プロイセン王国の軍隊は協定がないため、勝手にフォンデンブロー公国へ進入することは出来ない。
フォンデンブロー公国へとアプブラウゼン侯爵軍が進入したのはわかったが、援助要請なき状態で
他国に勝手に踏み込むのは侵略と同じであり、許されない。だが許可をするのはフォンデンブロー公
国の議会か、もしくはフォンデンブロー公であるになる。
が不在、議会は首都のヴァッヘンにあり、アプブラウゼン侯爵進入の知らせが行くまでに丸
一日はかかるだろう。そうなれば、プロイセン王国側に手出しのしようがなかった。
フリードリヒ2世はアプブラウゼン侯爵領へ制裁のために侵入しようと考えていたが、それはヘタを
すればアプブラウゼン侯爵側の軍隊をフォンデンブロー公国に押し入れる形になるかも知れないと慎
重になった。
そして、ギルベルトに命じたのは、の身柄を早く確保しろと言うことだった。現在の状況でフォ
ンデンブロー公国の首都ヴァッヘンの議会に許可をもらうには数日、ヘタをすれば一週間かかる。し
かしを確保すれば一瞬だ。
ギルベルトはの夫であり、軍隊を率いていないのならば許可なくフォンデンブロー公国に入っ
ても問題はない。鉱山側の道はギルベルトも前に一度行っているので知っている。結果的にギルベ
ルトはを迎えに行くためにテンペルホーフや数人の部下を連れて急いで森を走ることになった。
場所はフォンデンブロー公国の銀山の街アガートラームの裏側のプロイセン王国との国境線上だっ
た。森には銀山側から出てきた非戦闘要員、女や子供が野営をしていた。貴族や上層市民はいち
早く鉱山を抜けて野営していたようだ。
アプブラウゼン侯爵軍からの侵攻が判明すると、銀山を盾にこの森に逃れるらしい。前回もそうした
ようで、ギルベルトは容易に鉱山の道を知ることが出来た。
「あっち、」
ギルベルトが馬に乗せた子供はクラウス・フォン・シェンクという6歳過ぎの少年で、銀山の街アガ
ートラームに住まう貴族シェンク家の嫡男だった。好奇心の大きそうなくるりとした青色の瞳が印象
的な彼は遊び好きな少年らしく、鉱山の入り組んだ道を貴族の権限で遊び場にし、鉱夫とも仲が良
いらしい。案内役としては体も小さく、目立ちにくいのでうってつけだ。
母親は彼が案内することに、危険よりもむしろ無礼な物言いをしないかと心配していたようだが、彼
の遊び好きで旺盛な好奇心こそが、今は必要だった。彼はギルベルトの駿馬を見るとすぐに乗りた
がって、ついてくることに喜んで同意した。
ふわふわと金色の髪が目の前で揺れている。クラウスが案内するままに馬を駆けさせると絶壁とも
思える崖があった。馬を止めてギルベルトは即座におり、子供を抱き下ろす。
辺りを見回すが、穴とおぼしきものはどう見ても見あたらない。
「どこでしょう、」
テンペルホーフも不思議そうに首を傾げる。
「こっちだよっ!」
にこっと笑って、クラウスは草むらの方に入っていく。
山は見上げる限り断崖絶壁で、馬や大きな槍を持った兵士が通れないことは一目瞭然だ。アガー
トラームは先のアプブラウゼン侯爵軍における占領の折、鉱山の坑道に多くの者達が立てこもり、長
らく反乱で相手を苦しめ、フォンデンブロー公国軍が来るまでの時間を稼いでいた。
「こっち!こっち!」
クラウスが崖を見上げるギルベルトの服を引っ張る。草むらの中には何もないように見えたが、彼
が土や枯れ草を払うと、大きな木の蓋が現れた。クラウスは躊躇うことなく大きなその木の蓋を渾身
の力で開こうとするが、流石にまだ6歳の彼には荷が重い。
ギルベルトが蓋を開くと、中にはきちんと階段があり奥へと下っていけるようになっていた。これが
鉱山への道というやつだろう。
「ここを下に下っていくと、鉱道の中に中央広場があるんだ。そこには必ず人が立ってて、人の行き
来を管理してる。どこに行ったか、様が通ったかどうか、どこの道に出るか、出たかもわかるは
ず。」
ただ、この道は一番整備されていて、貴族や市長がよく使う道だから、この道に出てくると思うけ
れど、とクラウスは付け足した。
要するに彼はギルベルトがわざわざ入っていく必要はないとのつもりだろう。だが、ギルベルトは早
くに会いたかった。が死んだと聞かされた時の衝撃は、未だに忘れられるものではなく、
心の中でまだ燻っている。
生きているのなら、早く会いたいと心から願っていた。
「行く、」
ギルベルトは少し狭い階段を下りていこうとする。
「僕が先に行くよ。」
クラウスがギルベルトの服を引っ張った。
「テンペルホーフ、おまえはここで待機してろ。俺はクラウスに案内させる。」
「ですが・・・」
「俺はそう簡単には死なねぇよ。」
国のギルベルトが簡単に死ぬはずもない。打たれても痛いだけの話で、ちゃんとメインパーツがそ
ろっていれば問題はない。
ギルベルトは心配するテンペルホーフにあっさりと返して、中へと入っていく。
一応松明をクラウスと自分も持ってはいるが、じめっとした空気が気持ち悪い。夏場と言うこともあ
るが、生暖かい坑道は暗くて不気味だ。狭いので背の高いギルベルトは若干しゃがまなければなら
なかったが、しばらくすると広々とした道に出た。
「ここは、逃げ場所なんだ。」
クラウスは少し悲しそうに言う。
「前の戦いの時に、みんなここに隠れて抵抗した。でも、だから、油をまかれて火をかけられたことも
ある。」
ギルベルトは彼の言葉に眉を寄せた。
入り組んだ坑道は現地民しかわからず、だからこそ敵兵も迂闊には入ってこない。武器や兵を坑
道に隠し、粘り強い反抗を見せた。
だが、その反面、おそらくこれほど坑道に通じているのは鉱夫と彼ぐらいで、子供とはいえ彼も戦い
の時には非戦闘要員の避難や、道を知らぬ兵士達の案内を任されたはずだ。だからこそ、残酷な光
景とて目撃することになっただろう。
それはまだ6歳の彼にとって辛い経験だったに違いない。
「新しい女公の様はとても優しいって言ってた。南の方で春先に雪が積もった時、税金を下げ
て慰安金まで出して助けてくださったって。」
クラウスは前へと暗い中を迷いなく進みながら、ぽつぽつと独り言のように話し出した。
は春先、季節外れの雪に見舞われたフォンデンブロー公国の南の地域にいち早く税金を下
げ、別の場所での税金を投入して領民を保護した。また、先のフォンデンブロー公爵も、の試
みに賛成を示したと同時に弟の孫という遠縁に当たる後継者のの地位を固めるために、ユリ
アの意見であることを大々的に報じた。
またも意図を察し、慰安もかねて南の地域へとギルベルトともに来訪したため、新たな女の
公爵に対する信頼は絶大だ。女で強硬な姿勢が全くなく、母親に連れられて諸国を回っていたため
国際的観念も強く、またイギリスに長く滞在していたために自由主義者で知られていたこともあり、
議会中心で自立心の強いフォンデンブロー公国にとっては軍事以外、すべて議会決定に従う
は良い公爵と言える。
その上、領民に何かあった時の対応も早いとなれば、多くの公国の民は遠縁に当たるの即
位を喜んだ。
アプブラウゼン侯爵からの侵攻があっても、は国民から支持されているらしい。
「お兄ちゃんは、様の旦那さんなんでしょう?みんなが、とっても強い国の将軍だって、だから
大丈夫だって言ってた。」
クラウスとの言葉は酷く無邪気だが、現実を見ている限りはそう簡単ではないことも知っているは
ずだ。それでも信じていないと幼いが故に心が砕けそうになるのだろう。彼の青色の瞳には先ほど
の好奇心はなく、炎に揺れてゆらゆらと危うげに陰っていた。
「だって、前だって、そうだったでしょう?」
クラウスの瞳は、ギルベルトに自らの不安を払拭して欲しいと、切実に訴えていた。
彼の父親も貴族であれば、街でも大きな権力を持っている人物の一人で、だからこそ父親は戦わ
なければならないだろう。母親は彼の傍にいたが、父親はいなかった。街に残っているのだ。防衛
のために。
前回はギルベルトはフォンデンブロー公国軍を率いていた。だが、今すぐに公国軍を動員すること
は不可能だろう。数日以内に集められるのは本当に一部だけだ。が来たとしてもそれは変わ
らない。
あの時のようにいかないし、ギルベルトも一人では何も出来ない。
「そうか、あぁ、そのためにもを早く探さないとな。」
ギルベルトはクラウスの頭をくしゃりと撫でつける。暗くて表情は見えないが、小さな金色の髪が揺
れて、泣いているようにも見えた。
だから、ギルベルトは彼を安心させる事に重点を置くことにした。
「うん。」
急がないとと、クラウスは安心するように何度も頷いた。
彼にとってはそれで十分だったのだ。大人に大丈夫だと認めて欲しかった。ただそれだけだった。
この手には今 いくつもの守るべき存在が握られている