フリードリヒはをひとまず退出させた。
着替えもさせなければならないし、顔だって煤で汚れていた。坑道を通ってきたからだろう。亜麻
色の髪も乱れていたが、今までになかった意志の強さがその紫色の瞳から伺われた。
は誰の目から見ても酷く危うい統治者だった。
若く、後継者としてあげられたのも二年前で、満足に統治者としての教育は受けておらず、その
上女性だ。性格も他人からの意見に流されやすく、また、情に厚いため、感情を重視しがちなところ
が、大きな欠点だった。だがその反面それは利点でもあり、感情移入を出来るからこそ、災害など
の折に苦しむ国民を救うために資金投入や、慰安のための来訪を惜しまない。
周囲の者が彼女の危うさを知り、危ぶむ反面、国民の彼女への支持は絶大だ。それはギルベル
トが銀山の街、アガートラームに入った時も感じたらしく、この急ごしらえの後継者を、国民の多くは
歓迎していた。
フォンデンブロー公国は独立を重んじる。議会を持ち、独自の決定を行い、君主による独裁を望ま
ない気風がイギリスにも似ている。それは長らく市民や貴族達が交通の要衝として富を築き、自
治を推し進めてきたからだろう。だからこそ、無理矢理にフォンデンブロー公国を支配しようとしたプ
ロイセン王国に徹底的な反抗を見せた。
公爵は軍事権限しか持たず、議会が政治を握るのが一般的だが、長らく議会と公爵の闘争は存
在した。だがが公爵となって後、政治についてよくわからないは軍事権限をたまに行
使するだけで、それ以外は基本的に議会の議決に進んで従った。時には軍事行動についても議会
に賛否を掛け合うことが多かった。
フォンデンブロー公国はかなりの自治を議会に認めない限り併合するのは不可能だ。また
を国民が慕う限り、公爵であるを追放すればものすごい反感を買うことになるだろう。要する
に、プロイセン王国がフォンデンブロー公国を併合することは軍事的に可能であるが、凄まじい抵抗
を思えば内戦状態になり、鉱山などが閉鎖されることを視野に入れねばならず、利益回収が不可
能と言うことだ。
「あの、ありがとうございます。」
は一応顔を洗い、服を着替えたらしく、緑色のドレスで出てきた。
このドレスは将校についてきていた貴族の女性のものだが、にまさか侍女や農婦の服を
着せるわけにも行かないのでもらい受けた。髪も梳いたのか、綺麗に三つ編みして前へと緩く垂
らしている。
「疲れているだろう。座りたまえ、後数時間で出ねばならんからな。」
今休んでおかねばまたすぐに鉱山から戻る羽目になる。彼女はかなり疲れているだろうが、全く
怯む様子なく、こくりと頷いた。
「地図です。ベンラス宮殿から、アガートラームに至るまでの。」
が丸く巻いた紙をフリードリヒに渡す。
「鉱山から入られるのでしたら、鉱夫達が道をよく知っています。テンペルホーフに頼んで鉱夫は呼
び寄せました。」
アガートラームには強固な城壁があり、後ろ半分が鉱山に食い込んでいる。鉱山には坑道があ
り絶壁の下に出ることがある。そこからプロイセン王国との国境であるこの駐屯地まで30分だ。
「用意が良いな。」
言いながらフリードリヒもあらかじめ、もしが救援を求めてきたならばそうするつもりだった。
ただ流石彼女も判断がはやい。鉱夫をテンペルホーフに呼びに行かせているところがめざとい。
もそうなることを予想していたのだろう。
プロイセン王国の国境からアプブラウゼン侯爵領に侵入するよりも、アガートラームの強固な城壁
を砦として使用し、アガートラームの内部に外の坑道からプロイセン軍を引き入れ、城壁を盾にしな
がら戦った方が兵員の負傷も少なくてすむ。
そしてアプブラウゼン侯爵軍が勢いを失ったところで城壁から出てとどめを刺せばよい。問題は騎
兵が少ないことだ。流石に坑道に馬を引き入れることは出来ないため、たたみかける時に歩兵だけ
では苦労するだろう。相手には騎兵もいるだろうから。
「ヴァッヘンの公国軍本隊はどうなる?」
フリードリヒは地図を広げながらに尋ねる。
「確かなことは言えません。ですが、アガートラームから半日ほどのところに別の都市があります。
そこへテンペルホーフとギルベルトに頼んで、伝令をプロイセン軍側から1ダースほど送りました。」
公国軍本隊は動員命令を出して揃えたとしても、ここにつくまでにばらばらで動きの速い騎兵だ
けであっても恐らく一週間かかるだろう。
この時代富が集まり、収奪を受けるのは多くの場合都市だ。都市には大抵軍が駐屯している。各
国の交通の要衝で、商業で栄えるフォンデンブロー公国においては都市が多く、それぞれ軍隊を置
いている。アガートラームに近い都市の軍隊を呼び寄せるしかない。
伝令も1ダース送れば何人かが仮にアプブラウゼン侯爵軍に捕まったり、不慮の事故にあっても
大丈夫だろう。
「もし決戦をするならアガートラームの近くの平原か。」
近くの都市から公国軍が現れるのはおそらく明後日、もしくは明明後日になる。アプブラウゼン侯
爵が今日攻撃を仕掛けるとしてももう夕刻だ。すぐに夜闇に停戦を強いられるだろう。本格的な攻
撃は明日からだ。ならばプロイセン王国軍は夜に紛れて坑道からアガートラームに入り、守りを固
めて明日に備え、明日の朝からアプブラウゼン侯爵軍を攻めればよい。
そしてアプブラウゼン侯爵軍の撤退が見えれば平原へと誘い出し、合流した公国軍とともに軍を
撃滅する。
「・・・それほど心配しなくてもこの戦争は容易に勝てる。」
はしっかりとした目をしていたが、酷く不安そうだった。
「・・・ですが」
「何でも失敗はあるものだ。」
は自分の失態が信じられず、だからこそその罪悪感から悩んでいるようだ。
しかし、フリードリヒも目の前のことだけを見て逃げて、大切な人を失ったことがある。酷い喪失だ
った。だがそれを乗り越えたからこそ今の自分があり、また、国王として下々の者へも目をやれるよ
うになったのだと思う。そして、逃れようとしたものの大きさを改めて知り、ギルベルトとともに今が
ある。
誰しも若いうちに一つや二つの失敗をするものだ。
ただは公国の主であるが未だ17歳だ。フリードリヒは既に即位した時、二十歳を優に超え
ていた。失敗をする年齢が同じでも、即位してからならそれは重大なミスとなる。彼女が経験不足
なのは否めない。
「訃報が、先に届いてしまったからね。」
フリードリヒはの前のソファーに座る。ははっとした顔をしてそれから俯いた。
「ギルベルトはとても君を心配していたよ。」
妃が死んだと、突然言われれば誰だって驚くだろう。ましてや喧嘩別れのような形だったのだか
らなおさらだ。ギルベルトはフリードリヒの目から見ても驚くほどに、のことを愛している。だか
らこそその衝撃は計り知れなかっただろう。
「嬢、君が言っていたプロイセン側への報酬だが、それはいらんよ。」
フリードリヒは小さく笑って、腰に手を当てる。
元々アプブラウゼン侯爵領を攻撃する予定だった。そのための準備はしていたし、の援助
がなくても予算としては計上していた。逆にアガートラームを城塞として使えることを考えればプロイ
セン側の死者も大きく減るだろう。軍事的な援助をしてくれるとあればなおだ。
「その代わり、何があってもギルベルトといてやってくれ。」
フリードリヒは戸惑うような顔をしているを見る。
ギルベルトの酷く狼狽えた姿を見て、フリードリヒはある意味で呆れたと同時に彼の危うさを見た
気がした。
彼女は人だ。ギルベルトは国だ。大きな違いがある。死はにとっては遠くとも、寿命が違う
彼にとっては目前のように思えるのかも知れない。だがそもそもはギルベルトが国であること
を知らない。いつか年をほとんどとらない彼に違和感を抱く日が来るだろう。その時、彼女を失った
らギルベルトはどうするだろうか。
「生きている限りは、必ず君はギルベルトの妃であると約束してくれ。」
「そ、そんな。」
がふるりと首を振る。
「わたし、いつも、もらってばかりで、わたしの、ほうが、」
紫色の瞳を伏せて、は困ったように首を振る。
「いや、いつか、わかる日が来ると思う。」
確かに、はギルベルトにいろいろなモノを与えられているのかも知れない。だが彼女はいつ
か、もっと大きな感情的なものを背負わなくてはならなくなるだろう。、彼女の家族と言っても良い。
そしてそれがわかった時、幸せが目の前から消えていくことを、が去ることを、ギルベルトは
怯えている。
ギルベルトがに話すなと言うから、フリードリヒはギルベルトが国であることを、彼女に自ら
語ることはない。だが、プロイセンに仕えると同時に、フリードリヒはギルベルトのことを強く大切に
思っている。
「ギルベルトが望む限り、きっと、生きていても、死んでも、わたしは彼の妃です。それは変わりま
せんよ。」
は胸元で手を握って、いつもの通り控えめな様子で小さく笑う。
その心が絶対に変わらないことを、フリードリヒは願う。ギルベルトが抱えるモノが、決して簡単に
言えるモノではないと、知っていたから。
花を救い明日を救う