プロイセン王国側の駐屯地にもたらされた情報は酷く断片的なものだった。
アプブラウゼン侯爵からの使者は元から侯爵自身も元から見捨てる気だったらしく、まったく内容を
知らなかった。ベンラス宮殿でフォンデンブロー女公が死んだと繰り返すばかりで、それしか言
わない。
ギルベルトが怒りにまかせて撃ち殺したところで問題ない程度の情報しか持ち合わせていなかっ
た。
一端駐屯地近くの屋敷に戻ったフリードリヒは、椅子に座ったままの体勢でうなだれる彼を見て息
を吐いた。
こんな弱気な彼を見たことなど、一度もない。拗ねたりすることはあってもこれほどに憔悴しきった
様子の彼を見たことは、父が死んだ時ですらも見たことがなかった。仕方ないなと寂しそうに、悲しそ
うに笑っただけだった。
「しっかりしろ。まだ決まった訳じゃない。」
フリードリヒはギルベルトの肩を叩く。
「でもっ!」
「月並みだが、遺体を見るまでは希望を捨てるな。イギリスだってついているんだ。そう簡単にいくと
は思えん。」
彼女は馬鹿ではない。ベンラス宮殿には多くの兵士を連れて行っていたはずだし、もしも不慮の事
態があったとしても、彼女が1人だったとは考えにくい。ベンラス宮殿が完全にアプブラウゼン侯爵ル
ドルフの支配下にあったとも考えにくいから、失敗していると言うことも考えられなくはない。
ただ、死んでいるという可能性の方が高そうなのは、事実だが。
「・・・どうするか。」
フリードリヒはそう言いながら、頭の中で情報を整理する。決断を下すのは自分であって、誰かでは
ない。その質問に答えられる人間など、いないのだ。
が死んだならば、その遺言がどうなっているかによる。彼女がフォンデンブロー公国を受け継
いでから一年もたってない。その間、アプブラウゼン侯爵に攻められるなど、他に追われる事態が多
く、おそらく遺言などきちんと取り決めていないだろう。
そうなれば血筋としてフォンデンブロー公国に一番近いのはアプブラウゼン侯爵だ。もちろんプロイ
セン国王の封臣であるため、フリードリヒがそれを許さないという立場をとることは出来るが、オースト
リアが口出しをすれば別になる。フォンデンブロー公国はあくまで神聖ローマ帝国内の一国家である
のだ。プロイセン国王の手が及ぶ場所ではない。
要するに困った事態になったと言うことだ。アプブラウゼン侯爵がフォンデンブロー公国を継承すれ
ば、もちろんプロイセン王国領であるアプブラウゼン侯爵領を占領することは出来ても、公国に関して
は彼の継承を認めなければならないと言うことだ。
「厄介だな。」
フォンデンブロー公国には議会があるためどこまで新たな公爵のやり方に抵抗してくれるかは、フリ
ードリヒには判別がつかない。議会の抵抗はありがたいが、信用がおけるレベルではなかった。
「・・・しかし、どちらにしろ、継承者が公開されればその必要はありませんよ。」
テンペルホーフがぽつりと、フリードリヒに言った。
「え?」
「アプブラウゼン侯爵の侵攻を追い出した際、様は遺言状に着手していらっしゃいました。」
「何?」
ギルベルトは驚いたように身を乗り出す。
「そんな話は、聞いてないぜ。」
「ですから、将軍が軍を率いていらっしゃる時です。」
は女で、軍隊を指揮できない。フォンデンブロー公爵としては軍隊の統帥権を持つが彼
女が持っているわけではない。アプブラウゼン侯爵がフォンデンブロー公国の銀山を占領した時、軍
を公国側の将軍とともに率いたのはギルベルトだった。
その間だろう。
「内容は知っているのか?」
フリードリヒは僅かに眉を寄せて尋ねる。
「えぇ、だから、侯爵には血筋とはいえ継承権はありません。」
「ない?」
「はい。様はバイルシュミット将軍と議会にゆだねると仰せでした。」
テンペルホーフは詳しい説明をする。
領地としては夫であるギルベルトに全てを譲るということだった。だが軍隊の指揮権や鉱山の経営
権など今まで持っていた公爵としての権利はすべて議会に委ねる。要するに主はギルベルトだが、
実質的な支配は議会に任せるとの決断だった。
仮にギルベルトが無茶な決定をしたところで、議会が承認しなければ何もすることが出来ない。元
々議会が強い権限を持っている国であるため、自立心も強い。議会権限の範囲が広がるとなれば
の遺言を拒否する理由はない。
ましてや血筋とはいえ銀山を襲った経歴のあるアプブラウゼン侯爵を主として認めるよりはずっと容
易い決断だ。
「もしも死の訃報がフォンデンブロー公国の首都ヴァッヘンに届けば、遺言はすぐに公開され、議会が
動き出すでしょう。」
だから心配有りませんとテンペルホーフは言う。ギルベルトは怒りも忘れて呆然としていた。
テンペルホーフは一度ギルベルトやフリードリヒを慮ってか、頭を下げて部屋を辞する。
彼もユリアと親しく会話していただけに、思うところもあるだろう。
「・・・」
フリードリヒも静かに目を伏せて、あの恥ずかしがり屋で控えめな紫色の瞳を思い出す。
彼女は父親への愛情を捨てられないからこそ、自らアプブラウゼン侯爵ルドルフに会いに行った。
そして死んだと言う。だがその反面愛情深かったからこそ、ギルベルトに自分の国を託そうとした。
ある意味で、彼女は自分の感情に殉じたのだ。その優しさと、悲しみに。
「誰かが、困ることはないと言うことか。」
プロイセンへの鉱山資源輸出入などが、突然止まることはないと言うことだ。フリードリヒは己の国
への突然の問題はないことに、僅かながら安心する。
だが、ギルベルトの表情はまったく晴れない。むしろもっと悲痛に歪んだ。
「そんなの、」
震える声で、ギルベルトは首を振った。くしゃりと表情が歪む。
「そんなの、いらねぇ、いらねぇよ。」
彼女がいなくなって、手のひらに残るのが国だけだというのならば、そんなものはいらないとギルベ
ルトは何度も「いらない」という言葉を反芻した。
欲しいと思った。国も、彼女の全てが欲しいと思った。だが、こんな形で残って欲しいなどと言うこと
を、ギルベルトは一度も思ったことがない。彼女がいなければならないのだ。だから、見送ったという
のに。
「・・・そうだな。」
フリードリヒはぎしりと椅子をならして、背もたれにもたれかかる。と、突然、勝手にドアが開いた。
「将軍!」
テンペルホーフがノックも国王からの返事もなく部屋へと駆け込んでくる。マナー違反も甚だしい上
この雰囲気に明らかに合っていない。空気が読めないにもほどがあるというものだ。
「テンペルホーフ・・・・」
大概のことは許すフリードリヒも流石に彼を叱責しようと口を開く。だが、彼はフリードリヒが言葉を
紡ぐ前に遮るように言った。
「様が、生きてらっしゃるとのことです!」
「何?」
国王の言葉を遮るという無礼も、先ほど口にしようとしていた叱責も忘れるほど、フリードリヒは驚い
て目を見張る。
「モンマス公から、秘密裏の早馬です!」
モンマス公はとアプブラウゼン侯爵ルドルフとの会談に同席していたイギリス側の人間だ。
ギルベルトはテンペルホーフが持っている紙をひったくるように見た。そこには小さな文字で
の生存と、カークランド卿がに同行していると言うことが書かれていた。手紙は本当に小さいも
ので、おそらくマンモス公はアプブラウゼン侯爵の目を盗み、これを英国兵に持たせたのだろう。
捕まった時のことも考えてか、どのルートを通るかなどは書かれていない。だが、フォンデンブロー
公国にではなく、わざわざプロイセン王国領に手紙を早馬で届けさせたことを考えれば自ずと理由は
知れる。
早馬より達の到着が遅いのは、おそらく2人であるという事実と、追っ手をまく形で安全な回り
道を選んだからだろう。
「テンペルホーフ、ここから近い、現地民の知る国境はどこだ?調べさせろ。」
フリードリヒはテンペルホーフに命じる。
フォンデンブロー公国側からはプロイセン王国領に入ってくるだろう。近場であることは間違
いないだろうが、彼女のことだから、敵をまくためにも民の力を借りてより安全で入り組んだ、現地民
の地の利の十分に発揮できる経路を選ぶはずだ。
「アガートラームだ。」
ギルベルトははたと顔を上げる。
「どこだそれは。」
「銀山の街だ。この間アプブラウゼン侯爵に占領されて、が砦を再構築した場所で、あそこなら
坑道を抜けるプロイセンへの道があったはずだ。」
ギルベルトもそこに行ったことがあった。先の戦闘の折りにアプブラウゼン侯爵軍に最後まで抵抗し
またそれ故に軍隊を率いてギルベルトが入城した際に解放者として熱烈な歓迎を受けた。
あの街ならば命をかけてアプブラウゼン侯爵からの追っ手を撃退するだろうし、坑道という入り組ん
だ道ならば、絶対にアプブラウゼン侯爵の軍が追っ手をかけたところで絶対に追いつきようがない。
ギルベルトは立ち上がる。フリードリヒも仕方なくそれにつられて近くにあった帽子を取った。
今は彼女が生きていることを信じるしかなかった。
たった一つの愛を守る為に全てを捨ててしまえればよかったのに