国王のフリードリヒから呼び出しを受けたのはゾフィー王太后の所に滞在し始めて数日たった頃だ
った。
輸出入の協定については議会権限だが、防衛協定に関しては軍事に関わるので一応独断が許
される。しかしこのあたりが解釈の難しいところなのだが、一応単独では危ないと思っていた軍部も
防衛協定には反対はなく、議会も賛成した。
もうそろそろフォンデンブロー公国に戻ろうと考えていたところだったので、退出の挨拶にもちょう
ど良かったと言える。僅かなりとも落ち着いたが、フリードリヒの所に行けばお気に入りの将軍であ
るギルベルトがいる可能性が大きいので、淡い期待とおびえが心の中で交差する。
「様です、」
扉の前にいたのは、よく見知ったテンペルホーフだった。
部屋の中に入れば執務机の椅子にフリードリヒが座っており、ギルベルトは机の前にあるソファー
に足をほっぽり出して座っていた。明らかに機嫌が悪そうに寄せられた眉にギルベルトには
思わず足を止めた。
「・・・入りなさい。」
フリードリヒは歩を止めてしまったに無情にも言った。は裁判所にでも入るような心地
で一歩、一歩と歩を進める。
「座ってくれ、そのあたりに。」
フリードリヒは言ったが、そのあたりと言ってもソファーにはギルベルトが陣取っており、その目の
前しか席はない。自動的に機嫌の悪そうな彼と相対する羽目になり、は怯んだが国王の命
令と有ればどうしようもなかった。
「イギリスと防衛協定を結んだそうだね。」
フリードリヒは軽い調子で尋ねる。彼の方はこのことに関して問い詰めるつもりはないらしい。
「あ、はい。」
便宜上一応プロイセンはフランスと同盟をオーストリア継承戦争の時は結んでいたが、その条約
は既に戦争が終わった今どうなるかわからない。だがまだ失効しているわけではないから、どうい
った反応を返されるか心配だったは安堵した。
「もともと飛び地の方の防衛には困っておりましたので、申し出自体が助かりました。」
飛び地側の防衛は英仏という強国に囲まれた立場で非常に警戒すべき要因の多い場所だった。
だからイギリスが隣のハノーファーのついでに守ってくれるというならばこちらも手間が省けてあり
がたい。
「あちらのカークランド卿もよろしい方で、招かれましたので、今度少しイギリスに立ち寄るかもしれ
ません。」
がイギリスに行くためにはプロイセン王国を通らなくてはならない。通商や旅行なら簡単だ
が、統治者が旅行するとなると話は難しくなる。一応許可を取っておいた方が良いかもしれないとい
う意味で、はあっさりとフリードリヒに言った。
「嫌だね。」
ギルベルトが、フリードリヒの代わりに答える。
「イギリスに行くなら、通行許可は出さねぇ。」
拗ねたような、しかし憤りを押し殺したような響きだった。は大きく肩をふるわせてギルベル
トを見る。緋色の鋭い瞳が、じっとの方を見ている。それが恐ろしくて、はすぐに目をそ
らした。
「それについては、また今度話し合おう。」
「俺は出さねぇぞ。フリッツ。」
凍り付いた空気に冷静なフリードリヒが仲介に入ったにもかかわらず、ギルベルトは次にフリード
リヒにその眼光を向ける。フリードリヒはのように怯えることはなかったが、大きくため息をつ
いた。
「明後日、フォンデンブロー公国に戻ろうと思います。一応アプブラウゼン侯爵領から会談の申し出
があったらしいのです。」
はフリードリヒの援護に、イギリスの話は保留にして、次の話題を述べる。
アプブラウゼン侯爵が占領した期間に持って行った銀と、犠牲の補償として求めていた賠償金は
四ヶ月の回答期間を設けていたが、早々にアプブラウゼン侯爵側から会談があった。アプブラウゼン
侯爵はの父で、プロイセンを事実上追放された2年前から顔を合わせていないため、久々の
親子再会となる。
ましてやはギルベルトを暗殺しようとしたアプブラウゼン侯爵の計画をプロイセン国王に密告
した張本人であり、父にとっては裏切り者と言うことになる。
正直会談は誰かに変わってもらいたいくらい、緊張で死んでしまいそうだった。
母の不義の子であるの父は、実際にはアプブラウゼン侯爵ではない。だが、は彼を心
のどこかで慕っていた。戦争をしたくないのは戦争に対しておびえがあるのもあるが、父を攻めるよ
うなことをしたくなかった。
「会談は・・・銀山の近くで行われるのか?誰が同席を?」
「いえ、アプブラウゼン侯爵領とフォンデンブロー公国の国境線上で行われる予定で、同席はアルト
シュタイン将軍です。シュベーアト将軍は議会がありますから。」
軍の最高司令官であるシュベーアト将軍と統治者であるのどちらもが安全とは言えないアプ
ブラウゼン侯爵領との国境線上に行くわけにはいかない。
「本来なら逆じゃないかい?君が行くべきではないのでは・・・?」
極端な話をすれば、シュベーアト将軍は死んでも換えがきく。軍の総司令官として彼は優秀だが、
彼でなければいけないわけではない。しかし、統治者は血筋の面から考えて彼女でなくてはならな
い。
「・・・わたしが、行きたいんです。」
フリードリヒの問いは当然と言えば当然のものだったが、はまだ心のどこかで父を信じてい
た。
「アルトシュタイン将軍もいらっしゃいますから、大丈夫ですよ。」
とて馬鹿ではない。すぐに軍隊は動かせるようにしておくつもりだし、アルトシュタイン将軍が
いれば護衛にもなる。
「それが、甘いって言ってんだろ。」
ギルベルトが怒りを明らかに押し殺した低い声音で絞り出すように言う。
「おまえ、マジでそんな甘いこと考えて、本気で行く気なのかよ。」
「あ、あの。」
「2年前、アプブラウゼン侯爵がおまえに何を命じたか、わかってんのか?」
2年前アプブラウゼン侯爵はに婚約したギルベルトの暗殺を命じた。当然ギルベルトを手に
かければとてプロイセンから逃れられない。処刑されるのは当然だ。アプブラウゼン侯爵は不
義の子とはいえ、自分を慕う娘を捨て石にしようとしたのだ。
信じているのかと問われれば、複雑だ。父に愛情を向けられたことはないし、優しくされたこともな
い。
「・・・でも、会いたいです。」
は父の命令とギルベルトの生を天秤にかけて、ギルベルトの生を選んだ。でも、父のことを
大切に思っていなかったわけではなく、父を貶めたという罪悪感に長らく駆られていた。会って何か
が変わるわけではないのかもしれないが、怖いながらも心の中できちんと相対しなければならない
ことだと考えていた。
「それが、私情を挟んでるって言ってんだよ!」
ギルベルトが我慢できなくなったとでも言うように立ち上がってを見下ろす。
「おまえの自由で国は動いてる訳じゃねぇんだぞ?領民はおまえの判断違いで死ぬんだぞ?ちょっ
とは自覚しろよ!」
彼の言葉が心に突き刺さる。
そんなことわかってる。だからものすごく悩んでこうやって不安に押しつぶされそうになっている。
どうしたらよいかわからなくて戸惑っている。なのに、どうして彼はわかってくれないのだろう。じゃ
あ、軍部の言うことをすべて聞いていろとでも言うのだろうか。
「じゃあ、戦争をするのが良いって言うんですか!?どっちにしろ人が死ぬじゃないですか!」
はギルベルトに逆らうように声を荒げた。
「向こうの領民だって死ぬんですよ?!そんなののどこが良いんですか?」
戦争をすればお互いに犠牲者が出る。それが良いことだなんて彼はどうしてそう思うのだろう。軍
隊は確かに防衛には必要だが、簡単に使って良いものではない。
「はぁ?誰が良い悪いの話をしてるんだよ。あげく相手の心配までしてんのかよ!自分の領民で精
一杯だろ?ってか自分の領民を守るのがおまえの仕事で他人まで心配するたまかよ!!」
「だって、入ってきてないんですよ!撤退したんですから、わざわざ攻める理由がどこにあるんです
か!?」
「おまえ、この間攻められたばっかりだろ?!なのに、何だよ!会いたいって、」
「正式な会談です!私事で会う訳じゃありません!」
「ましてイギリスと組んでどういうつもりだよ!プロイセンとは軍事同盟は組まねぇって言ったくせに!!」
ギルベルトは息を吸い込んで、懸命に反論してくるに言い捨てる。
は紫色の瞳を丸くしてその言葉を聞いた。要するに彼は自分の国に重きを置かなかったこ
とが気に入らなかったのだ。
「・・・わ、わたしは、必ずしもプロイセンを選べる訳じゃないんです!」
イギリスとの防衛協定をとやかく言われる筋合いはない。フォンデンブロー公国にとってイギリスと
の防衛協定は議会、軍部を含めても有益だと判断された。ギルベルトに怒られるようなことではな
い。
しかし、の言葉が決め手になったのだろう。
「はっ、勝手にしやがれ。」
ギルベルトは言い捨てるように鼻で笑って、そっぽを向いた。執務机のフリードリヒはあまりの二
人の喧嘩に目が点になっている。
も、もう退くことが出来ない。
「勝手にします!」
そう言うしかなかった。
とけきれぬ ねがい