アプブラウゼン侯爵領へフォンデンブロー公国は銀山占領の賠償金を求めると同時に4ヶ月間の
回答期限を設け、回答なき場合は相応の処置を行うという申し出を公式に行った。“相応の処置”と
いうのは当然アプブラウゼン侯爵領への報復である。
「そう来たか・・・」
フリードリヒは書類を眺めながら小さく息を吐く。
「なんだよ。のやつ。」
ギルベルトは少し頬をふくらませて公国からの書類を受け取った。
要するにプロイセン王国が仮にアプブラウゼン侯爵領へと侵攻しても4ヶ月以内なら援助しないと
表明したに等しい。これですぐに占領するべきだと粋がっていたプロイセン王国側の将軍たちも考
えを改めざる得ない。
フォンデンブロー公国側の援助がなければ、アプブラウゼン侯爵領を攻略するのは兵站や攻略地
図などで多大な苦労が予想される。軍事行動は常に犠牲が伴うが、それでも犠牲は少ない方が良
い。たった4ヶ月で犠牲は減らせる、されど4ヶ月。機を逸するということも考えられる。
プロイセンとの同盟も、4ヶ月の期限後に再び考えると言うことだった。
「様は、戦争を望んでおられませんから。」
報告に自らやってきたアルトシュタイン将軍は眉を寄せていった。その表情にはありありと不満が
現れていた。
アルトシュタインはフォンデンブロー公国の将軍の地位にあると同時に、市民出身であるためブル
ジョワの利益も代表している。しかしそれでも、軍部に深く関わる彼にとっても今回の決定は不服な
のだろう。
「商人たちからの意見もあったのだろう。ギルドがあちらはかなり力を持っているからな。」
フリードリヒはの決断に商人とギルドの陰を推測する。
彼女が非常に人に流されやすい性格だと言うことは、ここ数年のつきあいで十分に知っている。
絶対に将軍とギルド側の代表者の話を聞いただろう。将軍たちは聞いている限りでは主戦論を押し
ていた。しかしおそらくギルド側はこの間輸出入で制限がかけられたばかりだし、戦争となれば通
商は滞る。つい先日まで銀山侵攻で通商が滞っていたというのに、また戦争が起こるとなればもっ
とだ。利益上の問題で戦争をしてほしくないと考えてもおかしくない。
また大切なものを失った彼女の心情を考えれば仕方のないことではある。彼女自身が戦争にお
びえている節があった。そういった彼女の心情とギルド側の意志が一致した。だが将軍たちの意見
も無視しきれず4ヶ月という期間を設けたのだろう。
将軍たちは自国の銀山を占領されたことに立腹だったから、銀山の補償が全くないと言われれば
戦争をしないことに納得できないはずだ。
公国の主であると、軍部とのずれは大きい。
「中途半端だな。」
フリードリヒはの対応をそう評価せざる得なかった。
彼女は状況を冷静に判断したのではなく、自分の意見に合う方の意見を採用した。話し合うと言
っていたが、それでは独断と何ら変わりはない。将軍達に譲歩はしても、出来れば戦争はしたくな
いという魂胆が見え見えだ。
主君が戦争をしたくないと考えていると相手が理解していれば、臆病な彼女からなおさら搾取しよ
うとするのが普通。相手は血は繋がらぬとはいえ父親なのだから、彼女の性格を全く理解していな
いとは考えにくい。
「・・・ギルベルト、おまえ、嬢を説得にかかれ。」
フリードリヒは息を吐いてそう判断した。
「・・・やっぱり?」
「おそらく、嬢にとっても困った事態になるぞ。」
仮にオーストリアがアプブラウゼン侯爵領に軍隊を貸せば、十分に小さなフォンデンブロー公国を
攻めることが出来る。彼女は戦争をしたくないため、戦時体制をとっていない。しかし兵を集めるの
には実際にはとても時間がかかる。戦争をしたくないは、今の状態では攻め込まれるばかり
だ。先制攻撃が有効であるように、攻撃は防御よりも容易いのだ。
軍事的な用意を行わず、どこの国とも同盟せず、回答期限を待って攻撃するなんて、襲ってきてく
ださいと言っているような物だ。アプブラウゼン侯爵領は少なくとも4ヶ月の猶予期間が明確にわか
っており、対策を整える時間を与えられたに等しい。
「しかし、バイルシュミット将軍が言っても、様は本当に戦争がお嫌いで、攻められてこない限
りは譲歩してでも戦争をしたくないとお考えの様子です。」
アルトシュタイン将軍は大きなため息をつく。
「説得はしたのか?」
「いたしましたとも。」
軍事がなんたるかを知っていれば、相手が遅かれ早かれ攻撃してくる可能性が高いことはわかっ
ている。今の有利な状況で攻め込まねば、相手に準備をする時間を与えてしまうと言うことはわか
っている。
しかし軍事のわからない商人は利益を追求している。そしてはその考えを自分が戦争をし
たくないために無条件に採用してしまった。
「だからこそ、ここに私がいるのです。」
アルトシュタイン将軍は別の書類をフリードリヒに渡す。その羊皮紙に書かれたのは地図で、砦の
詳細な記述も含まれていた。
「これは?」
「アプブラウゼン侯爵領の地図です。しかしこれはオーストリア継承戦争が始まる前の物。1740年作
成で、最新に関しては様が持っていらっしゃいます。」
軍事に関する権限は公爵が持つというのがフォンデンブロー公国の掟で、多くの軍事的な地図な
どはが持っている。だがすべて公爵が管理できる物ではない。最新の物に関してはが
保持しているが、軍事行動に使った物に関しては将軍達も持っている。
だが、今は1749年。既に9年の月日が流れている。要塞の場所は変わっていなくとも、装備など
は変更されているだろう。配備されている兵数も増えているはずだ。
「最新版を調べたやつは誰だ?」
ギルベルトはアルトシュタイン将軍に問う。
「・・・最新版は4年前、カール・ヴィルヘルム公子ご存命の頃ですが、公子の直属部隊であったため
存じ上げません。」
最新版の入手は不可能と言うことだ。作成したのが公爵でない限りを通さずに入手できる
かと思ったが、そう簡単にはいかないようだ。ギルベルトはその答えに小さな舌打ちで返した。
公爵家は軍事と鉱山資源を保持することによって議会制度の公国で独自の地位を築いてきた。
その軍事的な部分を簡単にわかるようにしては意味がない。当然と言えば当然だが、不確かな情
報を元に行軍というのも問題だ。
「フォンデンブロー公国軍としては、様の決定に大きくは従う気でおりますが、今の状況は彼
女が考える以上に非常に危険です」
アルトシュタイン将軍はあっさりと状況を表現した。
明確な同盟国はいない。プロイセン側からの援助も4ヶ月は拒絶してしまった。にもかかわらずア
プブラウゼン侯爵がオーストリアに兵員を借りていることは確かで、こちらと違って、あちらはすぐに
援助を受けることが出来る。
「一番良いのは様がご自分で必要性を理解していただけることですが、私は軍隊の総司令官
として、様を守る義務がございます。」
たとえ戦争をしないことがフォンデンブロー公国を統べるの願いであったとしても、軍司令官
として、公爵を守ることに誇りを感じている。そしてずっと何十年もの間、そうやって来た。戦争をしな
いことが大事なのではない。そこにある大切な者が守れるかどうかが、大切なのだ。
ギルベルトは彼の言葉の意図を正しく理解し、目を丸くする。彼は軍隊の総司令官として、主君で
あるに逆らってでも公爵を守ると言うことを表明している。それも、プロイセンの王の前で。
「・・・公爵が一番か。たいそうな忠義だ。だが、」
フリードリヒは机に頬杖をついてアルトシュタインを見据えた。
「それで貴方は、職を失うかもしれないぞ。」
例え忠信からの行動であっても主君の意志に逆らうことは、命令違反であることに変わりはない。
ヘタをすれば職を失うだけではすまない。
「元々これと言ってなくして困る職でもありませんし」
アルトシュタイン将軍はゆるりと笑う。
フォンデンブロー公国有数の将軍でありながら、それすらも捨てても構わないという。本当に守り
たい者が見えている。だからこそ彼はこの地位を一時は辞退したが、の即位とともに戻ってき
たのだ。
もう壮年の男だ、黒髪の中に白髪も目立つ。しかしその美しい深い色合いの瞳は、フォンデンブロ
ーで見た森と同じ色をしている。彼もまたあの国で育ってきたのだろう。
「援助の、密約を。」
アルトシュタイン将軍は森の瞳を細めてみせる。
それはフリードリヒ達プロイセンにとっても悪い話ではない。フォンデンブローは鉱山を抱える豊か
な地帯で補給などのことを考えれば、友好国にしておいて損はない。そしてまたアプブラウゼン侯爵
領を攻める上でも必要だ。
「・・・OK,良いだろう。」
フリードリヒは艶やかに微笑んで、彼の言葉に応じた。
彼女の知らないところで世界は動く。それをまだ彼女が知らないうちに。
正しい世界の綻び を