軍隊が発ってから数日後、アプブラウゼン侯爵の軍隊の銀山からの撤退の報が早馬でもたらさ
れた。銀山近くの平野で一戦をし、それに敗北したアプブラウゼン侯爵側は地の利のない銀山は
不利だと判じ、結局早々に撤退したのだ。
一週間後に銀山の動向などをギルベルトの手紙で受け取ったは小さく終わったのだろうかと
息を吐いた。
「あれ?手紙ですか。」
テンペルホーフ中尉がにやりと笑って、に言う。
「この書類はこっちで承って議会に回しますね。こっちはサインを願いします。こっちは俺が処
理します。」
テンペルホーフ中尉が書類を喋りながらすらすらと振り分けて行くのを眺める。
ギルベルトが小うるさい彼をどうして側に置くのかは、最初の3日ですぐにわかった。彼はよく喋
るが、非常に頭の回転の速い人物だった。年齢は20そこそこだろうに情報の把握が早く、あっという
間に仕事を周りから聞き出し、の補佐に回ってくれるようになった。
おかげでの慣れない業務はあっというまに整理され、に任されるのは最終決定とそれに
必
要な書類を読むことに早変わりし、煩雑な仕事は全て下々に任されるようになった。
フォンデンブロー公国を継承したばかりでさっぱり状況の分かっていなかっただが、彼が部
下に着いてくれたおかげでだいたいの仕事と振り分けは理解できた。
というか本来そもそも公爵が行うのは軍事関係のことだけで、他は議会が決定するのだ。など
頭の上のたんこぶでやることがないのが普通だ。やることがあったのは、要するにの仕事の仕
方に大きな問題があったからだった。
その整理をテンペルホーフ中尉は見事につけてくれた。
「…ギルって、字は固いし、古風な文章を書きますね。」
はぼんやりとギルベルトからの手紙を見ながら思った。
ギルベルトの時は綺麗かと聞かれればきわどいところだが、整然と並んだ字を書く。隣と隣の
字がきっちり同じ大きさで、まっすぐに並んでいる。それに、古風な表現やらスペルが多くて、
少し驚いた。軍人は筆無精だと文句を言っている奥方達もいたし、半年くらいは覚悟はしていた
というのに、意外だったけれど、大切にしてもらえて嬉しい。
彼は結構新しい物好きで、新たな軍備が出たり新たな科学技術を聞けば途端に走っていったり
する。
それなのに文章だけは古風なのだから、いつも笑ってしまうのだ。
「愛されてますね。」
テンペルホーフ中尉がにこーと笑ってに言う。
「え、あ、はい。」
は恥ずかしくなって俯いたが、手紙自体は嬉しかった。結婚してからギルベルトは何度か軍
事訓練に遠出したり、国王の僥倖につきあってはいるが、多くの場合はもついて行っていた。
それでもたまに1人で出かける時の彼は非常に小まめで、きちんと手紙をくれるし、お土産も買っ
てきてくれる。この間イギリスに行った時も薔薇の花の苗を知人からもらってきてくれた。
それはベルリンのバイルシュミット邸にあり、今も使用人達がちゃんと水をやってくれているはず
だ。ちなみにベルリンにいる時は薔薇をくれた相手の人に手紙を書いて、薔薇の世話の方法を
聞きながらがずっと水をやって世話をしていた。
薔薇をくれた相手の方はかなり良い方で、懇切丁寧な手紙を送ってくれた。もしもイギリスに行
けば会いたいものだと思う。まぁ、ギルベルトは薔薇をもらう時に結構恥ずかしい思いをしたら
しく、二度と会いたくないと言っていたが。
「それぐらい小まめに報告書も作成してくださると有り難いのですがね。」
テンペルホーフ中尉が若干遠い目をした。
「え、もしかして、書類はあまりしないのですか?」
「…いえ、一応きちんとされますよ。ただ、ぎりぎりなだけで。」
ギルベルトはルールはきちんと守る。そう言うところではやはり軍人なのだ。しかしやること
が早いし要領も良い癖にぎりぎりまでやらなかったりする。おかげで部下はやきもきしていた。
「ちゃんとギルに言っておきますね。」
自分が理由で仕事がないがしろにされるのは、嬉しいけれど困る。頬を染めて言うと、テンペ
ルホーフ中尉は慌ててを止めた。
「や、やめてくださいよ!」
「え?困っているのでは?」
「困ってますけどね。手紙書かれちゃったら俺が言ったって丸わかりじゃないですか!!俺睨ま
れてるんですから!」
そう言えば前、テンペルホーフ中尉が何かを国王に告げ口したとギルベルトが怒っていたのを
思い出す。テンペルホーフはおしゃべりだという話は、別の軍人からも聞いていた。
あまりに必死な様子なので、は小さく笑ってわかりましたと答える。
「そうですよ。それに俺、様を任されてるのに、いらないことだけ吹き込んだって言われるの
嫌ですから。怖い怖い。」
テンペルホーフ中尉は震えるまねをしてみせる。
そんなに怖いのならば今言ったことをがギルベルトに告げ口するとは思わないのだろうか。
それでも喋っている彼に笑いを漏らす。
「まぁ、これで、いろいろ終わってベルリンに帰れますね。」
は渡された書類に判子を押しながら、ほっと安堵の息を吐いた。
一応一戦を交えたためけが人や死者も出たが多くなく、銀山の鉱夫の死者は反乱分子としてア
プブラウゼン侯爵に処刑された人も含めて多かったが、それでも数としてはしれていた。
ギルベルトの指示で銀山も平常通りの採掘を開始し、軍隊を警察と同じ用法で使って盗賊やら
残っていた傭兵などを一掃したため、戦争で荒れた通商経路の確保も終わった。プロイセンとの
通商も通常通り復活した。
戦時の費用も国債を発行することなく、今までに蓄積していたの個人財産と国家の臨時経常
費で何とか賄うことが出来た。銀山も取り戻せたし、後は砦などを増設すれば、この一件は終わ
りだ。
「終わりなんかじゃありませんよ。」
は大きく伸びをして息を吐いたが、テンペルホーフ中尉は渋い顔をしていた。
「…とられた分の銀はどうするんですか?」
「え?」
彼の言葉に、は首を傾げる。
「…。」
銀山を占領されていた間に採掘された銀は当然アプブラウゼン侯爵にとられてしまっている。
銀山を取り戻しても、採掘された銀は取り戻せない。達フォンデンブロー公国は銀山の銀を奪
われた上に軍隊を動かしてお金をかけたということになる。
「軍事費は、どうするんです?」
「軍事費は国家の臨時経常費とわたしの財産で賄いましたけど。」
「賄ったかどうかではありません。」
テンペルホーフ中尉はを軽く睨む。
「それを取り返してこそ、戦争の終わりですよ。」
まだ戦争は終わっていない。
そう言う彼に、は首を傾げた。
「確かに、それはそうですけど…賠償金とかを、請求するって事ですか?」
「当たり前でしょう。戦争は攻めて勝って終わりじゃありませんからね。」
テンペルホーフ中尉は少し怒ったような顔をして言った。
軍隊を動かすには多額のお金がかかる。利益がなければいけない。損益を埋められなければい
けない。軍備が揃っているならなおさらそうすべきだ。
戦って勝利して、それで終わりではないのだ。
「今の状況ではこちらの負けですよ。」
銀山から確かにアプブラウゼン侯爵の軍隊は引いたかも知れない。ただ、彼らは銀を手に入れ
た。要するに利益を手に入れたのだ。
しかし達は一定量の銀をとられ、軍隊まで動かしたためにお金もかかった。何も良いところ
はない。不利益を大幅に被ったことになる。確かに戦いでは勝ったかも知れないが、その勝利は何
にも生かされていない。現時点では、何も。
「…これからが、駆け引きです。プロイセン王国も参加してきますし多分許さないでしょう。」
テンペルホーフ中尉はを哀れむような目を向ける。
はその意味が分からずに首を傾げたが、ギルベルトの手紙の一番下に書いてあった格言に、
意味が分からなくとも胸が詰まった。
『 Das Eisen schmieden, solange es heiß ist.( 鉄は熱いうちに打て )』
昔からの格言。
事態は動き出した。それをどう扱うかは、運命を担うもの次第。
動いているときに介入しなくてはならない。
「…わたしは、平和であればよいのに。」
の呟きは、誰にも聞き入れられることはなかった。
無自覚の暴力