窓の外を流れるのはのどかすぎるほどのどかな田園風景で、豊かな農作物の栽培を可能として
いるフォンデンブロー公国へと近づいていることがわかる。

 は小さなため息とともに体を動かした。クッションの上でも馬車では振動が伝わり、昨晩のギ
ルベルトの横暴もあって、腰は痺れるように痛かった。

 ギルベルトは昨晩の疲れのせいか、早朝に出発した時は起きていなかったが、昨晩のことを考え
れば起きていなくて良かったかもしれないと思う。




「・・・・」




 応じようと思った。ギルベルトが求めてくるなら、応じなければならないし、自分も彼に触れたかっ
た。そのはずだったのに、求める体と、心がうまくかみ合わなかった。彼と喧嘩をしてそれが解決さ
れていないとそればかりが心の片隅を埋めてしまって、いつものように素直に応じられなかった。

 求める体はそこにあったのに、まるで心と乖離してしまったようで、求めながらも頭でやめてと叫ん
でいる気がした。

 そんな心の機微が、彼にも感じられたのだろう。触れる手はかつてないほど乱暴で、痛みを伴っ
た。彼はいつも壊れ物を扱うように優しくに手をさしのべる。それは結婚から数年たった今で
も変わらず、常に彼は優しかった。


 だからあんな風に扱われたことは初めてで、どうして良いかわからなかった。

 要する、は逃げたのだ。彼が起きる前に、あの場から。






「わっ、」






 馬車ががたんと揺れて、止まる。油断していたは前につんのめって椅子から落ちそうになっ
たが、なんとか近くの壁にあった手すりを持って耐えた。

 こんこんと馬車のドアが叩かれる。





「はい?」

「休憩らしいぞ。」





 素っ気ない声音はカークランド卿アーサーだ。が扉を開くと、彼が手をとった。






「・・・森のど真ん中ですね。」

「まぁ、昼食代わりも含めてだからな。近くに湖があるらしい。」





 彼は口早にそう説明した。外に出ると森の中でいそいそと侍女やら侍従が携帯式の机を取り出し
食事の用意をしている。少し向こうにはモンマス公の姿も見えた。





「大変ですね・・・・。」






 思わずはそう呟いていた。隣にいたアーサーも一団を見ながら黄昏れるの気持ちが
わかったのだろう、小さく笑った。





「おまえ、本当にリーダーにむかねぇな。」

「・・・もともと優柔不断なんです。選択したこともないし。」





 アプブラウゼン侯爵令嬢として生まれて、父と不仲であった母に連れられて諸国を回った。父や異
母兄姉に疎まれることがあったでも、フォンデンブロー公女の地位を持ち、公国の血筋である
母の娘を無碍に扱う人間などおらず、丁重に扱われた。すべての判断は精神的には危ういとはい
え、母が行っていた。

 が決定することなど何もなかった。

 母が死んでもの後見から何から何まで決定したのはカール公子で、カール公子が死ねばそ
れを決定したのは、祖父の兄であるフォンデンブロー公爵だった。公爵が死んで、はほとんど
の采配をふるう立場に立たされた。

 だが、それまで選択したことと言えば、本当に数えるほどで、苦渋の大きな選択だったとはいえ、
たった数個。突然すべての采配をゆだねられても無理があるというモノだ。





「だと思って、適当に侍従達には指示を与えておいたぞ。」

「ありがとうございます。」






 カークランド卿は命令することには酷くなれているようで、も安堵する。ギルベルトもそうだ。
命令することに、慣れている。





「用意が出来たようですよ。」




 柔らかな緑色の瞳を細めるアルトシュタイン将軍が、とアーサーの方に手招きをする。





「あ、はい。」





 が返事をしてそちらの方を見ると、食事の用意がされていた。簡易用テーブルには白いテー
ブルクロスがしかれ、上にはブルストやポテト、ワイン、ビールなども置かれていた。果物などはそ
のあたりの農家から譲ってもらったものだろう。

 とともにテーブルに着くのは、四人だ。

 今回ベルリンからフォンデンブロー公国の首都ヴァッヘンへ戻る一同を率いるのは当然フォンデン
ブロー公のだが、一段にはフォンデンブロー公国の将軍でありに同行していたアルトシュ
タイン、アプブラウゼン侯爵領側との会談で仲介役を務めるイギリスからカークランド卿アーサー、モン
マス公ジェームズが随行している。

 そのためそこそこの大集団となっていた。


 としては大きな集団になると侍女や侍従もたくさんいるし、自分が判断しなければならない
ことも増えるので疲れるから好きではないが、他の人の身の安全がかかっているとなれば流石に
自分の我が儘で護衛を減らすわけにもいかない。



 大所帯の指揮を執るのはのはずだったがアーサーが何かと手配してくれたおかげで
は結構自由に出来た。







「どうぞ、」





 が皿に盛られた肉をアーサーの方に渡すと、彼はきょとんとした顔をした。





「こういうのはレディ・ファーストだろう?それに、おまえの方が高位なんだからな。」

「あぁ、そ、あ」





 どうすればよいのだろうと持った皿を彷徨わせていると、結局彼はの皿を受け取った。





「秘密だぞ。」







 いたずらっぽく笑う。


 身分上はフォンデンブロー女公およびバイルシュミット公爵夫人でもある。プロイセン王国の
王族にも次ぐ地位を持つ彼女を軽んじることは許されないが、気心の知れた人々の間では問題な
いと判断したのだろう。

 アルトシュタイン将軍も苦笑しながらもアーサーの非礼を受け止めた。





「カークランド卿は、フォンデンブローを訪れるのは初めてなのですか?」






 は親しげにそう話しかける。モンビジュー宮殿にいる間に客人として滞在していた彼とはいく
らか打ち解けた。元々人見知りの気のあるだが、それはアーサーもらしく、最初は正直ぎこち
なかったが、徐々にいろいろな話をするようになった。





「あぁ、そうだな。俺はあんまり。だが、モンマス公は何度か訪れたことがあるらしい。」





 そう言って彼はモンマス公に目を向ける。紫色の瞳をした彼は、真っ白の髪を撫でて頷いた。






「若い頃です。本当に、若い頃の話で、マリア・アマーリア公女とはロンドンでも仲良くさせていただ
きました。実は様とも、一度遠目にはお会いしているのです。」






 モンマス公はとても楽しそうに、話す。

 マリア・アマーリア公女とはの母のことだ。がフォンデンブロー公国の前公爵の弟の娘
で、血筋の絶えた公爵家をが継ぐ原因となった。母は夫であるアプブラウゼン侯爵と不仲で、
生まれたを侯爵は認知したが、は侯爵の子供ではないと言われている。母はアプブラ
ウゼン侯爵領にほとんど帰ることなくを連れて放浪し、イングランドに滞在中自殺した。






「そう、ですか。」






 は小首を傾げてそう答えた。






「母はどんな方だったのですか?」

「貴方が、一番ご存じでしょう。私などが言うなど差し出がましい事です。」






 モンマス公は謙遜して答えた。

 確かには常に母の傍にいた。だが、本当に母のことを理解していたのだろうかと思う。自殺
の兆候とて、は何もわからなかった。変わったことなど何もないように見えた。

 母が自殺してから、の迎えと母の説得に来たカール・ヴィルヘルム公子が、母からの遺言を
見せてくれた。フォンデンブロー公爵にあてられた遺言状には、に自分の財産のすべてを与
えることと、の身柄をくれぐれもよろしく頼むという旨がたくさん書かれていた。

 だから、決して彼女の愛情を疑ったわけではない。でも、母を懸命に愛すだけでは足りなかったよ
うに思う。どうして母が自殺したのか、未だに真相は知れない。が覚えているのは、最後まで
優しい母だった。悲しみは、どこにあったのか、わからない。





「ヴァッヘンの宮殿は湖畔にたたずむ宮殿だと聞いている。さぞかし美しいだろうな。」






 アーサーがに笑って言う。

 ヴァッヘン宮殿の目の前には大きな池というのか湖というのか、ひとまず水が引かれ、その湖は
運河へと繋がっている。運河はプロイセンなどにも流れ落ちていくのだが、湖畔にたたずむヴァッヘ
ン宮殿は美しいことで有名だった。入り口は湖畔側にあり、裏には広大な庭と森が広がる。

 プロイセンより比較的温かいので、ギルベルトと結婚してから最初の冬はベルリンで過ごしたが、
次の年からは寒さから逃れるようにヴァッヘンで過ごしていた。





「はい。きっと気に入っていただけると思いますよ。」






 は珍しく断言をした。

 のどかで美しい宮殿は、確かに今のはやりのロココの華やかさもあるが、イングランドから訪れた
アーサーには気に入って貰えるような気がした。





  理由はないよただ似ていると想ったの