城壁の中に入ると、そこはかなり広く賑やかな街で、山を切り開いた入り組んだ街にはびっしりと人
や商店が建ち並んでいた。はアガートラームを訪れたことはない。

 ギルベルトは軍隊を率いてアプブラウゼン侯爵の軍を打った時に事後処理のため一度入っている
が、は訪問する気だったが時間がなく、すぐにベルリンに戻ることになってしまった。アガートラ
ームはフォンデンブロー公国にとって重要な銀山を持つ土地ではあるし、報告では聞いていたが、こ
れほどに賑やかな場所だとは知らなかった。

 しかしその中で男達が狩猟用の銃や槍を持って城壁の方へと集まっているのが見えた。




「私はアウグスト・フォン・クライスト。ここの市長になっております。」




 白髪の男はの手を取り恭しく頭を下げたが、それも早々に彼はの手を掴んだ。後ろに
いたアーサーがちらりと城壁の方を見ると、狼煙が上がっていた。




「よくお越しくださいました。早く、中へ。」




 クライストは慌てるようにの手を引いて街の奥へと入っていく。





「追っ手が、来ているのか?」

「報告がございました。アプブラウゼン侯爵側の軍が越境したと。」

「越境?!」





 は目を丸くして呆然とした。

 ここから国境であるベンラス宮殿などへは馬でほんの半日ほどだ。要するに軍隊がの追っ
手と考えても良いのだがならばが連れて行ったフォンデンブロー公国の軍隊はどうなるのだ。
人数はそれほど多くはなかったが、彼等がどうなったのか、アプブラウゼン侯爵軍の越境から考えれ
ば、簡単に想像がつく。

 その事実を把握すれば、は自分の体から力が抜けるのを感じた。




っ!」





 アーサーがを無理矢理支える。





「・・・ど、」




 どうすればいいの。

 の声は震えて声にすらならない。自分が会談を行うなどと言わなければ、あそこに連れて行
った軍人やアルトシュタイン将軍は死なずにすんだだろう。

 そして今、アプブラウゼン侯爵の軍隊が越境したと言うことは、すぐにこの街にも彼等の軍隊が押し
寄せてくるだろう。そうすればこの美しい街はまた戦禍に見舞われる。二度と戦禍に見舞われること
はあってはならないと考えていたのに、





『領民はおまえの判断違いで死ぬんだぞ?ちょっとは自覚しろよ!』





 ギルベルトの怒りの言葉を思い出す。

 彼は戦争を望んでいたわけではない。ただ、自分の領民を守るためにどうすべきかをに説い
ていただけだ。なのに、は戦争がしたいからだとその答えをすり替えた。

 なんてことをしてしまったんだろう。どれだけの人が死んだんだろう。自分の判断ミスで、これから
一体何人の人が死ぬんだろう。





「おいっ!しっかりしろ!!」





 アーサーがの肩を掴んで揺さぶる。だが変に力を失ってしまったの体は一向に固まら
なくて脱力してしまっている。





「ど、、」





 どうやったら、償える。どうすればここの人達は軍隊に殺されなくてすむ。

 フォンデンブロー公国の首都ヴァッヘンへと知らせが行き、軍隊が集められるのは恐らく数日後に
なるだろう。だがそれまでこの街は耐えられるだろうか。恐らく不可能だろう。ならば早く降参するし
かない。そのためにどうすれば良いか、そんなことわかりきっている。





「わ、わたしを、わたしを差し出せば、きっと、アプブラウゼン侯爵は、」





 は思わずそう口にした。

 おそらくアプブラウゼン侯爵である父はを殺せばフォンデンブロー公国の継承権が自分にな
ると思っているのだろう。しかし、どうせ遺言状でギルベルトを後継者に指名してある限り、プロイセ
ン国王であるフリードリヒも、そしてまたフォンデンブロー公国の議会も絶対に彼を主君としては認め
ないだろう。

 これによって領民が救われるならば、構わない。





「だめです!」





 言葉を聞いたクライストが、の手を強く引いて、を引きずるようにして鉱山の方へと進ん
でいく。






「でも、」





 が自分の手を取り戻すためにクライストの手を振り払う。しかし、今度はアーサーが
手を掴んだ。





「行くぞ。あっちだな。」





 クライストに場所を尋ねて、アーサーはを強引に引きずっていく。クライストは驚いたが、それ
でも神妙な顔つきで頷いて頭を下げた。





「あちらです。鉱夫が案内いたします。」

「わかった。おまえはおまえの持ち場に戻れ。」 

「カークランド卿!!」





 は声を上げて反抗するが、若い彼の力はクライスト以上に強く振り払えるレベルではない。




「わ、わたしを、」





 差し出せば簡単にすむ。殺されなくても、戦わなくてもすむのだと、叫ぼうとすれば突然アーサーが
手を離した。は勢いで尻餅をつく。





「そんなに逃げたいか、」





 アーサーの緑色の瞳が、じっと問う。その瞳はアルトシュタイン将軍によく似ている。森の色と同じ
深くて明るい緑。

 逃げたいか、と。

 そうだ。はもう逃げてしまいたい。そう、考えずに死んでしまいたい。目の前にある自分の失
態によって引き起こされた事態も、死んでしまった人も、今から起こる戦争も、全部全部見たくない。
逃げて、逃げて、何も考えたくない。





「わたし、はっ。」






 涙が、こみ上げてくる。もう嫌だ。目の前のことも、死にゆく人々も、何も見たくなかった。だからこ
そ戦争をしたくなかったのに、話し合いで解決をと思ったのに、それが結果的には侵入を許し、戦争
が起こる原因になった。

 多分ギルベルトが言いたかったのは、敵につけいる隙を与えるなと言うことだったのだと思う。なの
は彼が軍人で、戦争を望んでいると思った。

 を思っての忠告を無視してまでアプブラウゼン侯爵との会談を望んだのに、結果的にはつけ
いる隙を与えたばかりか、犠牲者まで産む羽目になった。おそらくこれからこの街にアプブラウゼン
侯爵の軍隊が進入すればなおさら犠牲者は増えるだろう。





「なんで、」





 誰も傷つけたくなかった。

 だから戦争を望まなかったのに、結果的には戦争をしかける時機を逸し、挙げ句の果てに二
度も攻め込まれるという愚行を犯してしまった。

 つんと鼻の奥が酷く痛む。揺れる視界の中でアーサーを見上げれば、彼はをまっすぐにその
綺麗な紫色の瞳で見つめていた。





「あのな、逃げんのは簡単だよ。」





 アーサーは腰に片手を当てて、を見下ろす。





「でもな、どうすんの。おまえが今、ここで降参したら、結局ここは占領されて、良いように扱われて、
領民は苦しんで。それで良いのか?」






 を差し出せば、確かにアプブラウゼン侯爵は止まるかも知れない。

 だが、結果的にこの街は占領されるし、あげくアプブラウゼン侯爵の支配を受け入れて搾取されな
ければならない。フォンデンブロー公国は主を失い、新たな主を据えるのに時間がかかるだろうし、
またこの街を取り戻すために他国と交渉し、派兵しなければならない。

 アーサーとてから、が死んだからといってフォンデンブロー公国の継承権がアプブラウ
ゼン侯爵にうつる訳ではないと聞いているし、すべてを議会権限にした上でギルベルトに譲るという
考えも、イギリス出身で議会を重要視する国を持つアーサーからしても理解できないものではない。

 だが、今までフォンデンブロー公爵が軍事権限を持っていたことを考えれば、フォンデンブロー公国
の議会が指揮する初めての軍事行動はおそらく時間がかかるだろう。その上今まで公爵という最高
権力者の元で統一されていた軍事権限が分割されれば、また権力闘争も起こる。そうすればこの街
の苦しみは長引く。


 少なくともが公爵として統一的な権限を持っていれば、助かる部分は大きいのだ。





「みんな、これから苦しむんだぞ。」




 おまえだけ、逃げるのか?

 アーサーが問えば、は見てわかるほどに表情を歪めて、ぼろぼろと涙をこぼした。彼女はと
ても優しい。乱れた亜麻色の髪を掻き上げて、彼女がぐっと唇を噛むのが見えた。

 優しいからこそ、他人の苦しみを放って、自分だけ逃げることなど、それが例え自分を苦しめる結果
となっても出来ないだろう。

 アーサーが手を差し出す。するとはやはり、その手に自らの手を重ね、しっかりと握り替えし
た。








  予め用意された答え