モンビジュー宮の庭の薔薇は見事なものだった。
ここに住まうのがイングランド国王の妹なだけあり、庭の薔薇は種類も豊富で美しい。アーサーは
その中の緋色の薔薇を見つめる。それは彼が国王の妹に自ら送った新種の薔薇だった。
今回プロイセン王国の首都ベルリンに来たのは、プロイセン王国の将軍と結婚し、ベルリンに滞在
するフォンデンブロー公国の女公との交渉のためだ。アーサーにとって非常に重要な決断で
もあった。
ヨーロッパ大陸という近場で鉱山資源を求められるという点は非常に大きく、来るべき英仏戦争や
、アメリカ大陸への拡大のためには鉄が必要だった。アメリカでも鉄はあるが、それでもやはり、近
場のヨーロッパで求められるならばありがたい話だった。
「それにしてもあんなちびっ子が公爵とはな。」
気の毒に、とアーサーはぼやく。
フォンデンブロー女公は、あまりに頼りなかったと思う。将軍達の間で、彼女は紫の瞳はいつも揺
れていた。
「そうですな。」
隣を歩くモンマス公ジェームズも同じように頷いた。
昔から幼い統治者というのは苦労するモノだと相場は決まっている。17歳で、しかも女性ともなれ
ば今の難しい国際情勢で戦っていくのは非常に勇気がいることだ。才能もいる。
「まぁ、ひとまず色よい返事が貰えて良かったぜ。」
おそらく彼女自身も、今のプロイセン王国とオーストリアとの間で揺れるフォンデンブロー公国の本
拠地のせいで、ハノーファーとフランスに挟まれる飛び地にまで目が向かないのだろう。
そう言う意味で飛び地の方の防衛を行うと申し出たイギリスは非常にありがたい存在なのだろう。
「まぁ、使えるだけ、使ってやるさ。」
アーサーはゆるく、うっそりと微笑む。
向こうがどうであれ、フォンデンブロー公国の主が幼くてこちらの良いように使えるならば資源も持
っているし、それに越したことはない。まぁ、利用するだけさせてもらおうと言ったところだ。
「しかし、彼女の夫は、プロイセンの将軍だったはず。プロイセンが黙っていますかね。」
「黙って、ねぇだろうな。あれは、プロイセンだぞ。」
アーサーはモンマス公の問いに、薄く笑う。
「・・・国と言うことですか?」
モンマス公は焦る様子もなく、僅かに眉を寄せて答えた。
確かにアーサーがカークランド卿として公爵の爵位を持ち、外交に顔を出しているように、国が国
家の重役として紛れていることはよくある話だ。特に軍事大好きで有名なプロイセンが将軍として地
位を得ているというのは別に自然なこと。
恋愛だって普通の人間と同じようにするが、国である者が小国とはいえフォンデンブロー公国の主
他国の統治者を娶るなどと聞いたことがない。それほどにギルベルト自身が彼女を気に入ってい
るのか、成り行きだったのか。
「そうだ。珍しいってか、ねぇな。そんな話。」
「あまり、例がありませんね。」
モンマス公もアーサーの考えに頷く。長らくイギリスの国政にも関わり、幼い頃からアーサーが見
ている貴族でもある。そのため国の記録を納めている書庫なども知っている。
だからこそ、驚きとしか言わざる得なかった。
「おまえ、そう言えばフォンデンブローには結構足を運んでいただろ?」
確かモンマス公はハノーファーの近くにある飛び地のフォンデンブロー公国には良く足を運んでお
り、知っていたはずだ。また、今回鉄を輸入するに当たって、イギリス領ハノーファーに近いフォンデ
ンブロー公国の飛び地からという案を出したのも、彼だった。
どういったところなんだ?とアーサーが尋ねようとした時、ちらりと長い髪の影が見えた。
「あれ?」
亜麻色の長い髪が風に揺れている。庭の華やかな薔薇に紛れてわからなかったが、女官も連れ
ずに歩いているのは、どうやら噂のフォンデンブロー公国の女公らしい。
あちらもアーサー達に気づいたのか、目をぱちくりされている。無視するのも間が悪い。
「・・・奇遇だな。」
結局アーサーは声をかけることを選んだ。何故彼女が王太后の宮殿であるモンビジュー宮にいる
のかはわからないが、不快感を与えればこれからの条約の締結や輸出入に差し障る。
「あ、はい。」
少し腫れぼったい目をしたはにこりと笑って薔薇を振る。どうやらそのあたりにいた庭師にも
らったようだ。鮮やかな緋色の薔薇を持っていた。
「お散歩ですか?モンマス公も一緒に。」
はモンマス公にも目を向ける。
「はい。様は王太后様にお目通りですか?」
「まぁ、そんなところです。」
モンマス公の言葉にははぐらかして曖昧に答えた。
「カークランド卿はこちらに滞在しておられるのでしたね。」
「あぁ、王太后の好意でな。」
「イングランドの王は、王太后様のお兄様ですものね。ロンドンのケンジントン宮殿は今もそのまま
ですか?」
「・・・知っているのか?」
アーサーは思わず尋ねた。ケンジントン宮殿は今のイングランド国王ジョージ2世が住んでいる。
「はい。わたしの母はよくイングランドやハノーファーを訪れていましたから。わたしも一緒によく。」
は穏やかそのものに微笑む。よくロンドンに訪れていたとわかれば、すぐに共通の話題はい
くらでも見つかる。
「母は、確かフォンデンブロー公国の縁者だったそうだな。」
「はい。前の公爵の弟君の娘に当たるのです。母はイングランドやハノーファーが好きで、よく訪れ
ておりましたから、存じ上げております。」
アーサーが問えば、は少し幼げな笑顔とともに言葉を返した。
「あそこは広大な庭があり、同じ薔薇が咲いていたと思いまして、ゾフィー王太后に品種でも尋ねて
取り寄せようかと思っておりました。」
緋色の薔薇は鮮やかなだが花びらの枚数が多くはない。大輪を引き立てるように花自体も小ぶり
だ。それを彼女は自分の宮殿に取り寄せようと思っているらしい。恐らく、フォンデンブロー公国の首
都にあるヴァッヘン宮殿に。
「ただ少しきつい赤なので、もう少し薄い色合いだとすてきなのですけれど・・・。」
「あのあたりはここより温暖だろう。だったら他にも薄い色合いのものがある。例えば桃色だとか、
赤の中にもマーブルもあるぞ。」
アーサーはの持っている花を手に取ってみる。
前に立ってみると彼女はかなり小柄だった。まだ17歳と聞いているから少しは身長が伸びるかも
しれないが、それでも多分ドイツの女性としては小柄だろう。
「詳しいんですね。」
は不思議そうに小首を傾げて、小さな笑みを浮かべる。
「あぁ、俺の国の花だからな。」
王家の紋章にもなった、代表的な花だ。
「なんだったら、送ってやるぞ。」
「本当ですか?でも、薔薇は難しいと聞いていますから、枯らしてしまうともったいないので・・・。」
は少し目を伏せてそう言った。確かに薔薇は難しいが、庭師がいるだろうし彼女の家はイン
グランドよりずっと温暖だ。
「おまえの家は俺の家より温暖だから、水のやり過ぎにさえ気をつければ別に良いだろう。」
アーサーは思わず笑って彼女に薔薇を返す。
「は、い。」
自信なさげに言う彼女はぱっと見る限り、彼女はおおよそ統治者らしい威厳も見られなければ、
話し合いの時に見せた議会と駆け引きをする気概もなさそうに見えた。ただ、小柄さも相まって気の
毒さだけがアーサーの心にわき上がる。小さな緋色の薔薇はまるで彼女を示すようだ。風で吹き飛
ばされそうな薄い花弁。
「・・・安心しろよ。防衛協定を結んだら、飛び地の方は俺が守ってやる。」
アーサーは息を吐いて言った。
どうにも女子供には弱い気がするが、仕方がない。これは自国にとっても有利なことだと心に言い
聞かせる。
はアーサーの答えに紫色の瞳を丸くする。その瞳からぽろりと涙が一粒溢れて、アーサー
の方が焦った。
「え、お、おい!」
「す、すいません。」
は慌てて俯いて涙で濡れた目尻を指で拭う。滴に紫色の瞳が朝露に煌めく薔薇に重なる。
「イントゥリーグ、」
「はい?」
アーサーが呟けば、聞き慣れない言葉にはよくわからないという顔をする。
「薔薇の名前だ。紫色の、おまえの目とよく似た色をしている。」
イントゥリーグは色も香り、そして特に蕾の開きはじめが美しい花だ。まだ少女と言うべき年齢の
彼女に贈るに、一番ふさわしい花。
「防衛協定が結ばれればヴァッヘン宮殿に贈ろう。多分、気に入る。」
恥ずかしさ紛れに言えば、は鼻をすすって小さな笑みを浮かべた。
女性に甘いアーサーにモンマス公も苦笑する。
「風が出てくるぞ。もう宮殿に戻った方が良い。」
そう言ってアーサーが伸ばした手に、が手を重ねる。それは、小さな始まりであり、後に繋
がる重要な友情だった。
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