『可哀想です・・・』
大きな熊が目の前に横たわっている。血を流して倒れた熊は茶色のふさふさした毛並みをしてい
たが、既に事切れていて動かない。
『生きてた、のに、』
眉を寄せて、こみ上げてくる涙を堪えながらそう言えば、呆れたように息を吐く音が聞こえた。い
つの間にか自分の前に影が出来ている。顔を上げれば思い切り片方の眉を寄せた彼がこちらを見
ていた。
『確かに、可哀想だな。』
彼はあまりにも冷酷な弔辞を息絶えた熊に与える。
『だが、・・・おまえは、この獣が何人の人を殺したのか知ってるか?』
その冷たい声音を寸分違えぬままに、彼はそれをに向けた。アイスブルーの瞳がこちらを困
ったように見下ろしている。眼光は優しい。猟銃を肩に持っている彼は革手袋のまま、くしゃりと乱れ
たの髪を撫でた。声音の割に、その手も酷く優しい。
熊は確かに生き物で、むやみに殺してはいけないものなのかもしれない。だが、後から聞いた話
では、この巨大な熊は何の故あってかはわからないが、人里に這い出てきては里の人間を食い殺
していた。4人が犠牲になっていた。一つの命が既に4つの命を奪い、そしてこのまま放置すればま
た別の命を奪っていく。
だから、その連鎖を彼が断った。
『良いか、。』
彼が膝を折る。小さなと彼の目線が同じになる。
『目の前のことは重要だ。自分が見たことに嘘はないから。』
横たわる熊。人間によって殺された熊はとても哀れで可哀想だ。が知るのはこの目の前の
熊のことだけで、人間が本当に犠牲になったかどうか、それについては疑いを持たなければならな
い。だから目の前のことはとても大切だ。
『だが、それをより深く考えなければならない。この引き金を引くことによって、守られる命があること
を忘れてはならない。』
人のテリトリーに入ってきてしまった、猛獣。目の前の無残に殺された熊は可哀想だ。確かにそれ
を殺した彼は酷い人かもしれない。けれど領民達を守るという義務を負った彼は、人里に入ってきた
外敵を撃ち殺さなければならない。そしてそれによって守られる人がいる。
考えれば、勝手に頬を涙が伝う。
『おまえは、熊のために泣いてやると良い。』
優しく頭を撫でる大きな手。
『引き金を引く人間は迷ってはいけない。でも、引き金を引くのは、おまえじゃないから。』
その言葉に、はびくりと肩を震わせた。
熊には気の毒だが、誰かが領民を守るためにも引き金を引かねばならない。その役目を担うのが
、彼なだけ。不運だったのは人間の領域に入ってしまった熊なのか、それとも役目のためにその命
を撃ち殺さなければならなかった彼なのか。
そう思えばますます鼻の奥が痛くなって、涙が溢れた。
『ほら、帰るぞ。このあたりは危ない。』
大きな手がさしのべられて、抱き上げられる。小さな体は簡単に腕の中で、そのまま抱き寄せら
れた。まだ銃からは硝煙の臭いがしていて、つんと鼻の奥を刺激した。
いくつも年の離れた彼のことを、はあまり理解できていなかったように思うし、彼の言うこと
はいつも幼いには難しかった。けれど、彼が教えてくれたことを何となく覚えている。そして、
彼が思っていた理想を求めている。
は懐かしい肖像画を眺める。それは前のフォンデンブロー公爵と孫のカール・ヴィルヘルム
公子、そしての母・マリアと幼いが並ぶ肖像画だ。公爵が、が結婚してしばらくた
った頃にフォンデンブロー公国のヴァッヘン宮殿にあったものを送ってきた。それをはベルリン
の一室に飾ったのだ。
今思えばアプブラウゼン侯爵家に帰ることがほとんどなかったから、これが自分の家族の在り方で
あったのかもしれない。
今生きているのはだけだ。
母が自殺し、カール公子が戦死し、公爵が亡くなった今、フォンデンブロー公国のすべてを握るの
はしかいない。
「わたしは、」
は、いつの間にか引き金を引く側の人間になってしまった。
領民を守るための戦争の引き金を引くのは、だ。しかし、は今回、引き金を引かないこ
とを決断した。
無用な戦争は望んでいない。それは相手も傷つけてしまう行為だ。だから攻め込むなんてことは
したくない。アプブラウゼン侯爵領に賠償金を提示し、それを支払ってくれさえすれば銀山占領への
報復は行わない決定を下した。将軍達は報復を行わないことにこぞって反対して戦争をするべきだ
と言うので、一応4ヶ月という期限を設けた。もしも、4か月何ら回答がなかったらどうするのか。
それを何も考えぬままに、はこの条件をアプブラウゼン侯爵側にも、プロイセン側にも提示し
た。
将軍たちが、すぐにでもプロイセンと結託してアプブラウゼン侯爵領に報復と銀山の補償のために
攻め入りたかったことは分かっている。だが、にはどうしてもその決断ができなかった。
「、帰ってるのか?」
少しためらうような控え目な声が聞こえて、はカウチから体を起こした。ギルベルトの声だ。
「はい、帰っていますよ。」
は答えて、ゆっくりとカウチから立ち上がる。それと同時くらいに扉があいて、ギルベルトが
入ってきた。国王のフリードリヒと話し合いをしていたのだろう。は窓の閉めていたカーテンを
開けて、外の光を部屋の中に取り入れる。
まだ蝋燭をつけるような時間ではない。大きな窓は光を多く取り入れてくれる。
「お話合いは、おすみになりましたか。」
柔らかに尋ねれば、入ってきたギルベルトは複雑そうな表情で頷いて、ばたんと後ろ手に扉を閉
めた。
もうの解答は聞いているだろう。プロイセン王国の将軍たちも、アプブラウゼン侯爵に攻め入
ることを望んでおり、そこはフォンデンブロー公国の将軍たちと同じだ。また、ギルベルトも同じ意見
であることは分かっていた。
「…おまえ、本気で4か月何もしない気でいるのか?」
ギルベルトは細い息を吐いて、意を決したように表情を正してから、冷静な顔つきで言った。
「だって、今わたしたち、攻め込まれているわけではありませんもの。」
アプブラウゼン侯爵は確かにこちらに攻めてきたが、今はフォンデンブローが撃退し、国境線も従
来通りに戻っている。
「だから、わざわざこちらから攻め込む必要はないのでは、ないですか?」
もしもこちらから勝手に攻め込んだならば、それは侵略だ。侵略された銀山の負債に対する保証
はアプブラウゼン侯爵領に求めなければならないが、わざわざ相手の国に攻め込まずとも良い。
4か月の回答期間を設けたが、は4か月たってもアプブラウゼン侯爵領に攻め込む気は、ま
ったくなかった。軍部が望んでいたから、一応4か月という回答期限をつけて妥協したふりをしたが
違う形で国際的な圧力をかけるべきで、軍隊ではなく、平和的な解決方法を模索していた。
「おまえ、馬鹿じゃないのか?」
ギルベルトはその緋色の瞳を丸くして、茫然とした面持ちで言った。
「大馬鹿だぜ。攻め込む必要はない?一度攻め込まれたが、国境線を戻したから大丈夫だと本気
で思ってんのかよ!?」
「だって、今は、今は攻め込まれていません!」
突然怒鳴りつけられて、は戸惑ったままに言い返した。
心はざわついて、うまく頭が回らない。ギルベルトに怒鳴られたのは初めてだった。彼は確かに粗
暴なところはあったが、を怒鳴りつけることもなければ、に対していつも優しかった。
「わ、わたしは、」
戦争をしたくないだけ。ただそれだけだ。
は頭を抱えてギルベルトから目をそらす。
戦争をすれば人が死ぬ。悲しむ人がいる。だから、戦争をしたくない。人を失いたくない。だから、
眼裏に浮かぶのは、最後に見た、血にまみれたカール公子の姿。白磁の肌は生気がなく、温もり
を湛えていたはずの手は凍りつくように冷たかった。を常に庇護し、守り続けてくれた彼。
その姿が、ギルベルトに重なる。戦争になれば、彼だってそうなってしまう可能性が高いのだ。
「おまえ、ちっともわかってねぇよ!」
ギルベルトはの肩をぐっと掴む。爪が食い込むのが痛くて身をよじって逃れようとするとそれ
を許さないとでも言うように力を込めた。
「戦う時に戦わなきゃ、もっとたくさんの人間を殺すことになるんだぞ!?」
耳が痛くなるほど近い場所で怒鳴られて、は耳をふさぐ。
「そんな私情挟みまくって、国政に出てくんじゃねぇよ!」
ギルベルトの言葉に、はぐっと拳を握り締めた。
私情じゃない。戦争をしないことが、軍隊を使わないことがそんなにいけないことなのか。自分は
ただ、もう二度とだれにも死んでほしくないだけなのに、
どうしてわかってくれないの?
「!」
身をよじって彼の手から逃れると、は一目散にドアまで走った。
ひとまず彼から逃げたかった。どうすればよいのか、わからなかった。
ねぇ愛は 此処にあります