はすぐにギルベルトの馬に乗せられ、公国とプロイセンとの国境を越えてプロイセン王国軍
の駐屯地へと足を踏み入れた。既に軍は終結しているらしく、それぞれが落ち着いた様子で銃の
手入れをしたり、行進をしたりと本格的な準備へと入っている。





「フリードリヒ王はどこにいらっしゃいますか?」





 はすぐにギルベルトへ尋ねた。





「あっちの本陣だ。」

「お願いします。そちらに急いでください。」






 馬を制御しているのがギルベルトに、はそう願った。

 会いたかったと、言ってくれた。もそれをとても願っていた。それは本当だが、目の前の自
分の失態や申し訳なさが大きくて言葉にもならない。そして、自分が一番しなければならないことを
今は理解していた。

 それが全て終わるまで、は気を抜くわけにはいかない。




「こっちだ。」







 馬を止めると手早くをおろし、馬の手綱を兵士に渡す。

 そこは小規模の屋敷、おそらくは元もと貴族の隠れ家か何かなのだろう。駐屯地から数百メート
ルの所にあり、また、屋敷は非常によく整えられていた。

 としては流石によく知ったプロイセン国王とはいえ侍女の服を着ており、それも薄汚れてい
るため着替えたかったが、早くフリードリヒに会わなければならなかった。こうしてが歩いてい
る間にも、こくこくとアプブラウゼン侯爵の軍は銀山の街アガートラームに近づいているのだ。



 はギルベルトともに、すぐにフリードリヒの部屋に通された。

 別室にはどうやら将軍達が集まっているらしく、会議を行っているのが見えた。主要な将軍の一
人であるギルベルトも参加するべきだろうが、ギルベルトは迷いなくについてフリードリヒの
部屋へと足を踏み入れた。





「・・・ご無事何よりだ。」





 フリードリヒは後ろで手を組んで、窓の外の軍の様子を見ていた。

 プロイセン軍は2万3000。大国だけあり、軍隊を動員するのには時間がかかるが、数という点で
は大きい。

 は青い瞳の国王を見やる。もう中年であり、熟達した軍事的センスを持ち、優秀な将軍達
の手助けもあり、数ある戦いを勝ち抜いてきた。また大国の王として政治をとり、既に長らくが過ぎ
ている。






「久方ぶりです。このような格好で訪れる無礼をお許しください。しかし、早急に謁見をお願いする
必要があったのです。」





 は直立したまま姿勢を正し、彼の強い色を宿した瞳を真っ向から見返す。それにフリードリ
ヒは驚いたのか僅かに目を見開いたが、すっと瞳を細めた。

 いつもは俯いてばかりだった。国の主として自信などあるはずもなく、フリードリヒの前に立
つといつも萎縮した。自分が同じ場所に同じ国の主として、国の大きさは違うとはいえ、立っている
のが本当にいたたまれなかった。彼の目をまともに見返すことなどなく、酷い時はフリードリヒが目
を合わせるために膝を折るような状態だった。

 亡くなった彼は、今のを見たら、無様さに眉を寄せるかも知れない。






『うるさい女より暗い女の方がましだ。』






 その一言で、は将来彼と結婚することが定められていた。

 カール・ヴィルヘルム公子。本当ならばフォンデンブロー公国を継ぐべきだった正当たる公子であ
り、が結婚するはずだった10歳以上も年の離れた彼は、オーストリア継承戦争の折、プロイ
センとの戦いで亡くなった。



 幼すぎては、彼が守ろうとしたものにも、何にも心が至らなかった。

 彼を失った時の絶望は、よく覚えている。彼はの生活を全て守ってくれており、後ろ盾でも
あり、また彼とともにあると思っていた未来すらも、打ち消された。にとってその喪失は経済
的な問題と、そして自分の未来すらもはらんだ喪失だった。



 遠い日、は彼の狩猟についていったことがある。母とが滞在している時だった。彼が
目立ってに構うことはなかったが、一応何かイベントごとがあると誘ってくれた。母は行かな
かったがは森に興味があって、馬に一緒に乗せてもらって、ついてきた護衛の兵達とともに
花を摘んで遊んでいた。

 銃声は数発だった。多分とどめを刺したのはカール公子だっただろう。

 がみた時には既に大きな熊は息絶えていた。柔らかな毛並みの猛獣はとても可愛らしい
顔をしていて、怖いとは思わなかった。そして逆に冷たくなる熊が可哀想に思えた。




『この引き金を引くことによって、守られる命があることを忘れてはならない。』





 彼はちゃんとに教えてくれた。熊を狩った時に、おまえは熊の死を悲しんでも良いけれど、
統治者となる自分は、国民を殺した熊を許すことはないし、侵入をよしとすることはない。引き金を
引かなければならないのは、統治者であると。




『おまえは、熊のために泣いてやると良い。』




 は目の前にある熊の死を悲しむばかり、国民が死んだことにも、これから国民が死ぬ可
能性にも、目がいかなかった。





『引き金を引く人間は迷ってはいけない。でも、引き金を引くのは、おまえじゃないから。』





 あの日、彼はに寂しそうに言った。

 そう、あの日、引き金を引くべきだったのは、ではなかった。けれど、今引き金を引くべきは
だった。なのには、戦争をしたくないという一片で、熊を野放しにしてしまった。自分た
ちのテリトリーから逃れても、また襲ってくるかも知れない。



 その可能性を、殺したくないという個人的な感情だけで、判断してしまった。罪は、大きい。

 はただ、過去ばかり見て戦争が怖かった。今でも戦争と聞いて思い浮かべるのは、去って
いく背中だ。をいつも守ってくれた大きな背中が、グリフィンの旗とともに遠ざかっていくのが
、瞼の裏に焼き付いている。



 でも、今なら彼が選んだ道の意味がわかる。

 あの時戦わなければプロイセン王国にフォンデンブロー公国は飲み込まれていただろう。国民の
命を守るために、彼は戦い。また、死んだ。

 それこそが、のとるべき道だった。


 戦争を望むわけではない。だが、国民を守ることこそが、全てなのだ。







「・・・すべてはわたしの判断ミスです。」






 はフリードリヒにはっきりと告げる。

 話し合いだけで解決を図ろうとしてアプブラウゼン侯爵側につけいる隙を与えたのも、軍隊を招集
してアプブラウゼン侯爵に報復しなかったためすべてのミスだ。心の中に、アプブラウゼン侯
爵は血が繋がらないとはいえ父だから、話せばわかってくれるという気持ちもあった。それは肉親
の情だったが、は何よりもフォンデンブロー公国の未来を模索せねばならない立場であり、

しか血筋に近しい人間がいないことを考えれば、国はとともにある。


 だからこそ、その責任はが負わなければならない。





「わたしの個人財産での支援と、最大限の行軍許可を与えます。その代わり・・・・」





 はそう言ってフリードリヒから目線を離さず、膝をつく。





「今、貴方の軍の力を、お貸しください。」





 他国に膝をついてはならないと言われた。

 公国の主となってから、絶対に弱気なところは見せてはならないと皆から言われ、懸命にまっす
ぐ立ってきた。でも、俯く自分を止められなかった。






「お願いします。」





 は深々と頭を下げる。

 やっと、今自分が国のために何をしなければならないかを知る。

 今プロイセン国王である彼に頭を下げ、軍隊を借りなければアプブラウゼン侯爵軍が越境したと
言うことを考えれば、もうすぐアプブラウゼン侯爵軍は銀山の街アガートラームに攻撃を仕掛けるは
ずだ。そして数週間後にはその手中におさめるだろう。だが、街の市民達も黙ってはいない。強硬
な反抗をすることは前回の件を見てわかるとおりで、多くの死者が出るだろう。

 フォンデンブロー公国の首都ヴァッヘンから公国軍本隊を呼び寄せるには時間がなさ過ぎる。対
してプロイセン王国軍は既にアガートラームから数時間の所におり、十分にアプブラウゼン侯爵軍
を撃退できるはずだ。

 の面目など、どうでも良い。今、国と国民を守るためにどうすべきか、という話だ。








 「・・・ギルベルト、将軍達に軍の準備を命じろ。行軍準備ができ次第、鉱山側から入る。」






 フリードリヒはの申し出にしばらく黙っていたが、鋭い声でギルベルトに命じる。

 既に将軍達が集まっているので、軍隊にそれぞれ命令を伝えればそれだけで行軍の準備は半
日で終わる。








「了解、」







 ギルベルトは帽子を取って一礼し、扉の外へと出て行く。





「顔を上げなさい。」





 フリードリヒはに命じ、が顔を上げると軽く頭を左側に傾けて、仕方ないなぁと言うよ
うに笑った。フリードリヒがの目の前に膝をつき、ぽんとの肩に手を置く。

 それだけで、思わず泣きそうになる。

 君は優しすぎるのだと、言外に言われた気がした。




  いつだって その優しさが足枷になる