アプブラウゼン侯爵領とフォンデンブロー公国の狭間に位置し、前回の侵略の折に戦禍を受けた
銀山にほど近いベンラスにある、ベンラス宮殿で行われた。ベンラス宮殿はかつての父母・ア
プブラウゼン侯爵ルドルフとフォンデンブロー公女マリア・アマーリアの婚礼が行われた宮殿である。

 仲介者のイギリスカークランド卿が中央に座り、それぞれフォンデンブロー公国側、アプブラウゼン
侯爵側が長いテーブルに対面して座る。

 目の前には白髪交じりの黒髪を軽く押さえ、青色の瞳でこちらを睨んでくるアプブラウゼン侯爵が
いる。隣には異母兄で次の侯爵となるヨーゼフが控えている。

 対してフォンデンブロー公爵のの隣にいるのはアルトシュタイン将軍だ。はいるだけで
実務協議の方はが行うのではなく、アルトシュタイン将軍が行う。彼は市民出身であるから、
市民、貴族両方の利益を代表している。だからこそシュベーアト将軍も全権を彼にゆだねた。

 他にもまだ若い女公のを支えるために、文官、武官、書記官などたくさんの人々が同席して
いる。

 だからこそ、一番上座に座るは酷く場違いにも思えて、もぞりとドレスの下で足を動かした。
すると、それを見ていたアーサーが困ったような、呆れたようなよくわからない表情で苦笑している
のが見えた。




 自分はどんな顔をしているのだろうか。

 部屋に引き返したい衝動に駆られたが、今引き返すことなど出来ないので、は目を伏せる
だけにとどめた。

 久方ぶりの父であるアプブラウゼン侯爵との対面がこのような形になるとは思わなかった。 

 最後に顔を合わせたのは国王主催の狩猟の際だ。はその後父が指示するギルベルト暗殺
を拒否し、父からの手紙をプロイセン国王に渡す形で父を密告した。父はプロイセン王国の裁判所
から召還を受けたがそれを拒否し、今もアプブラウゼン侯爵領に留まり続けている。

 そして、先代のフォンデンブロー公爵が亡くなり、母方の血筋からが公爵の地位を受け継ぐ
ことが決定するやいなや銀山を侵略し、住民を殺害、もしくは強制労働につかせて銀を奪い、フォン
デンブロー公国が本腰で抵抗を始めると、即座に撤兵した。





様、大丈夫ですか?」





 心配そうにアルトシュタイン将軍がこそっと耳打ちをしてくる。





「はい、」





 父を裏切ったと言う罪悪感と公国の主として住民を守らなければならないという責務が交差する。
は彼の問いに答え、懸命に逃げ出したい気持ちを堪えて、席へと着いた。

 基本的に実際の協議をするのは、そう言った様々なことを心得ているアルトシュタイン将軍だし、
が直接父と言い争うわけではない。だから大丈夫だとは自分に言い聞かせた。





「今回、会談を取り仕切るイギリス代表のアーサー・カークランドだ。」





 アーサーは余裕を見せつけるようにゆったりと机の下で足を組み直し、を見やる。





「ご機嫌麗しゅう。会談が、実りあるものであることを、切に願います。」





 は落ち着いた声音を装い、ゆっくりと頷く。





「あぁ、こちらもそうであることを願っている。」





 アプブラウゼン侯爵ルドルフもどこか投げやりにそう言って、同意した。

 実務的な内容は文官が取り仕切る形で始まった。らフォンデンブロー公国側は銀山を占領
したアプブラウゼン侯爵領側へ賠償金の支払いを盛り込んだ提案をした。それに対してアプブラウゼ
ン侯爵領側は農作物の輸出制限の撤廃をまず条約に盛り込みたいと提案した。

 対してアプブラウゼン侯爵領側はプロイセン王国の領地であるアプブラウゼン侯爵領にプロイセン
の許可なく輸出制限をかけるのは不当であり、また、賠償金についても払う気はないという見解を
示し、真っ向から意見を対立させた。

 そのため文官が主流だった会談はすぐに破綻し、武官が武力で相手を脅しあうという形に変わっ
てしまった。イギリス側のカークランド卿やモンマス公もフォンデンブロー公国の有利なように言葉を
運んでくれたが一向にアプブラウゼン侯爵領側が受け入れる気配はない。

 無意味に荒れていく会話。言葉。ここに自分がいる意味が見つからず、どうして良いかもわからず
立ち尽くししかない。





「・・・様?」






 アルトシュタイン将軍がその緑色の瞳を心配そうに細めて、を見ている。

 気づけば、長らく続いた話し合いは終わっていた。結局、継続の議論は明日と言うことになってい
た。

 話し合いが出来ればどうにかなるのではないかと思っていたの安易な目算は、大きく外れ
ること意なっていた。しかし、この会談で話がつかなければ戦争になる。そのことをよくわかっている
は、崖の前に立たされたようか心地でいた。

 向かい側のアプブラウゼン侯爵側もそれぞれ立ち上がって片付けをしている。上座にいるアーサ
ーを見ると、酷く苛立った様子を隠そうともしていなかった。フォンデンブロー公国の武官達も皆同じ
で、いらいらしている。その中でアルトシュタイン将軍だけは相変わらず穏やかな笑顔を浮かべてい
た。





「一階が私たちの控えの間として使えるそうですから。」






 アルトシュタイン将軍に言われて、ははっとする。

 一階側が使えるとはいえ、この中で一番身分の高いのは自分で、基本的にが先に部屋を
決めてしまわないと、それ以外の人々が部屋を得ることが出来ない。





「あ、すいません。」





 は慌てて立ち上がった。アルトシュタイン将軍は首を振って、「いえいえ」と慌てた様子もなく
ゆっくりとした動作で立ち上がる。

 は周囲の紙などを片付けていると、ふとアプブラウゼン侯爵が近づいてきた。既にイギリス
側の人々は二階の与えられた部屋へと下がったようだ。

 久方ぶりの父は相変わらず白髪をオールバックにして青色の瞳でこちらを睥睨した。その瞳に宿
る冷たさはかつてと全く変わっていない。





「・・・ヒルダを、殺したか。」






 ぽつりと彼の呟きが耳をついた。ずきりと心が痛む。

 父であるアプブラウゼン侯爵が今の夫で当時婚約者であったギルベルトを暗殺しようともくろんだ
手紙を、はプロイセン国王に渡した。ギルベルトはプロイセンになくてはならない高位の将軍
であり、彼への暗殺計画は国王への反逆と見なされ、アプブラウゼン侯爵はプロイセン王国中央裁
判所への召喚を命じられ、その手紙をに渡した異母姉ヒルダは逮捕された。

 後にヒルダは脱走し、を殺そうとしてギルベルトに射殺された。遺体はの願いでアプブ
ラウゼン侯爵領に返されたが、アプブラウゼン侯爵は国王の命令を無視し、未だに中央裁判所に出
向くこともなく侯爵領に留まり続けている。

 そして今年、アプブラウゼン侯爵領によるフォンデンブロー公国の銀山侵略があったのだ。





「わ、たしは、」






 は父の言葉に返すべき答えを持たなかった。

 その通りだとしか返せない。自分の幸せのために父の手紙を国王に渡して密告したのだ。言い訳
の出来ない事実がそこにある。

 罪悪感もすべて、捨てた方が良いと何度となく言われた。の母はフォンデンブロー公爵のゆ
かりの人物で、今、アプブラウゼン侯爵は父であっても敵だ。だから割り切った方が良いとギルベル
トにも言われていた。

 それでも、肉親の情が捨てられない。自分は母の不義の子であり、本来ならば血すらも繋がって
いないから割り切るのは簡単なはずなのに、未だに父に愛されたいと願っている自分は、馬鹿なの
だろう。

 は、今、フォンデンブロー公国の利益を守るためにここに来ているのだ。そう強く思わなけれ
ばならないと言い聞かせても、やはり父を見れば心が揺らいだ。





「この会談がうまくいかなければ、プロイセンは黙っておりますまい。」






 は思わずそう言っていた。

 本来ならアプブラウゼン侯爵領はプロイセン王国に帰属しているが、オーストリアの援助を受けて
フォンデンブロー公国に進軍した。勝手な行動をしたアプブラウゼン侯爵に、プロイセン国王フリード
リヒ2世は非常に立腹だ。

 フォンデンブロー公国が兵を貸さないと言ったから今は派兵していないが、おそらくこの会談が成
果を見ないままに終われば、軍事力でアプブラウゼン侯爵領を押さえるだろう。

 侯爵はその言葉を聞くと、青色の瞳を疎ましげに細めた。その視線にはびくりと肩を震わせ
る。あからさまな、嫌悪が視線から透けて見えるようだった。






「ふっ、戦争か・・・おまえはすべてを欲するか。」






 しばしの沈黙の後、彼は絞り出すような声で言った。

 意味が、よくわからなかった。






「わたしは、何も欲していません。」





 言葉はあまりにもすぐに出た。

 何かを欲しいと思ったことはほとんどない。ましてや父が持つモノを欲する事なんて、絶対になかっ
た。だが、否定した言葉を聞いた侯爵は小首を傾げてを罵った。





「なら、おまえは何故フォンデンブローを治める。バイルシュミット将軍の妃である。」





 嘲るような笑みとともに言われた言葉に、は背筋に寒気が走るような心地を味わう。

 フォンデンブロー公国を今が治めているのは、先のフォンデンブロー公爵がに公国を
託したからだ。ギルベルトの妃なのも公爵が取り決めたモノで、そもそもはが望んだモノでは
ない。





「おまえは否定しない、だが、そうすることで常にそちらを選んでいる。無意識に欲しているのだから
始末に負えないな。」






 嘲笑を残して、アプブラウゼン侯爵は去っていく。は紫色の瞳を見開いたまま、呆然とした。

 彼の言葉はある意味で的を得ていた。

 は選択しないが否定しない。ギルベルトと結婚しろと言われればそうしたし、フォンデンブロ
ー公国の後継者になれと言われれば、大人しくそれを受け入れた。嫌だ、と否定することはなかっ
た。

 それはある意味での選択なのかもしれない。そして、自分は欲しているのだろうか。






「・・・」






 は自問しながら、首を振った。

 もう、考えたくない。頭がパンクしそうだ。





「大丈夫ですか?様、」






 アルトシュタイン将軍が、気にするなと優しくに声をかける。その優しい問いにすら
今答える余裕を持たない。

 どうすればよいのだろうか。と。

 考えれば考えるほどに答えを見失っていく気がする。でも考えないわけにはいかない。
常に決断を迫られる。頷くこと一つで、戦争を始められるほどの決断を、簡単に下すことが出来るの
だ。

 だからは、怯えている。いつも決断することに、現状がただ続くことを願っている。自分が下
す選択を先延ばしにしている。

 ある意味で、アプブラウゼン侯爵の言うとおりそれすらも「選択」であるとも気づかずに。





「立ち止まることも、」






 選択か?と問うとした唇は、ふと止まった。

 扉の近くに兵士達が並んでいる。自分の公国の兵士ではない。突然入ってきた彼等が銃を構え
るのを、はぼんやりと見ていることしかできなかった。








  いとも簡単にも 裏切って