フォンデンブロー公国の首都ヴァッヘンのイースターは4月過ぎに行われた。
新たな統治者の初めての新年となると同時に、長らく待ち望んだ後継者が春先に生まれたため、祝いはここ数年類を見ないほどの大きな復活祭となった。
「すげぇ人、・・・・・・」
ギルベルトはヴァッヘン宮殿のバルコニーに面したカーテンを少しだけめくって、外の様子をのぞき見て驚いた。
ヴァッヘンの宮殿前広場にはたくさんの人々が集まっている。まだ時間まで1時間ほどあるのだが、新たな統治者を一目見ようと、人々がつめかけていた。おそらく、これを良い機会として地方から出てくる民もいるのだろう。
「祝い事には皆目がありませんから。きっと今年は良い年になるでしょうね。」
緑色の鮮やかなドレスを着たが柔らかに微笑む。
後でバルコニーに出るので、正装で、それはギルベルトも同じだ。首都であるヴァッヘンで民の前に出るのは初めてで、は緊張している。公開処刑の際、ベンラス宮殿近くで顔を見せたことはあったが、首都ともあれば賑やかさも違うものだ。
「商業も安定しているようで、プロイセン、イギリスとの貿易も増えて、儲かる一方です。」
はにっこりと笑って見せた。
プロイセンとフォンデンブロー公国は統治者であるの夫がギルベルトと言うこともあって、プロイセンとの友好的関係は確固たるものとなった。またイギリスとの防衛協定と共に結んだ輸出入協定は、お互いに利益のあるものであった。
「様、」
乳母のフェージリアーズ伯爵夫人ルイーズが、ユリウスを抱えてやってくる。
「あら、授乳の時間ですね。」
最近のドレスは胸まわりが浅く、むき出しにするようなデザインが多いため、は軽く胸をはだけさせる。
本来なら授乳などは乳母に任せても良いのだが、は子供に関わることを望んでいるため、授乳や育児はほとんどの部屋を中心に行われることになった。ギルベルトも初めての子供と言うことで戸惑いは大きいが、子供に関わりたくないと思ったことはない。彼女の考えに賛成だった。
の執務室には多くの人が訪れるが、子供ににやついている。
特に銀山の街アガートラームからやってきたシェンク家の子息クラウスは赤子に興味津々で、よく面倒を見ていた。クラウスには妹がいるらしいのだが、2歳差なのであまり覚えていないらしい。また乳母のフェージリアーズ伯爵夫人ルイーズの息子である4歳のフレデリックとユリウスよりも半年ほど前に生まれたアドルファスも長じればユリウスの良い遊び相手となるだろう。
「よく飲んでるな。」
ギルベルトはカウチに座って授乳すると、ごくごくとすごい勢いで飲んでいるユリウスを見つめる。
最初は恥ずかしがってあまり授乳するところをギルベルトに見せたがらなかっただが、2時間に一度の授乳を繰り返しているうちに、気にしていられなくなったらしい。気にする男性もどうやらいるようだが、ギルベルト自身も別に気にならなかったし、嬉しそうな顔で乳を飲む赤子を見ていたら、かわいらしくて表情もゆるむものだ。全く気にならない。
「もうそんな時間ですか。」
は慎重にユリウスを抱きかかえ、そして軽くぽんぽんと彼の腕を叩いた。するとの服の胸元をぎゅっと握りしめる。食事だと言うことはしっかりわかっているらしい。
初めての子供だと、親も子供も戸惑って乳を飲まないと言うが、食欲旺盛のユリウスはしっかりと量を飲んでくれるので、親が初心者でも扱いやすい子供だった。ただ、要求ははっきりしていて、不満があるときは泣き叫ぶのだが。
「幸せそうだな、おまえ。」
ふにっとギルベルトは人差し指でユリウスの頬を押す。
「ぅー、」
ユリウスは食事を邪魔されると思ったのか、少しうなってギルベルトの指をぎゅっとつかんだ。
「今日はあまり泣きませんね。緊張しているのかも。」
がフリードリヒ・ユリウスを抱えて微笑む。
お腹がいっぱいになったところのユリウスだが、いつもはうるさいくらい泣き叫ぶというのに、今日はお腹がすいてもずいぶんと静かだった。赤みがかった紫色の瞳が、不思議そうにギルベルトを見上げている。
女官たちもの用意や人の誘導などでばたばたしていたため、雰囲気を感じたのかもしれない。
「ユリウス、かわいいな。」
ギルベルトはの手から赤子を抱き上げる。
最近少しずつ、ユリウスは笑うようになった。一人で手を握ったり、少し振り回したりするようになって、体重が増えたせいかぷにぷにでとてもかわいい。
ギルベルトが体を持ち上げると、ユリウスは嬉しそうに笑った。
視界がはっきりとし始めたのか、父親と母親がわかるようになったらしい。ギルベルトやが声をかけると、とても喜ぶし、他人だと少し反応が変わる。それがギルベルトにはとても嬉しくて、子供を抱いていると幸せな気分になれた。
勝手に顔がにやけてしまう。
「あぁ、俺親ばかでも何でも良い。ユリウスかわいい。」
「ふふ、ね、」
はギルベルトの隣にたって、そっとユリウスの髪の毛を撫でつける。
ギルベルトに似ているのか、精悍な顔つきと銀色の髪が印象的なユリウスは、でもまっすぐではない眉毛や耳の形がによく似ている。
「あー、ぃ、」
ユリウスがギルベルトに向けて手を伸ばしてくる。小さな手はギルベルトの指をきゅっとつかむ。とても小さいがちゃんと力があって、温もりがある。
なんて幸せなんだろう、
ギルベルトは子供を抱えながら思う。温もり、重み、そして隣にいる、これ以上の幸せなどあるのだろうかと思うほどに、本当に幸せで涙が出そうになる。
戦いしか見てこなかった。ただひたすら戦って国を作り上げ、時には攻め込まれながら、常に戦い、上を目指してきた。下にいるたくさんの人々や微笑む子供たちに目を向けたことなどあっただろうか。戦いだけを見てきた。それ以外を知らなかった。
人の営みというものは、かくもすばらしいものなのだか。
「俺、損してきたのかも。」
「はい?」
よく言葉尻が聞こえなかったが首を傾げる。
「いや、赤子なんてろくすっぽ見たことがなかったんだが、こんなかわいい生き物なら、もっと触れあっとけば良かった。」
チャンスがなかったわけではない。多分ギルベルトが避けていたのだ。
「そうなんですか?でもこれからきっと触れあえますね。いっぱいさわってあげないとだめだそうですよ。それに兄弟も多いほうが良いと言っていましたから、」
女官たちに言われたのだろう。はギルベルトが抱くユリウスを嬉しそうに眺めている。
が死ねば、後継者はこの赤子一人だ。ほかに近しい親族はすでにない。そのことを考えれば、一人では心許ないし、次の子供は求められて当然だ。
初産であったため、はかなり苦しんだ。苦しそうな姿はギルベルトも見ている。そのためなかなか二人目をとは言い出せなかったが、彼女が望んでくれるならばとても嬉しい。
「人がすごいですよ。」
ルイーズがおっとりとした口調で声をかける。
もう人は十分に集まっているだろう。少し予定よりも早くはなるが、バルコニーに出たほうが良いかもしれない。
「、」
もう一度ユリウスを彼女に抱かせる。そしての肩をそっと抱いた。
「行こうか。」
「はい。」
は子供を抱いて、ギルベルトの肩にこつんと軽く頭を傾ける。
わき上がる幸せはどうしたらよいかわからないほどに、膨らんでいく。ギルベルトは彼女と子供の姿のあまりのまぶしさに目を細めて、バルコニーへのカーテンをめくった。
上にはまぶしいほどの青空と、そして下に広がる人の波。
すべてに祝福されているようで、ギルベルトは喜びと幸せにを見やる。彼女はギルベルトの手を握って、同じように幸せそうに笑った。
たった一つの祈り