2週間ほどおいてみると、はフェージリアーズ伯爵夫人ルイーズを自分の乳母にすると宣言した上で、アルトナイトハルト伯爵夫人エミーリエを自分の宮廷に置くと言い出した。
フェージリアーズ伯爵夫人ルイーズは未亡人であり、実家に息子を預けず手元に置いていたので、フレデリック、アドルファスという4歳と生まれたばかりの息子も一緒だった。さらさらのくすんだ金髪に、垂れた緑色の目をした彼女はピアノがうまくと気があった上、あまりきつい性格ではなかったが、経済観念にも強くしっかりしていた。
乳母の選定はに任してあったし、男のギルベルトの感化すべきところではない。だが、ナイトハルト伯爵夫人エミーリエを宮廷に残すという決断を行った理由はわからず、これはすぐに問題になった。ナイトハルト少佐が、文句を言い出したのだ。妻を帰せと言うことである。
は自分の地位を逆手にエミーリエがフォンデンブロー公国にいることを認めたが、ナイトハルト少佐は国王であるフリードリヒに直談判した。フリードリヒはと争うのが面倒だったので、内輪だけの夕食の席で尋ねると、彼女はぽつりと言った。
「・・・女性の尊厳の問題です。」
珍しく口をとがらせてフリードリヒの言葉を否定した彼女は、言葉を続ける。
「彼女は離婚を望んでいるそうなので、そのお話し合いがすむまでこちらの宮廷にいたいそうです。」
要するに、は彼女の離婚がきちんとすむまで、預かる気であるようだ。プロテスタントでは離婚も許されている。浮気も普通の時代に耐えかねて女が離婚を申し出ることはあるが、目立った噂は聞かず、ギルベルトは首を傾げた。
「俺はアルトナイトハルト少佐は嫌いだけどな・・・そういうのを主君が口出すのって、よくねぇんじゃねぇの?」
家庭生活にまで主君が口出しし、片棒を担ぐのが果たして良いことなのか、ギルベルトが肩をすくめてみせる。
アルトナイトハルト少佐のことを、ギルベルトは実は嫌っていた。一応兵士たちに略奪は禁じているが、彼の部隊はしょっちゅう略奪を起こす上に、どうも彼自体もそれに荷担している節があるのだ。証拠がないので訴えることはできないが、本来なら処分されても仕方がない。
だが、だからといってそれとこれとは話が別だ。はギルベルトの言葉に考え込むようにふっと俯いた。
「いや、別におまえを責めてる訳じゃねぇけど、ほら、他人が口出すともめることもあるじゃねぇか。だから、当人たち同士が話し合った方が良いんじゃねぇのかなって・・・」
慌ててギルベルトは取り繕うための言い訳を並べる。
最近ギルベルトが少しを素っ気なく扱うだけで、周りの目は酷く冷たい。が妊娠中だから変なストレスを与えるなと言うことらしく、不用意な発言の多いギルベルトは針のむしろだった。だから勝手に言い訳が並ぶ。
「別に、わたしだって、口出ししたいわけじゃないんですよ。」
は少し頬を膨らませてバターをたっぷりつけたパンを口に運んだ。
ドイツの多くの地域ではライ麦しか育たないのだが、この周辺では普通に小麦が育つのし、牧畜もしている。商業で発展しているだけあって各国の物品が手に入りやすく、食卓は豊かだ。
「でも、わたしとしては、流石に口出ししてあげないと、気の毒と言いますか・・・。」
はしょぼんとした顔をして自分のお腹を撫でて、「ね、」と言った。最近よくお腹の子供が動くせいか、声をかけている。
「何があったんだ?」
フリードリヒはの様子に不思議そうにする。
は馬鹿ではないから、何もなく彼女を庇っているわけではないだろう。理由がきちんとあるのだ。
「わたし、見ちゃったんです。」
は小さくため息をつく。
「アルトナイトハルト伯爵がいらっしゃってたじゃないですか、この間。」
アルトナイトハルトはプロイセン軍の少佐であり、それなりの地位を持つものでもあるから、プロイセン国王であるフリードリヒへの伝令として数週間前にフォンデンブロー公国にやってきた。妻がの乳母候補に挙げられ、その後押しのつもりもあったのだろう。
ギルベルトは報告を受けただけでそれ以上は知らないが、どうやら妻にも会っていたようだ。
「・・・何か、お話をしていたのですが、その暴力を、ふるわれたのです・・・・」
は躊躇いがちに、口にした。
女官のマリアンヌが慌てて止めたのだが、も驚いたし、エミーリエ自身から直接話を聞くことにした。彼女自身酷く怯えており、なだめるのに時間がかかったが、彼女から聞いたところによると元々エミーリエは離婚を望んでおり、暴力から逃げるように乳母の候補に手を挙げたのだという。
は教養の高さとその穏やかだが強い精神性からすでにフェージリアーズ伯爵夫人ルイーズを乳母として選ぶことを心の中で決めていたが、エミーリエをそのまま返すことはためらわれた。だから自分の宮廷にしばらく置くと言い出したのだ。
「ごめんなさい・・・勘違いさせてしまって。でも、流石に・・・暴力は言葉であれ、力であれ、とても怖いものですから。」
はフリードリヒに謝りながらも、言った。
自身も幼い頃から異母兄や姉のいじめに耐えてきたし、言葉の暴力もあったため、元々そういった理不尽な暴力に敏感だ。だから、エミーリエをそのまま捨て置くのは心ないと思ったのだろう。
「その暴力は、間違いないんだな。」
フリードリヒは確認のために尋ねる。
「・・・はい。腹を蹴られておりましたので、フリードリヒ様の医師の方に見せましたら、青あざがたくさんありました・・・」
今宮廷にはフリードリヒに随行している彼の医師がいる。内科医だが、が妊娠中と言うこともあり、腕利きの医者は必要で、よくのところにも顔を出していた。その故あってエミーリエを見たのだろう。証言できる人間はたくさんいると言うことだ。
「会うのにも怖がっておられるので、できれば旦那様に会わずにすむ方法はないかと、離婚が決まるのを待っていたのです。」
は彼女を匿いながら、裁判所の調停を待っている状況だったと言うことだ。
「お話が遅くなって申し訳ありません。ただ、ことがことですので・・・・」
主君であるフリードリヒにならまだしも、大々的に言ってしまえばアルトナイトハルト少佐自身の顔をつぶすことにもなりかねない。ばらされては困るからこそ彼もおおっぴらには妻を取り戻しにかからないだろうと思っていたが、が押せば押されるタイプで、言わないだろうと思われていたのかもしれない。
「んなこと早く言えば良かったのに。」
ギルベルトが言うと、フリードリヒがあきれたような目をこちらに向けてきた。
「ギル、おまえはもう少しデリカシーがある方が女性にもてると思うぞ。」
「もてなくてもがいるからいいんだよ。それに暴力男なんて最低じゃねぇか。」
力で女性が男性より弱いなんて、当然のことだ。それを縦に女性に酷いことをするなんて、男の風上にも置けない。社会的制裁を食らって当然である。
「そういう単純なことではない。もし暴力などと言うことが表沙汰になれば、彼女自身の再婚にも関わることになる。」
確かに彼女に非はないが、それでも次の再婚のことを考えれば、円満な離婚の方が良い。まだ若く、乳母候補に挙げられるほど教養のある人物ならなおさら。
「えぇ、ですが彼女と話し合った結果、再婚もしたくないようなので、」
は少し眉を寄せて、困ったような顔をした。
「ですからわたしも女官が少ないですし、エミーリエを女官にしようかと。」
元々フォンデンブロー公国の宮廷にはほとんど女官がいなかった。というのも先代の公爵の時代には公爵とカール公子しか血筋がおらず、の母が嫁いでから長い間女性がいない状態で、女性につく女官はほとんどいなくなっていた。
とギルベルトが公国に来たところで今まで生活はすべてベルリンにあり、二人とも自分のことは自分でする。子供もいなかったので特別女官が必要なかったのだ。だが、子供が生まれれば状況も変わるだろう。
人出も必要になってくる。
今いるマリアンヌはあくまで王太子妃の女官で、彼女の好意で一時期とどまっているだけだ。ならば子供が増えることも視野に入れて、女官を増やさねばならない。
「そうだな。生活の手段も必要になるからな。」
すでにエミーリエの両親はなくなっており、夫の援助もなくなれば彼女はそもそも収入がない。ある程度の保証はされるとはいえ、暮らしていくにはあまりに厳しいだろう。女官になれば給与も出る。生活費も浮く。
「それにエミーリエは明るいお話が得意なのですよ。」
は朗らかに笑う。
彼女の周りが華やかになって、彼女が柔らかく笑うならば、ギルベルトにとっては何でも良いことだった。
願うように祈った