は腫れぼったい目を指でこする。


 座っているのは自分が触れるのがもったいないほどに煌びやかで、天井を仰げばギリシャ神話を
モデルにした天井画があざやかに飾られている。あまりの派手さにフランスを思い出して、
眩暈がしそうになったが、最近のはやりは華やかなロココ調で、この宮殿もそれにあったものと考
えれば普通だ。





「ホットミルクを持ってこさせたのだけど、それでよろしい?」





 ひょこりと扉の向こうから顔をのぞかせたのは、白いベールをかぶり、犬を抱えた熟年の女性だ。
ピンク色のドレスが鮮やかで、上品なほほえみにはどきりとした。





「あ、はい。もちろんです。」

「そ?よろしかったわ。」





 彼女は穏やかに微笑んで、にティーカップを渡す。緊張のあまり手が小さく震えたが、なんと
かティーカップを受け取る。彼女もそのことには気づいていただろうが、気づかぬふりでそっと
の肩に毛皮をかけた。





「女性は体を冷やしてはいませんわ。ましてや貴方は大切なお体なのですから。」

「は、はい。」






 は戸惑いながら、素直に頷いた。

 ここはモンビジュー宮。フランス語で私の宝石という意味を持つこの宮殿はロココ式の内装で、今
住まっているのは先代のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の妃でありフリードリヒ2世の母
ゾフィー・ドロテアである。

 ギルベルトとの口論の後、ベルリンのバイルシュミット邸を出てベルリン大聖堂でぼんやり
は、一度フリードリヒ大王主催の舞踏会で顔を合わせたことがある彼女に声をかけられた。供も連
れずに一人で大聖堂にいたは、さぞかし不思議に思えたことだろう。

 既に60歳を超した彼女は、物わかりの良い女性で、何かあったと判断してを自分の馬車に
乗せ、自らの宮殿であるモンビジュー宮に連れ帰ってくれた。





「貴方には前から興味があったのよ。」




 ふふっといたずらっぽく笑って、ゾフィー王太后は犬の頭を撫でた。小型犬で白と茶色の模様のあ
る犬は喉を鳴らす。





「フリードリヒから聞いています。ピアノのお上手なお嬢さんだと。」

「え、ぁ、・・・いえ、」





 確かにフリードリヒや彼に呼ばれていたバッハの前でピアノを弾いたり、音楽会に参加したりと音
楽に関してはよく宮殿に足を運んだり、意見を交わしたりしていた。将軍であるギルベルトがフリード
リヒの腹心であるが、音楽などには明るくない。それを埋めるのがの存在だった。

 しかしまさかそれが王太后にまで知られているとは知らなかった。


 恥ずかしさのあまり頬を染めれば、彼女はくすくすと笑いながら好意的な視線をに向けた。
は明確な行為にほっとする。嫌われてはいないようだ。





「ここは殿方はあまりいらっしゃらないから、気楽になさって構いませんわ。」





 ゾフィー王太后は穏やかに言う。はホットミルクにゆっくりと口をつけた。

 冷たい体に、温かいミルクは染み渡るようだ。ほっと息をつくと、ゾフィー王太后がくすりと笑った。





「喧嘩、なさったの?」

「あ、あの、えっと。」





 素直に答えても良いのだろうか。迷っていると、彼女は皺の寄った口元をきゅっと上に上げた。





「少し離れた方が、お互いに落ち着くからよろしいわ。」





 冷静に言われて、もそうかもしれないと思うと同時に、激しい後悔がこみ上げてくる。

 あんな酷いことを言ってしまって、彼は自分のことをどう思っているだろうか。もしかすると、嫌われ
てしまったかもしれない。





「・・・、」





 そう思うと、先ほど歩とミルクで暖まったはずの心が、少しずつ冷えてくる。謝った方が良いのだろ
うか。だからといって、は戦争をするという決断など、到底出来そうにない。

 ギルベルトはきっと、を助けてはくれないだろう。そう心の中で呟きながら、また涙が出てき
そうだった。

 喧嘩をしたまま出てきてしまったが、この後どうすればよいのだろう。フォンデンブロー公国へ帰れ
ばよいのか、それとも、留まるべきなのか。それさえも見つけられないまま個々にいる。そう認識す
れば、足下の床を失ったような心地がした。





「あまり思い詰めてはいけませんわ。貴方はお若いから。」

「い、いえ、でも仕事が。」





 イギリスとの防衛協議も進めなければならないのに、このような沈んだ気分と乱れた心で出来る
のだろうかと不安になる。それでも、にはうまくそう言ったことを託す事が出来る相手がいな
い。

 自分でやらなければならないのだ。





「あら、それだったら問題ありませんよ。なぜなら、イギリスの代表者達もこちらに泊まっていらっし
ゃるから。」





 ゾフィー王太后の兄は今のイギリス国王のジョージ2世だ。イギリスの大使が彼女の住まうモンビ
ジュー宮に招かれていてもおかしくはない。

 なるほどと思いながらも、フォンデンブロー公国の二人の将軍がバイルシュミット邸にいることを思
い出して息を吐く。戦争をしないと決断してから、主戦派の軍部とも会ってはいない。顔を合わせに
くいことは、結局同じだった。





「失礼します。」





 がホットミルクを飲んでいると、部屋に女官が入ってきた。





「あら、なぁに?」





 ゾフィー王太后は小首を傾げて尋ねる。





「あの、バイルシュミット将軍が内密に様をお捜しのようなのですが、」





 いかがなさいます?と女官はゾフィー王太后に問うた。はびくりと肩を震わせる。

 喧嘩の後、屋敷を出てから連絡を入れていない。彼は心配しているだろうか。それとももう
に愛想を尽かせ、国に帰れとでも言うのだろうか。





「・・・、」





 自分の体を抱きしめて、は頭を抱えたくなった。もう、現実を見たくないとすら思う。

 ただ虐められ、疎まれていた頃の方が、ずっと良かったかもしれない。目をきつくつぶり、瞼を閉じ
ていればそれだけでいろいろな仕打ちから心だけでも逃れることが出来た。でも今は統治者である
と言うことから、それが許されない。



 すべてを、放棄してしまいたい。



 ゾフィー王太后はを一度確認するように見てから、女官に視線を向ける。






「バイルシュミット将軍には、5時間後に馬を出して伝えてちょうだい。」

「え、は?」





 女官がよくわからない命令に戸惑った表情で主を見つめる。ゾフィー王太后はにっこりと笑った。





「だって、少しくらい懲らしめてもよろしいでしょう?だから5時間後くらいに、わたくしが連れて行っち
ゃったって、お答えしてちょうだい。」

「王太后様?」





 も紫色の瞳を丸くして、きょとんと見つめると、彼女は安心させるようにの肩を抱く。





「大丈夫ですわ。少しぐらい意地悪しても問題ないでしょう。軍事軍事と、そればかり申されるのだ
から、わたくしも飽きちゃいましたわ。」





 肩をすくめて小さく息を吐く。オーストリア継承戦争からプロイセンとオーストリアの間では小競り合
いが続いている。ある意味でフォンデンブロー公国とアプブラウゼン侯爵領との小競り合いも、プロイ
センとオーストリアの代理戦争のようなものだ。





「上のルイーゼが嫁いでから退屈でしたの。あの子ったら即位してからちっとも顔を出さないし、本
当に。」






 不満げにゾフィー王太后は口元を隠す。
 どうやらフリードリヒのお気に入りであるギルベルトへの意地悪は、フリードリヒへの意趣返しでもあるらしい。

 はホットミルクに口をつける。少し冷えてしまっていたけれど、温かい。





「帰りづらいのでしたら、この宮殿にしばらくおられたらよろしいわ。わたくしは貴方の味方ですもの。」






 そっとゾフィー王太后に手を握られる。よくわからないが、彼女はどうやらに同情的らしい。






「あ、あの。」

「軍事ばかり一辺倒で暴力的な旦那は放っておいて、しばらくわたくしとゆっくりしましょう。」





 ゾフィー王太后はどうやら勘違いをしているらしい。





「す、すいません。あの、ギルが、わたしに暴力をふるったわけでは、ありません、その、わたしが、」





 彼がに暴力をふるったことも、手を挙げたこともない。彼はいつもに紳士的だったし、
少し粗暴なところもあるが常に優しかった。

 ただ、今回は意見の相違があっただけ。

 思い出せばつんと鼻の奥が痛くなって、は慌てて目をこする。赤くなった目尻は擦れると痛
くて、また泣きそうだった。





「あら、でも貴方、大人しそうだから、言い返せなかったのではないの?」





 ゾフィー王太后の言うことは、的を得ていた。

 確かには多くの場合あまり言い返すことは出来ない。それに自分の意見や感情を言うのが
苦手だ。そもそも、彼ときちんと話し合えば良かったのかもしれない。






「えっと、」

「それではだめですわ。強くならないと。」





 ゾフィー王太后はけろりとそう言って、近くにあった本を手に取る。






「どちらにしても、わたくしのためにしばらくこちらにおられてくださいね。」

「へ?、」

「わたくし、退屈していますの。」





 はっきりと言い切られてしまって、には返す言葉もなかった。


  それはまるで母のよう な