狭い鉱山の坑道へとアーサーに助けられながら足を進めていくと、狭い場所から少し広い所へと出
る。そこにはたくさんの人の気配があり多くの武器が蓄えられていた。は驚いて目を丸くする。
そこにいた一人の男がに笑いかけた。
柔らかそうな薄い金髪を項でとめた彼は綺麗な身なりをしている。鉱夫ではないことは明らかで、
が目をぱちくりとしていると、ゆるりとした落ち着いた動作で膝をつき、頭を下げた。
「お初お目にかかります。アルフレート・フォン・シェンクです。」
30歳くらいの年齢だろう。彼に倣って多くの鉱夫とおぼしき人や、市民が頭を下げる。
フォンがつくということは、この街に住まう貴族のひとりだ。は自分の失態が心の中にあるた
め頭を下げられること自体がいたたまれなかったが、ぐっと唇を噛んで、先ほどのアーサーの言葉を
思い出す。
自分だけが逃げるわけにはいかない。
震える手を握りしめて、はアルフレートの顔をまっすぐ見た。
「顔を上げ、立ってください。わたしは、」
「・・・ありがとうございます。」
アルフレートはもう一度深々と頭を下げて、顔を上げる。手には銃が握られていた。
「この、武器は?」
「えぇ、前から蓄えていたものと、貴方が防衛のためにお送りになったものです。」
アルフレートは何でもないように軽く答えて、立ち上がった。
「マスケット銃の最新型、送っていただけて、ありがたい。」
は前回のアプブラウゼン侯爵軍による侵攻の後、このアガートラームの街の軍備を固めた。
城壁も高くなっており、アプブラウゼン侯爵軍がどれほどのものなのかは知らないが、前ほど簡単に
は攻め落とされることはないだろう。
軍備も前よりは遙かに固めてある。だが、アプブラウゼン侯爵の軍はオーストリアの援助を受けて
いる可能性が高く、フォンデンブロー公国軍がどれほど抵抗を続けられるかは疑問だし、そもそも公
国軍の本隊は首都のヴァッヘンだ。ここからあまりにも遠い。
それは、大人であるアルフレートとて理解しているだろう。
「私たちは命をかけて、最後まで戦います。」
アルフレートは本当に柔らかに笑う。
「それが私たちの役目ですから。」
強く、銃を握りしめる。鉱夫達も同じで、その瞳の奥に宿る決心は、恐らく敵の大きさを知っても揺
るがないだろう。
彼は自分の大切な人々や、国、自分の生活を守るために戦う。
「貴方は規定量以上銀を持って行くこともなく、給料や経営もきちんと決められたとおりしてくださいま
す。ですが、アプブラウゼン侯爵は搾取するばかり。まっぴらです。」
一人の鉱夫が息も荒く言い捨てた。
鉱山は公国の国営で、公国が収益をすべて管理し、規定量を鉱夫の給料へ、街へ、貴族達へと渡
している。その細かい管理を何も知らぬアプブラウゼン侯爵が引き継げるわけもないのだ。
公国にとって法は絶対で、それを逸脱しなければ誰かが罰されることもないし、生きていることが
出来る。だがアプブラウゼン侯爵に占領されれば違う。法は守られず、公国から給料をもらって生き
ていた鉱夫達は公国から切り離され、当然給料も支払われず、暮らしていくことが出来ない。
アガートラームの街がアプブラウゼン侯爵軍に鮮烈な抵抗を示したのは、公国が経営する銀山に
頼っている街だからと言うのが一番大きかったのだ。
「我らは戦います。そして貴方の国に留まります。」
鉱夫はすすで汚れた黒い顔のまま、銃とともに国旗を振り上げた。緑色のグリフィンが描かれた国
旗には橙と白のストライプが入っている。
「お早く、お逃げください。」
「・・・・・・」
は言葉を失って立ち尽くす。
この旗の下に留まることを、彼等は選んだのだ。自分の意志で。
もまた、この旗の下で生まれ、この旗を守ると心に決めた。それは国という意味だけではなく
領民を守ると決めたのだ。
「わたしの、判断が甘かったのです。」
話し合いで解決できるならばそれに越したことはないとは思った。けれど、隣国がこちらに敵
意をむき出しにしており、友好的ではなく脅威がある限り、彼等は穏やかな暮らしが出来ない。
敵対的行動をアプブラウゼン侯爵がとる限り、脅威はなくならないのだ。はその事実をしっか
り理解した上で、そもそも銀山を占領した事への賠償金などと言うお金ではなく、単純に戦争をしな
いと言う目的の下に動くのではなく、領民の安全確保と再度の侵入がなくなることに重点を置かなけ
ればならなかった。
例え賠償金があったとしても、失った人命は帰ってこないのだ。そして、また人命を失わないため
には、賠償金ではなく、隣からの脅威を排除する方面に動かなければならなかった。
はやっと自分の大きな間違いを知る。
戦争をしないことが、人命を失わずにすむことだと思っていた。でも、多分違った。が努力す
るべきは失う人命を最小限にすることであって、戦争をしないことではない。目的は、人命を失わな
いこと。戦争をしないことは手段の一つに過ぎない。
は手段の一つである戦争に怯えるあまり、人命を失わないという目的を見失ったのだ。
そして、その代価は大きい。
「ですが、必ず、助けに来ます。」
はアルフレートの手を握る。
貴族であれば本来このようなマスケット銃を握るような必要はなかっただろう。貴族の多くは騎兵
隊に所属し、市民の多くは新たに出来た砲兵隊などに所属することが多い。だが、この細い坑道で
戦うには市民と同じようにマスケット銃を持ち、狭い坑道を歩かねばならない。
そのため銃を持つ手は酷く荒れている。アルフレートは初めて穏やかな表情を崩し、目を丸くした。
だが、のその手を握り替えし、強い瞳のまま微笑んだ。
「息子と娘がひとりずついます。来年、息子はベルリンの幼年士官学校を受けさせる予定です。」
「幼年学校、ですか?」
「はい。好奇心の強い息子ですが、きっと様のお役に立つ日が来ると思います。」
アルフレートは子供のことを思い出しているのか、嬉しそうにに笑う。
には子供がいない。けれどきっと、彼は子供達のためにここに立っているのだろう。ギルベ
ルトだってきっとそうだ。戦争が好きな、怖くない人なんていないだろう。それでも、守りたい人がい
るから頑張っている。
は去っていったカール・ヴィルヘルム公子の背中を思い出した。
止められなかった。オーストリア継承戦争の折、プロイセンとの戦いに出向く彼を止めることは出来
ず、はただ泣くことしかできなかった。彼だってきっと、戦争に行きたかったわけではない。た
だ、や自らの祖父と言った家族を、守りたかっただけだろう。
「えぇ、わたしは、行きます。そして、必ず戻ってきます。」
は涙を飲み込んで、ほほえみを浮かべて彼に頷いて見せた。
ここに留まっても、アプブラウゼン侯爵に自らの身を差し出しても、多分ここにいるアプブラウゼン侯
爵軍からこのアガートラームの街を助けることは出来ないだろう。
でも、にはフォンデンブロー女公として、しかできないことがある。
名残惜しさを感じながら、はアルフレートの手を離し、坑道の奥へと進んでいく。
「決まったのか?」
アーサーが後ろからついてくる。涙がぐっとこみ上げてくる。それをは無理矢理自分の袖で拭
って、しっかりとした足取りで前へと進む。
「はい。わたしは、わたしにしか出来ないことをします。」
は頷いて、歩きながらアーサーに振り返った。
「ありがとうございます。ついてきて、頂いて、」
多分は、一人であったならば引き返して、この身をアプブラウゼン侯爵に捧げていたかも知れ
ない。父への罪悪感から、はある意味でそれを望んでいた。ずっとずっと自分は母の不義の
子であり、存在自体が許されないと、罪悪感を抱いていた。
だから悩んだし、父に会いたいと、愛されたいと思い続けた。
「・・・ギルを選んだあの日に、決まっていたのかも、しれませんね。」
父であるアプブラウゼン侯爵に婚約者のギルベルトの暗殺を命じられたあの遠い日。
はギルベルトを暗殺することが、できなかった。既に彼を愛していた。自分の未来は彼ととも
にあると思った。に人を手にかけることなど、そもそも出来なかったのかも知れないが、ギルベ
ルトを選んだという事実は変わらない。父ではなくギルベルトを選んだ。それは知らず知らずのうち
に、過去ではなく、未来を選んでいたのかも知れない。
こうなる日が、来ることは、あの日から多分、決まっていた。
諦めきれなかった思いは、戦う自分の国民のために捨てよう。自分はフォンデンブロー公国の主と
なった時点で、領民のために戦わなければならないと決まったのだ。ならば、個人の感情というのは
些末なもの。ましてや未来にない感情など、些末な問題だ。だから。
「さよなら、ですね。」
は暗い道を歩きながら、前へと進んでいく。
拳を握りしめる。彼等が国のために命をかけるように、多分、が国民のために出来ない事な
んて何もなかった。
その為になら傷つくことを厭わない