は用意された荷物をぼんやりと映しながら、腫れぼったい目を指でこすった。

 ギルベルトとフリードリヒの目の前で大喧嘩を繰り広げてから、は王宮の一室で気持ちを落
ち着け、涙が止まってから馬車に乗って王太后ゾフィー・ドロテアの住まう一時避難所であるモンビ
ジュー宮に戻ってきたのは良いが、与えられた部屋に戻ると結局また泣き出してしまった。

 王太后の女官や侍女は既に遠ざけてあるため部屋に入ってくる人はいない。それがなおのこと悲
しく、怒鳴られたことを思い出されて情けなくて、涙はとどめようもなかった。どうしてこんなにうまくい
かないのだろう。

 は大きな窓を開いて部屋の中に風を入れる。夏の庭は賑やかで、薔薇やら花が咲き乱れ
ている。フランス式の左右対称の造園は美しく、新鮮な風とともに柔らかい香りが部屋に入ってきて
よどんだ空気を洗い流してくれるようだった。




 モンビジュー宮には王太后の客人か使用人しかおらず、喧噪は遠い。

 庭に出ている人もまばらで、麦わら帽子をかぶって庭仕事をしている庭師の姿が遠くに見えた。
風にふわふわと麦わら帽子が揺れている。懐かしい光景に、は目を細めた。





『ほら、、見てご覧なさい。』





 イングランドの地を訪れた時、彼女は同じ屋敷に良く滞在していた。桃色の薔薇の綺麗な館で、ユ
リアはその甘い香りに酔うような気がして苦手だった。だが、彼女は本当に嬉しそうな笑顔で
に薔薇を差し出した。





『あげる、私のかわいい娘』





 かわいい娘、と彼女は笑う。綺麗な桃色の花弁。

 父や姉からはいつも疎まれていた。でも母は自分のことを必要としてくれた。心から愛してくれた。
その盲目的な愛は時に重かったけれど、決して嫌ではなかった。それが、の生きている証だ
ったから。





「何ぼんやりしてんだ。おまえ、」





 突然声をかけられて驚いて顔を上げると、目の前には先ほど見ていた麦わら帽子の男がいた。よ
く見れば帽子の下にあるのは鮮やかでしっかりとした金色の髪で緑色の瞳は生き生きとしている。
彼が手に持っている篭にはしおれた薔薇が入っていた。





「え、か、カークランド、卿?」





 麦わら帽子にラフなシャツを着た彼は、どう見てもイギリスでも高位の貴族には見えない。





「何故カークランド卿ほどの方が、庭師のまねごとを?」





 は戸惑いながら尋ねる。





「悪いかよ。」

「いえ、悪くはありませんが。」





 素っ気なく返されては小首を傾げて頬を引きつらせた。

 別に悪くはないが身分社会の厳しいこの時代に、使用人まがいのことをするのは珍しいと思うだ
ろう。けれど、は別にそれを悪いことだとは考えていなかった。





「薔薇、お好きなんですね。」





 前の話した時も、彼は薔薇の話をしていた。イギリスの国の花は確かに薔薇のイメージが強いが
自分で世話をするほどに好きなのだろうか。一般的には薔薇の種類を集めることはするが、自ら世
話をすることはない。世話は庭師などがする。





「薔薇はきちんと世話をしなければ、すぐに枯れるからな。」

「もしかして品種改良とかも、ご自分で・・・?」





 がおずおずと尋ねると、彼はもちろんだと頷いた。






「自分で品種改良しなけりゃ、掛け合わせがわからねぇし、どんな色合いが出るのか好みは自分自
身のモノだからな。」






 彼は誇らしげにそう言った。


 まだらだったり、赤や白だったり、薔薇の品種はいろいろある。蕾の大きさ、花の大きさ、花びらの
数、花びらの重なり具合、実際に薔薇と一口に言っても、その種類は幅広い。は薔薇を作る
わけではないのでよく知らないが、母と見たイギリス式の庭園にはたくさんの種類の薔薇があった
と思う。





「・・・なるほど。」





 は納得して僅かに紫色の瞳を伏せる。





「やるよ。」





 彼が突然そう言った。差し出されたのは柔らかな色合いの桃色の薔薇だ。花びらはそれほど多く
はないが厚く、重なる花は美しい。

 はその綺麗な花をおずおずと受け取った。綺麗だと微笑むと困ったような顔で彼は笑った。




「ひでぇ顔だぞ。」

「え、」





 は慌てて目元に手を当てる。

 先ほどまで泣いていたのをすっかり忘れていたのだ。目元は未だに赤いままだったし、外に出るよ
うな格好ではない。大きな窓辺にたたずんでいただけで、人に会う予定もなかったので油断してい
た。






「薔薇は女性を微笑ませるモノだ。だから素直に受け取って、笑え。」

「あ、はい。」





 彼は横暴な口調でそう言ったが、基本的には優しい人物のようだ。は思わず口元に手を当
てて笑ってしまった。





「どうした?あの戦争馬鹿に何か言われたか?」

「戦争、馬鹿・・・・?」





 率直な物言いだが、いまいち誰かわからない形容に首を傾げる。






「ギルベルトだよ。ギルベルト。」






 アーサーは屈託なく笑う。その姿がギルベルトと重なり、なにやらやりきれない気分が心の中にわ
き上がる。目を伏せて彼の怒った顔を思い浮かべれば、なおさら気分が沈む。






「難しいですね・・・一生懸命、やっている、つもりなのですが。」





 は小さく、けれど長い息を吐いた。彼と自分の目指すところは違うのだろうかと酷く不安にな
る。どうすればよいのだろうか。その答えすらもは未だに見つからない。

 父と最後にあったのは2年も前だ。だがアプブラウゼン侯爵に、明確な敵であるフォンデンブロー女
公としては会うのだ。過去のしがらみから考えても、会うべきではないのかもしれないが、どう
しても直接会いたかった。





「・・・アプブラウゼン侯爵と、会おうと思ったのです。」

「そりゃ危険だろ。」






 アーサーは本当に口早に、速攻言った。確かに危ないのはとてわかっている。






「でも、一応こちらも軍隊を動員しますし、国境線上なので、決して」





 軍隊もきちんと動員するし、護衛だってつける。決して無謀な会談ではないとギルベルトにも告げ
たつもりだったが、いまいち伝わらなかったようだ。






「・・・あのなぁ、おまえ確か子供いねぇだろ?」

「え?あ、はい。」

「次の継承者は誰だ?」





 アーサーの問いは冷静そのものだった。






「えっと、・・・アプブラウゼン侯爵です。」

「はぁ?敵だろ?」

「あの、私の父なんですけど、母方がフォンデンブロー公家に一番近い血筋でして、隣の領地になる
ので、父が二番目なのです。ただ、・・・財産・・・」

「は?訳わかんねぇ。おまえの父親だよな。」

「・・・・そ、う、ですけど。」






 は矢継ぎ早に質問をしてくるアーサーにたじろぐ。

 やっぱりギルベルトの言うとおりかなり非常識なことなのだろうか、会いたいというのは。
不安に思って胸元で手を握って目を伏せる。






「結構、危険なんじゃねぇの?敵、だよな。」






 アーサーはの動揺を悟ってか、躊躇いがちに尋ねる。は一応頷いたが、心の中の迷
いは捨てられなかった。

 父と、言っても良いかどうかすら、怪しい。が本当の父がアプブラウゼン侯爵ルドルフではな
いと知ったのは、母が自殺してカール公子に引き取られてからだった。なんとなく、父が自分を阻害
していたのも、兄姉達がを嫌っていたのも知っている。ただふれあう時間が少なすぎて
にはわからなかった。兄や姉達とは母親が違うので強い継承権を保持するのものみだ。

 カール公子が真実を教えてくれたのは、母が自殺してからを放置した父を、まだが慕
っていたからだろうと思う。おそらく、不憫に思ったのだ。血も繋がらぬ父を父だと思い込み、愛情を
得られないことに悩むが。






「OK、俺が仲裁に入ってやるよ。」






 迷いが透けて見えたのだろう。アーサーは少し考えるそぶりを見せて、ふっと笑った。






「仲裁、ですか?」

「あぁ、イギリスの前で無体を働くことはないだろう。だから、」





 イギリスは大国だ。フランスとイギリスは一二を争う大国で、海軍力ではイギリス、陸軍力ではフラ
ンスが勝ると言われる。海側にある飛び地を守るために、は海軍力の高いイギリスを防衛協
定の相手として選んだ。

 イギリスはオーストリア継承戦争の時は敵同士だったが大陸に軍隊を直接派遣したことも、刃を
交えたこともないので、軍部も反対はしなかった。





「え、でも、・・・その、悪いですし・・・、こちらの問題ですから・・・」





 は突然の申し出にすぐに応じることが出来ず、曖昧な言葉を返した。

 イギリスの領地とフォンデンブロー公国の本拠地は離れている。確かに介入して貰えるのはあり
がたいが、これ以上何かいらないことをしてギルベルトに怒られるのが怖いという気持ちもあった。






「べ、別におまえの、ためじゃないからな!ただ、こっちはおまえに死んで貰っちゃ鉄の輸出が困る
から!」







 アーサーはそっぽを向いて、腰に手を当てた。だが、日頃のきちんとした正装姿ならば格好もつい
たかもしれないが、どうにも麦わら帽子にシャツ姿ではシュールで言葉が出ない。





「・・・あの、えっと、」





 先ほどのギルベルトを思い出して沈んだ気持ちが、そのあまりにも不釣り合いな光景に思わず笑
いがこみ上げてくる。

 優しい人なのはわかるが、随分と照れ屋な人だ。





「よろしいん、ですか?」





 は彼の慌てようを見ながら、差し出がましい願いをする。






「こ、こっちから言い出したことだからな。」





 彼は恥ずかしげに頬を染めてそっぽを向いたまま、満足げに笑って見せた。






  汚れた手に救いの手 を