ギルベルトとがベルリンに帰れたのは、七月も半ばになってからのことだった。アプブラウゼン侯爵領への輸出制限は滞
りなく進んだが、やはりオーストリアへの輸出制限はオーストリアからの反発もあってかなり難航した。


 そのため軍隊と話し合って税関管理などを協議している間に時間がたっていて、ベルリンに帰るのは大幅に遅れた。






「すっかり夏ですね。」





 は馬車からおりて、屋敷の木々を見やる。ベルリンはいつの間にか夏の盛りで、屋敷の庭も青青とした木々ばかりが生い
茂っていた。





「あー。久々に戻ってきたぜ。」





 ギルベルトは小さく息を吐いて、屋敷の中に入ってソファに座る。使用人がいるから部屋は綺麗に掃除されていて過ごすのに久
々とはいえ遜色はない。また明日から宮廷に出仕しなければならないし、交渉で忙しくなるだろうから、ゆっくり出来るのは今日一
日だけだ。

 一ヶ月。アプブラウゼン侯爵からのアクションは何もない。農作物などの輸出制限をフォンデンブロー公国がかけたため、かな
り困っているはずだし、それを期待していたのだが、何も行動を起こすそぶりはない。



 そのために、公国の主であるがギルベルトと結婚したために仲が良く、軍事的な威光を持つプロイセンと共に圧力をかけ
ていこうというのが、フォンデンブロー公国の上層部の意向だった。がベルリンに戻ってきたのも交渉のためだ。

 アプブラウゼン侯爵は元々プロイセン王国の貴族だし、オーストリアと結んで勝手にプロイセンの友好国であるフォンデンブロ
ー公国を襲ったわけで、制裁措置を執るべきだという意見はプロイセン国内には根強い。はおそらく戦争を望んでいないが
公国の申し出を受けてプロイセンがどう動くのかは、国王の采配次第だった。





「明日はフリッツに会いに行くからな。」

「はい。」






 は穏やかに頷いて、カウチに座る。ギルベルトも上着を脱いで適当にひっかけた。

 外の廊下ではざわざわと使用人か、それとも客人かの声が聞こえている。プロイセン側との交渉のためにフォンデンブローから
ベルリンに来たのは随行したのは議会の議長であり、最高司令官でもあるシュベーアト将軍と、市民出身で兵達の信頼の厚いア
ルトシュタイン将軍だ。

 明日国王との謁見だが、一応ギルベルトの妻の国とはいえフォンデンブロー公国は大切な国で、他国からの使節を丁重に扱う
べくフリードリヒは用意していた。しかし、彼らが気軽にベルリンを見て回りたいと申し出をやんわりと断ったのだ。

 そのため、2人の将軍はギルベルトの屋敷に滞在していた。もちろん滞在期間にプロイセン側の将校が彼らにつくことになるが、
それでもかなり自由が約束されていた。これからのためにもベルリンの様子を見て回ろうというのが、彼らの思惑のようだった。ベ
ルリンは豊かな都市であり文化人が多いという面では、非常に興味深いからだ。





「なんだか、大変なことになってしまいましたね。」





 は俯いて、カウチにあったクッションを抱きしめる。





「まぁ、でも、いざとなりゃ、アプブラウゼン侯爵領を攻めれば良いって話だからな。」






 ギルベルトはあっさりと言い捨てた。





「でもそうしたら、オーストリアが文句を言ってくるのではありませんか?」





 が一番心配していたのはそれだった。

 の父アプブラウゼン侯爵がオーストリアと手を組んでいるのは明確なことだ。そのアプブラウゼン侯爵を攻撃すればオー
ストリアが攻めてくるのではないかとは心配していた。





「そりゃねぇよ。」





 ギルベルトはの言葉を否定する。

 ローデリヒとの会談の際、マリア・テレジアが今回のことはアプブラウゼン侯爵はプロイセン王国に臣従しており、アプブラウゼ
ン侯爵がフォンデンブロー公国の銀山を占領したのはこちらに何も非のない物であり、プロイセン王国に責任があると言った。

 それはアプブラウゼン侯爵がプロイセン王国の貴族であり、そちらに臣従する物であると認めていると言うことだ。オーストリア
もそれを認めているのだ。国王が自分の臣下を罰するのに、誰の許可がいろうか。問題ない。


 要するにオーストリアは、アプブラウゼン侯爵に兵を貸してフォンデンブロー公国の銀山を占領し、収益のいくらかをもらうと言う
協定でも結んでいたのだろう。事が終われば、もう関係ないと言うスタンスを貫くつもりのようだ。





「…攻めれば、父はどうなりますか?」





 は俯いて、ギルベルトに尋ねる。





「おまえ、まだそんなこと言ってんのかよ。」

「だって…」





 ギルベルトが眉をつり上げて辛辣に言い捨てると、彼女はますます俯いた。

 アプブラウゼン侯爵は公式ではの父だ。母がフォンデンブロー公国の血筋であったことからは公国の主となった。
しかしアプブラウゼン侯爵はそれを認めておらず、また、を疎んでいる。が彼の子供ではなく、母の不義の子である
からだ。

 醜聞ではあるが、が不義の子であっても、公国の血筋は母の物であるため、公国の主として問題があるわけではない。

 だが問題はが父を心のどこかで慕っているという点だった。母が浮気をした事への申し訳なさがあるらしく、は疎ま
れることも納得し、甘んじて受け入れていた。

 アプブラウゼン侯爵がプロイセン王国の宮廷から逃げ出した原因であるギルベルト暗殺計画も、がギルベルトに密告し
たのだった。婚約者を失いたくないと言う重いからだったけれども、父を犯罪者にし、異母姉を殺すことになったの罪悪感は
否めない物があった。





「…」





 ギルベルトは俯いたまま顔を上げないをじっと見つめる。

 は気が優しい。だからこそ、元々はフォンデンブロー公国にとって敵の将軍であったギルベルトとの結婚も受け入れたし、
ギルベルトの優しさも素直に受け入れた。気が優しいことは彼女の美徳でもある。

 だが、人を切り捨てることの出来ないの優しさは、統治者としては危険だった。ましてや、アプブラウゼン侯爵は今や完全
の敵なのだ。

 血は繋がっていないのだからと、割り切ることだって本当は出来るはずなのに。






「本当に仕方ねぇ奴だな。」





 彼女の性格が好きなギルベルトは結局、息を吐くしかなかった。

 変わって欲しい訳じゃない。統治者だからと言って、が人格を失うのは嫌だし、それならばギルベルトが守ってやるしかな
い。

 幸いにも公国の将軍達はこの間の件でギルベルトを信頼してくれている。軍隊を掌握してを守ることは、それほど難しくは
ないだろう。





「…そんな顔するんじゃねぇ。」






 ギルベルトは途方にくれた表情でクッションを抱きしめているの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。亜麻色の髪があっちこっちには
ねるが、そんなことは気にしない。

 の隣に腰を下ろせば、少しだけがギルベルトに体を寄せてくる。触れるか触れないか微妙な距離だが、彼女なりの
甘えらしいとこの数年間で気がついた。はあまり愛情を与えられなかったせいか、上手に甘えることを知らない。優しくされ
ると戸惑いも大きかったようだが、今はだいぶん慣れてきたようだ。  でも、この微妙な距離は、ギルベルトにとってはもどかしい。





「ほら、こっちに遠慮せずに来い。」





 を抱き寄せて、ギルベルトは自分の足の間に座らせた。一気に距離が近くなって、は頬を染めて俯く。





「あ、あ、の、」

「なんだ?」

「いえ、えっと。」





 なかなか落ち着かないのか、はもぞもぞと身を動かすから、ギルベルトは胸辺りに彼女の頭が当たってくすぐったい。






、」





 宥めるように肩を撫でて名前を呼ぶと、はぴたりと動きを止める。紫色の瞳がギルベルトを見上げてくるから、ギルベルト
は小さく笑って彼女の唇に自分のそれを重ねた。

 自分が国だと言うことは分かっている。彼女が人だと言うことも知っている。でもとの触れあいはそれを忘れさせる。人とし
ての地位を与えられ、人として結婚して、人として。

 それがいつまで許されるのかは分からないけれど、許されなくなったとしても、には傍にいて欲しいと思う。彼女がしわくち
ゃになったって、おばあちゃんになっていたって、それでも構わない。だから、傍に。





「ギルベルト?」





 唇を話せば、が心配そうな顔をしていた。





「疲れているのですか?早くお休みになった方が。」

「いや、もう少しこうしてたいから、いい。」





 ギルベルトはの体を抱きしめる。

 初めて抱きしめた時よりもふっくらとした体には成長が感じられる。そりゃそうだ。彼女は人間なのだから年をおう事に成長する。
自分は、本当に緩やかにしか成長しない。彼女たちにはほとんど変わらないように見えるだろう。





「何があっても、俺が、守る、」





 だから離れていかないで、

 何度も心の中で呟くその言葉は、胸の中にしまって。





  同等の感情で俺を愛して くれませんか?