閃光に対してか、それとも音に対してだったのか、ひとまずは目をぎゅっと瞑った。
出来た咄嗟の行動はそれだけだった。音の大きさに鼓膜が破れそうな心地がして、何かに包まれ
た気がした。柔らかい感触に、驚く。

 だがそのまま背中に衝撃を感じて、は初めて絨毯の上に倒されたのだと気がついた。頭が
うまく働かず、ただ目を瞑ったまま、衝撃に息を詰める。何かにのしかかれるような体勢で喉が詰ま
る。悲鳴を上げなかったことが幸いした。

 何が起こったのか、よくわからなかった。叫び声や、うめき声が部屋の中に響いている。おそるお
そる目を開けると、天井があった。胸元がじんわりと温かい。お湯でもこぼしたような感触がじわじ
わ広がって不快さを覚えるとともに、意識がはっきりする。





「だ、大丈夫、で、すか?」





 低い声音は、アルトシュタイン将軍だった。はよくわからず、目を瞬く。それでやっと気がつい
た。にのしかかっているのは、アルトシュタイン将軍だった。

 彼は大きいので、の体をすっぽりと覆ってしまっている。





「あ、」





 アルトシュタイン将軍、と、名前を呼ぼうと口を開くが恐怖で声が出ない。僅かに動かした
手には生暖かい感触があった。水よりも粘つく、何か。

 彼は怪我を全く感じさせないような、温かなほほえみを浮かべての腕を撫でて、静かにする
ことを促す。





「ふざけるなっ!」





 誰だろうか、おそらくフォンデンブロー公国側の人物だろう。彼等が銃を放った男達に向けて銃を
抜く。男達の人数は多くなかったが、公国側の人間は皆傷を負っていた。


 銃撃や怒声、硝煙の中でアルトシュタイン将軍がぐっと自分の腕に力を入れて体を起こす。
の服にも、彼の体から流れた血がべったりとついているが、は全くの無傷だった。アルトシュ
タイン将軍が庇ってくれたせいだ。彼はをその大きな体に隠すようにして、カーテンの方へと
押し出す。

 大きな窓を覆うカーテンはをすっぽりと隠すことが出来る。は怒声と硝煙、銃声の飛び
交う中で、窓の端で震えることしかできない。だが、小さくアルトシュタイン将軍によって窓が開けら
れ、外に出るように促される。





「行きなさい、この、混戦状態、なら、にげれ、」





 アルトシュタイン将軍は小さく、安心させるようにに微笑み、言う。はそれに即座に首
を振った。1人だけで逃げることなど、出来ようはずがない。死んでいるかもしれないとはいえ、とも
に会談に臨んだ公国側の人がいるのだ。

 見捨てて逃げるなどと言うことが、出来るはずもない。





「行き、なさ、」





 将軍が、血を吐いた。その血はにかかる。鋭い、フォンデンブローの深い森と同じ色合いの
瞳が、に行けと告げる。でもは足を動かすことが出来なかった。涙が勝手に溢れてきて
止まらない。

 血、赤、緋、からたくさんの者を奪った色合いだ。それだけで、もう発狂したいような、正気を
失って全てを投げ出したいという気持ちになった。は体の力を抜いて座り込み、もう全てを投
げ出してしまいたかったけれど、アルトシュタイン将軍の手がの腕を強く掴んでいて、体の力を
抜くことを許さなかった。

 この事態を引き起こしたのは、自分だ。死ぬべきは、彼でなくて自分だ。

 なのに、彼は自分を逃がそうとしている。





「わ、」





 わたしは、と呟こうとすると、優しくアルトシュタイン将軍は微笑んで、首を振った。





「だい、じょうぶ、あなたなら、できる、」





 子供に言い聞かすように、を諭す。はもう、頷くしかなかった。涙を乱暴に拭いて、窓
の隙間から外へと出る。中の喧噪のせいか、外に人はいない。はそのまま庭を通じて隣の部
屋へと歩を進めた。


 公国の軍隊がいるのは前庭だ。だが、その庭にはアプブラウゼン侯爵の軍隊もいる。銃撃される
心配もあるので、そちらに入り込むことは出来ない。

 だが、アルトシュタイン将軍達が戦う部屋の制圧が終われば、アプブラウゼン侯爵の兵士は必ず
隣の部屋であるこの部屋にも足を踏み入れるだろう。怖いからといってここから動かないわけには
いかない。だが、どうすればよいだろうか。

 は部屋を見回して大きな暖炉を見つける。この暖炉は二階の暖炉に繋がっているはずだ。
二階には、イギリス側の人間がいる。ベランダ越しに移動しなければならないし、この騒ぎをどこま
で聞きつけているかはわからない。もしかしたらアプブラウゼン侯爵とぐるという可能性も否定しきれ
ないが、カークランド卿ならば助けてくれるかもしれない。






「・・・うん。」





 やるしかない。は暖炉の中に入って煙突を見上げる。一応手すりがついているが、生憎木
登りすらしたことがないので、にしてみれば初めての経験だ。

 そっと手すりに手をかける。だが、レースが酷く邪魔だった。それすらも破り捨ててしまって、一段
一段慎重に上っていく。小柄なは幸いにも煙突に引っかかることもない。怖いから、下は見な
いことにした。上の明かりだけを目指す。

 夏場なので、誰も暖炉に火をともすことはない。だが、すすで真っ黒だ。

 明かりが見えてきて、手に力を入れてなんとか二階側の暖炉に身を乗り出す。そこは、どうやらカ
ークランド卿の客間だったらしい。肘掛け椅子に座っている彼は目の前の状況が把握できないらし
く、緑色の瞳を丸くしてを凝視していた。

 アルトシュタイン将軍と同じ緑色の瞳に、は涙が溢れるのが止まらなかった。





「ちょっ、おまえ、」





 なんてところから、と怒鳴ろうとしたアーサーも下の騒ぎにはおかしく思っていたのだろう。すぐに
口を噤んで、が暖炉から部屋に入るのを助ける。今はどうしてとかいっている場合ではない。





「何事だ?この宮殿の衛兵どもは、強盗が入ったから部屋から出るなと。」

「ち、ちがう、・・・あ、あぷぶ、」





 アプブラウゼン侯爵の私兵が、と伝えようとすると、のドレスについたたくさんの血痕で彼は
すぐに気づいたのか納得したように頷いた。予想できない事態ではなかったようだ。






「ここは、アプブラウゼン侯爵の支配下か、ちっ、来い。」





 アーサーは小さくにそう言って、を隣の部屋に連れ出す。おびえはあったが、隣の部
屋にいたのはモンマス公だった。





「時間、稼げるか?」





 アーサーが小さく尋ねると、モンマス公は眉を寄せたが、逆らいはしなかった。ただならぬ事態だ
ということは、の格好を見ればわかる。





「稼げと言われれば、稼ぎますが、・・・ここはアプブラウゼン侯爵の勢力下ということですかな。」






 宮殿の衛兵がすべてアプブラウゼン侯爵側に押さえられていたと考えた方が良い。生憎イギリス
側は兵士を持っておらず、公国も前庭に兵士を集めているが、そちらにはアプブラウゼン侯爵側の
軍隊もいるので出て行くのは危険すぎる。





「そうだな。、ひとまず、着替えろ。」

「え、でも、」





 着替えなど持ってきているわけがない。が首を振ると、アーサーは水で濡らしたハンカチを
に渡した。





「おまえ、酷い顔だぞ。すすだらけだ。服はひとまず脱げ、・・・適当に用立てるか。」





 ちらりとアーサーはモンマス公を見る。モンマス公は肩をすくめたが、仕方なくといった調子で外へ
と出て行った。

 数分して戻ってきた彼が持っていたのは、そのあたりの侍女が着そうな、裾の短めの身軽な女性
の私服だった。このままエプロンを着ければ侍女として働いていても遜色はない。

 と、こんこんと、ノックの音が響き渡った。




「ひとまずクローゼットの中に入れ、」




 アーサーが鋭く言う。は侍女の服を抱えたまま、真っ暗のクローゼットの中に押し込められた。



「賊は、いませんかな。」




 低い声音はアプブラウゼン侯爵のモノだった。ぼそぼそと口早に何かをまだ言い募っている。モンマ
ス公が応対しているが、なかなか声は遠ざからない。は恐ろしくて悲鳴を上げたくなった。

 もうこの状況に頭がついていけそうにない。正直、あの場で殺してくれた方が楽だったくらいだろう。
むしろ死にたかった。けれど、必死なアルトシュタイン将軍のほほえみが頭から離れない。いつも優
しかったあの微笑みが最後だと思えば、はここで死ぬわけにはいかなかった。




「ギル、」




 怖いよ。

 発狂したい気持ちをギルベルトを瞼の裏に思い描き、服を抱きしめて耐える。

 何かを言い争っているようにも聞こえたが、冷えたアーサーの声がいくつか飛ぶと、さすがのアプブ
ラウゼン侯爵もイギリスの大使の前では偉そうに出来なかったのか、黙って去っていった。


 出て行き、足音が遠ざかったのを確認して、アーサーがクローゼットの扉を開ける。





「早く着替えろ。」



 アーサーが鋭く命じるので、は慌てて着替えを始めた。速く逃げなければならない。そのた
めには裾の長いごわごわしたドレスよりも絶対にこの服の方が有利なはずだ。そして、彼に馬を借り
なければならない。

 は元々馬に1人で乗るのは苦手だ。だが、そんなことを行っている場合ではなかった。

 の着替えが終わる頃、アーサーも手近にあった革の鞄の中に軽い食事と銃を入れて、用
意をしていた。




「え?」




 はぽかんとした表情をする。




「出来たな?」




 アーサーは無表情のままに確認する。




「は、はい。」




 頷くと、彼はの手を引っ張った。




「行くぞ。」







  苦しみの連鎖