アーサーは少し強引にの手を引っ張る。
2人が逃げてきたのは先はベンラス宮殿から続く森だ。このあたりには鉱山もあり、森は非常に深く
鉱山の中の坑道は入り組んでいる。銀山はフォンデンブロー公国の持ち物で、アプブラウゼン侯爵の
軍隊に懸命に反抗した経歴がある。銀山の街アガートラームまで逃げれば、どうにかなる。
必ず手助けをしてくれるはずだと、は言った。
アーサーは強引にの手を引っ張り、森の山小屋とおぼしき場所へと走った。おそらく部屋の
死体を確認すれば、がいないことに気づくだろう。逃げる途中に一応の服はアーサーが
殺した侍女の女に着せて放り出しておいたが、生憎はアプブラウゼン侯爵の娘で、顔見知りだ。
顔を確認すればすぐにわかってしまう。
そのためにも、彼が気づいた時のために、国境付近から離れ、出来る限り遠くに、フォンデンブロー
公国軍のいるところまでは逃げなければならなかった。
宮殿にともに着ていた公国軍はアプブラウゼン侯爵の軍隊とにらみ合っているので、そちらに出る
ことは一か八かという危険を伴う。その上もしかするとオーストリア側はアプブラウゼン侯爵に協力し
ているのかもしれない。それならばあの程度の数の公国軍では太刀打ちできない。
銃で彼女が狙撃されることだって考えられる。だが、鉱山を通り抜ければプロイセン領内に逃げ込
むことが出来る。公国の首都のヴァッヘンに逃げ込むよりも、プロイセン領内の方が近い。馬でなら
ば2日、1日かもしれない。ギルベルトだって、軍隊を率いて近くにまで来ているだろう。
プロイセン王国ならばに無体を強いることはまずないし、なんと言っても彼女はギルベルトの
妃だ。
アーサーが冷静に考えていると、突然手を引っ張られた。
「つっ、大丈夫か?」
は木の葉に足を取られてこけかけていた。慌ててアーサーが体を支えるが、彼女は声一つ
あげなかった。紫色の瞳は丸く見開かれたまま、呆然としている。
「おいっ!」
しっかりしろと揺さぶれば、ふるりとは首を振る。
「ど、どうしよう・・・・」
途方にも暮れた、呟きだった。
「わ、わたし、取り返しの、つかないこと、を。」
の目は遠いものを見ているようだった。に随行していたアルトシュタイン将軍や会談に
来た公国の人々は恐らく、無事ではあるまい。
アーサーは国だから多少のことでは死なない。だが、普通の人間にとって銃の攻撃は命取りだ。
の着替えたドレスには硝煙の臭いがしていたし、彼女を庇った怪我人の血がべっとりとついてい
た。庇った人物は、死んでいるだろう。滴り落ちるほどの、出血量だった。
「ひとまず、行くぞ。」
アーサーは弱音をひとまず無視して、山小屋の近くにあった馬の綱を解いた。本来ならばこれはイ
ギリス側の伝令用の馬だが、そんなこと言っていられない。
「おまえ、1人で乗れるか?」
「え、あ、ヘタ、ですけど?」
が馬に手をかけるが、明らかに鐙に足をかける仕草から腰が引けている。
「そりゃだめだな。」
貴族ともなれば馬が乗れるのが普通だが、彼女は随分ヘタらしい。すぐにわかって仕方なく
を抱き上げて乗せてから、アーサーが騎上に上がる。
「ちょっと揺れるから、しっかり掴まれよ?」
アーサーは勢いよく手綱を引く。はこちらにもわかるほどあからさまに驚いた様子を見せたが
アーサーの腰に強く掴まる。
二人乗りは馬に負担をかけるが、ここから鉱山近くの街までは数時間の所にある。だからそこで馬
を交代すれば問題はない。彼女を1人で逃がさなくて良かったと、アーサーは心から思った。彼女の
乗馬の技術では、おそらく追いつかれてしまっていただろう。
追っ手が来ないなどという甘いことは考えていない。
「おまえ、本当にアプブラウゼン侯爵から憎まれてんだな。」
嫌われているなんてものではない。憎まれているという表現がしっくり来る。はかなり複雑そ
うな表情で眉を寄せたが否定はしなかった。否定できるはずもない。実際に、命を狙われているのだ
から。
アーサーは国であるため、親子という感覚がよくわからない。兄は一応いるが疎遠どころか憎み合
っているから、親子もそう言うモノだったとしても不思議ではない。親が子供に与える愛情など、知ら
ない。
「そ、う、ですね。」
は酷く傷ついた顔で、ぎゅっと馬を操るアーサーの腰に回す手の力を強めた。
「・・・悲しい、のか。」
「そうですね。」
彼女は即答した。命を狙われてもまだ、父の愛情に未練があるのだろうか。
ギルベルトと喧嘩をしたと言ったことを彼女は口にしていたが、その理由が何となくアーサーにもわ
かった。は酷く危うい。優しいし、確かに妃としてはギルベルトも重宝するだろう。大人しく、そ
れでいて自分の意志も持っている。
だがあまりに駆け引きを知らないし、性格も優しい。統治者としての冷酷な部分が全く見られないの
だ。人間として良かったとしても、統治者にむいているかどうかはまた別の話だ。
ましてや女性だというのに、フォンデンブロー公国では公爵に軍事の権限だけが与えられている。
彼女は軍を率いることが出来ないのに、軍の統帥権を持っているのだ。これほどに不釣り合いなこと
はない。
「おまえ、優しすぎるな。」
アーサーは口の中だけで呟いた。は良く聞こえなかったのか、「え?」と首を傾げて顔を上げ
る。だがアーサーはこれ以上答える気はなかった。
耳元を風が通り抜けてくる。追っ手の気配はない。
土地の様子は概要しか知らなかったが、幸いは詳細まで地図を確認していたらしく、彼女の
指示通りに数時間走り続ければ、ぽつぽつと家が見え始めた。街が近いのだろう。鉱山経営によっ
て栄える街だ。
だからこそ、この街が真っ先にアプブラウゼン侯爵から狙われた。
そして数百人の死者を出した街の近くには兵士達が屯している。家の周辺の兵士達が、アーサー
達の行く手を遮る。
「止まれ!」
命じられて、アーサーは仕方なく馬を止めた。
「先を急いでいる。鉱山へ、」
「ここからは許可なくしてはいけない。」
兵士は許可証の提示を求める。だがそんなモノ持っているはずはない。早く逃れなければの
身のほうが危ないのにとアーサーが思案を始めた時、が馬上からペンダントを差し出した。
緑色の翡翠のグリフィンがはめ込まれたペンダントは何かの証で、おそらく、フォンデンブロー公爵
を示すモノだろう。それを見た途端に兵士は納得したように頷いて、静かにアーサーの馬の前からど
いて、馬上のに紙切れを渡す。おそらく銀山の街アガートラームの城門の通過許可証だ。大型
の判子が押してあった。
「ご武運を。」
ただならぬ気配を察した兵士がに頭を下げる。は泣き出しそうな顔で神妙に頷いた。ア
ーサーはそれを確認してから馬の腹を足で蹴った。
アガートラームとは古代の意で銀の腕だ。街が古くから銀山で栄えてきたと言うことを示している。
街を侵略者から守るための城壁は高い。だが、最近高くしたようだ。下に積まれた石は古く浅黒く変
色しているのに対して、上の方に積まれている石はまだ真新しく白かった。
アプブラウゼン侯爵の軍隊に攻め込まれてから、は砦の防備を固めていたと言うから、その
ために城壁が高くなったのだ。
「待て、」
門で、兵士がアーサー達の馬を止めた。だが、アーサーが通行証を見せると、すぐに城門を開いた。
アガートラームは不思議な城壁を持っていた。城壁は半円形で、後ろ半分は山に食い込んでいる
ため、ない。言ってしまえば半分は自然の城壁と言うことだ。後ろ側の山が鉱山になっている。
城壁の内側に入ると、兵士がひとりついてきた。
「どういったご用件で。」
「山を越えて、プロイセン側に出たいのです。故あって急ぎで、」
が震える声で、早口で言った。するとただならぬ状況を理解したのか、兵士はすぐに離れて
いった。おそらく報告を上官に伝えるためだろう。
アーサーは馬を止め、馬から下りて、を抱きおろす。足の力が入らないのか、かくりと膝を折り
そうになったが彼女も何とか足に力を入れて立ち上がった。アーサーも長い間馬を操っていたが彼
女は乗っていただけだ。それも、体を動かしている風もなかったので、こちらはありがたかったが彼
女の体は固まっているだろう。
「少し休んだ方が良いんじゃないのか?」
アーサーはをみおろして問うた。少し疲れたような動作で顔を上げた彼女はどこか空虚な紫
色の瞳をアーサーに向ける。
「だ、大丈夫、です。」
小さな声音は無理をしているようにしか見えなかった。
失望して欲しかったの