執務室に沈黙が落ちる。




「・・・おまえ、落ち着けと言っただろう。」




 フリードリヒが呆れたような、呆けたような、そんな声音でギルベルトに言った。ギルベルトは思わ
ずソファーを蹴りつける。





「一応それは、フランスから取り寄せた品なんだが・・・・。」

「しらねぇよ。」





 ギルベルトは怒りもそのままに先ほど蹴ったソファーにドサリと腰を下ろす。

 何故、プロイセンではなくて、イギリスと防衛協定を結ぼうと思ったのだろう。何故ギルベルトでな
くて、アーサーだったのだろう。

 立地や国民感情などいろいろなものがあるのはわかっているし、彼女はフォンデンブロー公国の
統治者だ。彼女が国のことを考えるのは当然だし、そう義務づけられている。ギルベルトだって頭で
はそのことを理解している。

 でも感情はついてこない。

 自分が一番でいた。プロイセンもギルベルトも、すべて自分だ。どちらかが否定されては嫌だ。ど
ちらも肯定して欲しい。




「だめ、だ、」





 ギルベルトは自分の髪を手でくしゃりと掴む。

 には自分が国であることを話したことはない。まだ彼女は17歳で、おそらくギルベルトが何
も言わずともあと数年は少なくとも気づかないだろう。ギルベルトが年をとっていないことに。

 がギルベルトに対して知っているのは多分嘘の経歴だけだ。プロイセンにおいて地位を持
つ古い家柄の出身で将軍の地位を持つということだけ。


 でも、ギルベルトは「国」なのだ。プロイセンの国そのもの。

 自分を知って欲しい、国だと知った上で、望んで欲しい。知った上で受け入れて欲しい。


 結婚した頃はがいるだけで満足だった。傍にいて微笑んでくれるだけ、それだけで満足だっ
たのに、今はすべてを受け入れて欲しいという気持ちが大きくなっている。そして温かさを知ってし
まったからこそ、受け入れてくれなかったらどうしようという不安と恐怖も倍増した。



 こんな感情、知らない。

 自分はこんなに臆病だっただろうか。軍人として戦場に立っている時ですらこれほどに迷い、焦燥
を感じたことはないと思う。

 今まで、自分は自分だった。

 国である自分も、人と違う自分もありのままに受け入れていた。人になりたいと思ったことはない。
1人だったとしても、誰が自分を置いていったとしても、少し待てば、また違う人が来る。確かに仲の
良い人を亡くした時、その時は悲しかったけれど、心のどこかで、自分には長い時があるのだから、
また友人を作ることが出来る、新たな人を見つけることが出来るとポジティブに考えていた。

 少なくとも、今まで人を羨むことなど、人になりたかったと思う事なんて、なかったのに。





「・・・イギリスとの防衛協定は、恐らく彼女にとっては国のために最善の策だったろう。」





 フリードリヒはやんわりとを弁護する。

 フォンデンブロー公国の本土がプロイセン王国とオーストリアの争いに巻き込まれている以上、飛
び地の防衛にまで手が回らない可能性は強く、飛び地が海側であることを考えれば、強い海軍力
で制海権を握るイギリスとの同盟は妥当性がある。





「わかってる、わかってるさ!」





 ギルベルトは苛立ちもそのままに言葉をはき出した。

 国のためにがその決断を下したことはわかっている。まだ若いから私情を交えることもある
けれど、彼女は馬鹿ではない。目算もない防衛協定を結ぶほど、愚かではない。





「でも仕方ないだろ!?俺、国なんだ。プロイセンなんだよ!」





 自分を一番に思っていて欲しい。一番に彼女の傍にいたい。なのに彼女が選んだのはプロイセン
ではなくイギリスだった。イギリスそのものであるアーサーを思い出せば、身がよじれる思いがする。

 彼女は国ではない。人間だ。彼女が選んだのはイギリスという国であって、それ以上の意識はな
い。でも、わかってはいても許せない。彼女が選んだのが自分ではなく違う国であるという事実が。
自分は1人の個人で、個人として、彼女を愛している。しかし、同時に自分は国で、国としての意識
が彼女を求める。





「・・・なら、おまえは彼女を征服するか?」





 フリードリヒはゆるりと目を細める。





「え?」

「軍部は今、彼女に不安を抱いている。また、彼女に権限があることを危険だと思っている人々だっ
ている。彼等をプロイセンが援助して、フォンデンブロー公国を、プロイセンの傀儡にするか?」





 フォンデンブロー公国は豊かだが小さな国だ。アプブラウゼン侯爵領とオーストリアとの関係に揺
れるフォンデンブローを攻め落とすことは出来るだろう。それが仮に出来なければ、今彼女に不満を
持つ軍部を先導して、彼女から権限を奪ってしまえばいい。

 は女だ。女のが軍事の権限を公爵とはいえ持つのはおかしいと、権限を奪って議会
に与えることは出来る。もしくは夫であるという名目の元にギルベルトが奪ってしまえば良い。ギル
ベルトの軍事的センスを見れば不足に思う人間などいないだろう。隣国から攻められたフォンデン
ブロー公国は強い主を求めているはずなのだから。






「・・・欲しいか?」






 フリードリヒの問う言葉は甘い毒だった。

 酷く魅惑的で、それでいて甘い、甘美な問いかけだ。国としての自分が彼女のすべてを欲してい
る。人である彼女をまるで国に見立てて、否、違うかもしれない。国としても、個人としてもギルベル
トは彼女をこれ以上ないほどに欲しているのだ。





「欲しい、な。」





 ギルベルトは心が望むままに口にする。

 言葉にしただけで、喉の渇きが増した気がした。欲しい。とても欲しい。自分にはそれを望める力
がある。





「だが、それならばおまえは彼女が彼女でなくなる心づもりをしろ。」





 フリードリヒは冷静な言葉を浴びせる。





嬢は、おそらくおまえを憎まないだろう。だが、悲しみに覆われる彼女が正気かどうかは、責
任をとりかねる。」






 はフォンデンブロー公国の跡取りで、婚約予定だったカール公子の死をギルベルトのせいに
はしなかった。オーストリア継承戦争で敵に回り、カール公子の軍を追い詰めて死に追いやったの
はギルベルトだ。だが彼女はそのことを憎まず、ギルベルトと言う本人を見ていたが、同時にカール
公子の死に大きな悲しみを抱えた。

 平和的な方法で彼女から権限を奪うことは可能だ。だがその後戦う将軍達を、ギルベルト達を見
て、彼女は正気でいられるだろうか。何も止められず、決定することも出来ない立場に甘んじて、耐
えられるだろうか。





「・・・・それは、」





 ギルベルトは拳を握りしめて取り残されたような気持ちになった。

 彼女の控えめで柔らかなほほえみを思い出す。菫と同じで飾らぬ紫色の真摯な色合いを示すた
れた瞳はとても優しい。それが悲しみに染まることは、ギルベルト望むところではない。いつも笑っ
ていて欲しい、悲しまないで欲しい。





「彼女は議会とともに話し合って、プロイセンとの同盟も順次考えると答えてきている。それをこちら
は強引に推し進めることが出来るはずだ。」





 はプロイセンとの同盟を据え置くと言っただけで、別にしないと言ったわけではない。幸いプ
ロイセン側はフォンデンブロー公国と親しくなることを軍事、経済面でも強く望んでいる。それを考え
れば今確かに彼女がイギリスと防衛協定を先に結んだからと言って、何ら問題はないはずだ。





「冷静に考えろと、言っただろう?」





 言ってしまえば、彼女にイギリスと同盟して欲しくないなんて言うのは、ギルベルトの心が起こす
焼き餅であり、国家の運営や彼女個人には何ら関係ないのだ。彼女は国ではないのだから、イギ
リスのモノになるわけでもない。





「でも、」

「うまく心の区切りがつけられないのはわかるが、それでもおまえは、個人として彼女を愛している
んだろう?」






 フリードリヒは柔らかに微笑む。

 割り切れない感情があるのは仕方がない。なぜならギルベルトは個人でもあり国でもあるのだ。
だが彼女が求めているのは、知っているのはただの個人としてのギルベルトで、国としての彼を知
らない。そして彼女自身も、ただの人間で個人なのだ。決してフォンデンブローは彼女の思い通りに
なるわけではないし、フォンデンブロー公国の動きが彼女の心ではない。





「好き、だから、一番が良いんだよ。」





 組んだ手を額に押し当てる。

 国としても、人としても、彼女の一番で有りたいと願う。この気持ちは彼女に理解して貰えないモノ
なのかもしれない。でも、理解して欲しい。彼女が離れていくかもしれないという恐怖を常に抱きな
がら、国としての自分を口に出せぬままに、それをただひたすらに願う。





、」





 目を閉じても、ギルベルトの瞼の裏に浮かぶのは、先ほどの泣き顔の少女だけだった。






  争いを呼ぶ声