ギルベルトは右手で松明を持ち、左手でクラウスの手を握ったまま、クラウスに促されるままに前
へと坑道を歩いていった。
足音に気づいたのは、坑道の奥へと入っていってすぐだった。
「隠れて!」
クラウスが慌ててギルベルトを坑道の陰へと導く。
敵がこんな奥まで入ってくるとは考えにくいが、一応警戒しているのだ。この道はほとんど現地民
しか通らないので大丈夫だと思っているが、スパイがいないともはっきりは言えない。だからこそ、
ギルベルトもクラウスの警戒に従う。
「・・・クラウスか?」
小さな呟きが聞こえる。クラウスは一瞬目を丸くして、「誰?」と問うた。すると、「鉱夫のゲプハル
トだ。」と答えた。知り合いだったのか、クラウスは安堵の表情で出て行き、人影に思い切り抱きつ
く。
「無事だったんだね!」
「しー、静かに。」
慌てた様子でゲプハルトと呼ばれた男ははしゃぐクラウスを止める。
「・・・子供?」
ふと高い声が響く。聞き覚えのある声に、ギルベルトは松明に揺れる目をこらす。松明でゆらゆら
揺れる暗い坑道の中で陰が大きくなったり、小さくなったりする。それをぼんやりと見つめていると、
奥から長い髪を片側に寄せて胸元に垂らした女性とおぼしき人影が現れた。見間違うはずもない。
「っ!」
思わずギルベルトは名前を呼んで暗がりへと踏み出す。
「え、ぎ、ギル?」
久方ぶりのは驚いたように目を丸くして、信じられないとでも言うようにギルベルトを凝視し
ている。もしかすると暗くてよく見えないのかも知れない。だが、ギルベルトが大股で駆け寄り、強く
抱きしめると、もやっとギルベルトだと理解したのかぎゅっと抱き返してきた。
「会いたかった。」
飾る言葉すらも見つからず、本音をそのままに吐き出す。
彼女の肩に頬を押しつけ、腕に力を込めて柔らかい彼女の体を自分の体で確かめる。戸惑うよう
に回される慣れない手は、やはり何も変わっていない。それでもきゅっと背中の服を握ってくる感触
から、彼女が自分と同じように恋い焦がれていたことが、わかる。
否、きっと、自分の方がその感情は絶対に大きい。
「顔をよく見せてくれ。」
暗がりではよくわからないが、間近であれば目がだいぶ暗がりに慣れている。
の頬を撫でて髪を掻き上げるようにすればも顔を上げてギルベルトを見上げてきた。
紫色の瞳が暗い中で漆黒に見えるが、長い亜麻色の髪や小さな顔のパーツは一緒だ。の
長い髪に手を入れてそっと絡める。
「死んだって、連絡があった。」
「え?」
はアプブラウゼン侯爵の使者がプロイセン王国軍に勝手にもたらした死の情報を知らなか
ったのか、驚いた顔をした。
おそらくが死んだと言うことで、自らのフォンデンブロー公国の継承権を盾にプロイセン側か
らの譲歩を取り出そうとしたのだ。血筋だけを考えればアプブラウゼン侯爵は、フォンデンブロー公
国の公爵家においてはの次に近い血筋に当たる。
「モンマス公から、その後連絡があって、死んでないって聞いた。」
「え、え?か、カークランド卿?」
は抱きしめられた体勢のまま、後ろにいるアーサーを見やった。
「モンマス公に、プロイセン側に連絡するように言っておいた。適当に目を盗んでやったんだろ。」
彼はにひっついているギルベルトに驚いたような呆れたような顔をしていたが、神妙な顔つ
きで頷いた。モンマス公にはプロイセン王国軍の駐屯地に、の生存と救援をアプブラウゼン
侯爵に隠れて知らせるようにと命じたらしい。
アーサーの機転は、ギルベルトにの生存を知らせた。
「心臓が、壊れるかと思った。」
ギルベルトを抱きしめながら、大きく息を吐く。
が死んだと聞いた時、全てが凍った気がした。感情も、心も、体も全部が凍り付いて、動か
なくなった気がした。を抱きしめる今でも、心のどこかで信じられないとすら思うほどに、恐ろ
しい経験だった。
あの時の感情を想像しただけで、悪寒が走る。
「心配、かけんなよ・・・」
自分でも、泣き出しそうな声だとわかった。まるで懇願のような響きに、がびくりと体を震わ
せたのがわかった。
本当に、一緒に行けば良かったと何度悔やんだことか、自分の行いも、すべてすべて悔やんだ。
もっと声をかけておくべきだった。もっとたくさん話をして、きちんと意見をすりあわせておくべきだっ
た。あの最後の夜、体に触れあうことでなくて、もっと優しく、心にため込むものを聞いてやるべきだ
ったと。
どれだけ悔やんだか、本当にわからない。
「・・・早く行かないと。」
アーサーが眉を寄せて嫌そうな顔でギルベルトとに言う。
空気読めないやつだと思いながらも当然のことなので、ギルベルトもから身を離す。だがど
うしても不安が消えず、の手を強く強く握りしめた。
を保護しプロイセン王国軍の駐屯地に連れて行った上で、どうするかはフリードリヒが指示
する。
わざわざ強大な国であるプロイセン王国の国内にある軍の大規模な駐屯地に、アプブラウゼン侯
爵が踏み込んでくることはない。喧嘩を売るだけでなく、勝算がまったくない。少なくともフォンデン
ブロー公国がアプブラウゼン侯爵軍に攻め込まれている限りはプロイセン王国軍の駐屯地はおそ
らくにとって安全な場所だ。だが、それだけでは問題は解決しない。
「クラウス、出るぞ。」
「うん。戻ろう。」
ギルベルトが言うと、クラウスは頷いて外へと出る道を戻っていく。
「あ、あのっ、プロイセン王国軍は?」
は慌てた様子で尋ねる。
「国境のちょっと外、アガートラームからそうだな、数時間ってところにいる。」
アガートラームから数十キロの所に、プロイセン王国軍の駐屯地がある。
の訃報やフォンデンブロー公国へのアプブラウゼン侯爵軍の侵攻がなければ、本来ならア
プブラウゼン侯爵領を攻め落とす気だったので、数万の軍隊がそこに駐屯している。
「そう、ですか。指揮官は・・・」
「国王。フリッツだ。」
最高指揮官はフリードリヒ2世。国王である。
は報告を受けていなかったのか、なるほどと頷いて、ぎゅっともう一度ギルベルトの手に力
を込めた。
坑道の道は暗く、の表情は揺れる松明の中ではなかなか伺えない。
「どのくらいの、兵がいますか。」
「2万3000だ。」
数はアプブラウゼン侯爵という地方領主地域の占領としては破格の人数だが、それもアプブラウ
ゼン侯爵領がオーストリアとの国境にあると考えれば当然だ。これを機に横やりを入れられても困
る。
はギルベルトの答えに目を伏せた。
彼女が何を考えているのかはわからない。気づけばギルベルトは緊張によってじんわりと自分の
手が汗ばんでいるような気がした。
はあの時の喧嘩をどう思っているのだろうか。
先ほど彼女を抱きしめてやっと少し和らいだ心が、また不安に押しつぶされそうになる。無理矢理
抱いたことも一因にあり、またいろいろな状況が重なりに重なっていて、ギルベルトですら何を言え
ばよいのか頭の中でまとまらなかった。
それはも同じらしい。握った手から互いの不安と緊張が伝わって来るような気がした。
「それにしても、おまえ・・・・本気でフォンデンブロー女公と結婚してたんだな。」
クラウスを先頭にギルベルトとが手を繋ぎ、その後ろをアーサーが進んでいる中で、アーサ
ーが考え込むようなそぶりで言った。
ギルベルトは嫌なやつに借りを作ったと眉を寄せる。
「なんだよ。文句あんのか?」
「いや?まぁ、俺は彼女とお友達、だからな。」
アーサーは楽しむように肩をすくめて笑った。
昔からアーサーはあまり好きではない。結構うまく世を渡っていくタイプの人間で、基本的には一
匹狼という所はギルベルトと通じるところがあるが、策略好きであまり好みではない。同族嫌悪もあ
るのかも知れないと正直少し思う。
「お友達?おまえ、お友達なんていたのか?」
誰の話だよ、とギルベルトは鼻で笑ってやった。だが、しゃくに障るけれど、彼がを叱咤して
ここまで来ただろう事実は変わらない。のことだ。一人では諦めてアプブラウゼン侯爵に身を
差し出していたかもしれないが、利益関係にめざといアーサーは絶対それを許さなかっただろう。
が友好的だからこそ、今のイギリスは安穏を貪ることが出来ているのだから。
「一応、礼だけ言っとく。」
ギルベルトは素っ気なく小さな声で、けれどアーサーに聞こえるようにはっきりと言う。
暗がりでは表情などわからないが、アーサーが驚いた気配は伝わった。そして彼はのど元でくつ
くつこみ上げるような笑いを漏らした。
「・・・礼が聞こえねぇよ。」
また こうして共に笑いあえる日が