け、なくて、」





 表情を歪めて、は言った。

 が亡くなった公爵の遠縁であり、女であることを考えれば、こうして攻め込まれてしまうの
はマリア・テレジアの例を見ても分かるとおり仕方のないことだが、にとっては全てが初めて
のことであり、衝撃的だっただろう。

 常に相応しくあれるようにと努めてきた彼女にとって、なおさら厳しい現実だ。






「まだ2年だからな。」






 生まれた時から国を率いるために育ってきた国王ですらろくな政治が出来ない奴がたくさんい
る。が勉強したのはたった2年だ。彼女の勉強不足は否めない。





「精一杯、助けられるところは、助けてやるから。」





 大丈夫とギルベルトはをあやす。安心したように頷いた彼女はぽろぽろと涙をこぼしながら





「ゆっくり、頑張りゃいいさ。な?」





 ギルベルトは彼女を宥めるためにそう言って、そっと自分の額を彼女のそれにあわせる。ゆっ
くりと瞼を上げれば、目の前には涙で濡れた菫色の瞳があった。


 ギルベルトが何よりも好きな、野の花の色。

 涙を唇で拭ってやれば、彼女は恥ずかしそうに頬を染めた。少しいつもの調子が戻ってきたら
しい。腕の中でもぞっと動いて少し体を離した。

 そしてギルベルトの手をぎゅっと握る。





「貴方が来てくださって良かった。」





 はギルベルトの手に頬を寄せて言う。柔らかい彼女の頬に手を沿わせて、ギルベルトは
引き寄せた。

 唇が切れているため痛くないようにそっと唇を重ねる。軽く舐めると血の味がした。





「俺は軍隊と行くが、おまえは後方支援を頼むぞ。補給とかも大切だからな。」






 馬しかない時代だ。連絡には相応の時間がかかり、対応にも派兵にも時間が必要になる。だか
らこそ早急に動ければ強いし、動けなければそれが命取りになる。物資の支援も足りなければ問
題だ。先頭に立って軍隊を率いることができなくても、やってもらわねばならないことはいくらでも
ある。





「一人じゃねぇんだから、頼れよ。」






 小さな手をギルベルトは握りしめる。

 には苦手なことがあって、それはギルベルトだって同じだ。出来ないことはお互いに助け合
えばいい。





「それに、フリッツがあまりに銀山の占領が長引くなら、アプブラウゼン没収のために派兵する
って言ってる。」





 ギルベルトの言葉には目を丸くする。

 フォンデンブロー公国を占領したアプブラウゼン侯爵はの父でもあるが、の夫であるギル
ベルトの暗殺未遂でプロイセン王国側の裁判所から召喚を受けていたが、それを無視してオーストリア
側へと組した。

 とはいえ、元々はアプブラウゼン侯爵領はプロイセン側の領地である。取り返したいと思って
いたのは知っていた。





「そ、そんな、じゃあ、お父様は、」





 ギルベルト暗殺未遂を企てた時点で、捕まればアプブラウゼン侯爵は死罪を免れなかっただろ
う。おそらくアプブラウゼン侯爵領にプロイセン王国が侵攻し、侯爵が捕らえられても結論は同じ
だ。

 ましてやオーストリアと手を組んで友好国であるフォンデンブロー公国の銀山を簒奪しようと
したのだ。もっと罪は重い。





「まぁ、近く銀山が開放され中ったらって話だ。プロイセン側も、今公国との通商が滞るのは、
困るんだよ。」





 プロイセン王国側もフォンデンブロー公国との通商が増えていたため、銀山をアプブラウゼンが
占領し、軍隊を動かしたりすると通商経路はやはり不安定になる。銀だけではなく農作物を公国
に頼るプロイセンにとって死活問題だ。

 他国と仲良くすればするほど、一国だけの問題ではすまないのだ。

 そして、の単純な罪悪感などといった感情では、片付かない。





「ぅ、」






 言いたいことや、泣きたいことはたくさんあるだろう。

 けれど個人の感情を押し殺してでもしなくちゃいけないことがあって、守らないといけないことが
あって、そう言ったことの折り合いをどこでつければいいのかまだには分からない。知らな
い物だ。





「ほら、泣くんじゃない。」 






 心の折り合いをつけることが出来るようになるのが、成長というのか、それとも悲しいことな
のか、ギルベルトは小さな肩を引き寄せて、自分の腕の中に抱き込む。

 ギルベルトも、その答えを知らなかった。






 
君だけが味方だったら世界を敵にまわしてもいい