「待て!!!」




 誰かが大声で叫んだ。

 饅頭を持ったは一つに束ねた銀髪を揺らし、廊下を軽やかに走る。その後ろを年長の少年たちが全速力で追いかけた。は確かに同年代の子供たちに比べて走りが早いが、流石に年長の少年たちに敵うはずもない。

 すぐに捕まえられてしまうだろうと予想されたが、廊下の曲がり角を曲がった少年たちは悲鳴を上げた。




「ぎゃ!!!」




 一番先頭にいた少年が足を踏み出した途端、床板が外れ、落とし穴に落ちたのだ。




「げっ!止まれ!!」




 慌てて止まった少年が声を張り上げたがもう遅い。後ろからついてきていた別の少年が彼の背中を押し、穴に落ちていく。

 同じようにして結局止まりきれなかった数人が穴に落ち、は鈴を鳴らすような高い声を発して穴の向こう側で楽しそうに笑った。


 彼女は少年たちよりも遙かに体重が軽い。

 が上を走っても大丈夫だったろうが、体重の重い少年、それも数人が廊下を走れば、彼女が入れ替えた腐った板は外れてしまう。

 まだ幼いは、年長の少年たちの反応にご機嫌で、楽しそうに駆けていく。幼い、それも女のにはめられた少年たちは、詮をにらみつけたが穴の下からでは何も出来ない。

 彼女は少年たちに手を振って、廊下の近くにあった高い木に登った。上の方に行くと、見晴らしが良くて綺麗だ。 

 体重の軽いは誰よりも高い場所に行ける。風を受けて、は目を細めた。

 銀色の癖毛が風になびいて、頬を撫でる感触がくすぐったい。もうすぐそこまで夏は来ていて、日々熱さが増しているが、木の上はやはり涼しい。




「おい、」




 下から、低い声が響く。木の下ほど遠くはないので、足下に目を向けると、少年がいた。目つきが悪いが顔立ちの整った少年だ。




「下がうるさいから降りろ。」




 のすぐ下の木の幹で本を読んでいた彼は、不快そうに眉を寄せていた。

 気づいて下を見れば、いつの間にかを追いかけてきた少年が下で騒いでいる。木の下にはが木に登っているのに慌ててパニックを起こした兄の姿もあった。降りられなくなったとでも勘違いしてパニックを起こしているのだろう。


 相変わらず妹には甘いシスコンの兄だ。

 は両親の顔などろくすっぽ覚えていない。元は戦災孤児で、二人だけの兄妹だったから仕方ないのかもしれないが、兄はもともと構ってき過ぎで少し不満だったので放って置くことにした。は下の様子を一瞥したが、空を見上げて手に持っていた饅頭を食べはじめる。

 はっきり言って木下で騒いでいる奴らにもう興味がなかったし、自分のすぐ下にいる彼の言い分を聞く気もない。どうせ体重があり鈍くさい奴らは上ってこないだろう。

 遠く空を見上げれば、雲が太陽を隠そうとしていた。一雨来るかもしれない。




「嵐吹き 散りゆく桜 妙なるが、散らぬ野花の なんと美し」




嵐が吹いて散ってしまう桜も妙なるものだが、嵐でも散らない野の花はなんて美しいのだろう。

 逞しい自分を美徳だと、文句を言って来た彼に返す。

 松下村塾の主である松陽に拾われた孤児で、彼の紹介によって町奉行の坂田家に養子に出ている。孤児を養子にとる変わり者の養父は、と銀時を本当に自由に育てた。だからこそ、女のが学問や剣術を学ぶことが出来ているのだ。


 は自分を野の花と評したが、まさにそれは正しいと自分でも思う。


 それにはいくつも年の離れた兄よりも遙かに賢かった。兄の通う松下村塾の教師たちも認めており、そのために女であるが松下村塾への出入りを許されているのだ。

 女が学をつけるような時代ではなかったが、天人の襲来から徐々に時代は変わりつつある。放任主義の養父は兄に追従して剣術を習いたいと言えば自由にさせたし、勉学も松陽に言えばすぐに松下村塾へ来ることを許してくれた。

 大抵年上の男の子たちは、が難しいことを言うと理解できずにわかったふりをして逃げていくことが多いことを、は経験から知っている。

 しかし、彼は違った。




「嵐過ぎ 啼鳴を聞く 野花とて 冬待たずして 散るは儚き」




 嵐が過ぎて、鳥の鳴き声を聞く野の花も、冬を待たずに散る姿は儚い。しばし思案する様子を見せ、彼は呟くように歌を詠む。

 どうせおまえも冬には散るのだと、言い返され、は目を丸くした。松陽以外に、に歌を返せた人が、今までにいなかったのだ。それも、孟浩然の句を思わせる仕立てに、は素直に感嘆する。




「おまえ、名前は、」




 驚くに、彼は酷く楽しそうに尋ねた。先ほどまでの不機嫌そうな様子が嘘のようだ。




、」

「あぁ、銀時の妹か。」





 話に聞いたことがあるのか、彼は頷く。

 確かに、松下村塾で女が一人、それも幼いのでは有名だった。子どもで女のくせに賢く、上級生の講義にしょっちゅう出てきているのも彼女だけだ。




「俺は、晋助だ、」




 彼は短く自分の名前を名乗る。




「しんすけ?」

「高杉晋助、」




 は“高杉”という名字にはっとする。そういえば塾に有名なお金持ちの師弟がいると聞いたことがあった。その名字が確か高杉だ。確か兄と仲が悪かったはずで、よくあいつはいけ好かないと兄が言っていた。

 しかも今話している限り態度が酷くふてぶてしくて横柄で、がイメージする嫌な金持ちそのものだ。やっぱり金持ちだと言われれば納得出来る何かがあった。




「ふぅん。しんすけは、おぼっちゃんなの?」




 きょとんとして聞くと、不機嫌な顔をされた。




「それが、俺の人格となにか関係あるか?」




 凄まれて、あまりに鋭い瞳に、は息をのむ。だが、それを押し隠して反論した。




「えらそうだから。金持ちっぽいじゃん。」




 素直に思ったことを返したが、その答えを気に入ったのか、彼は鼻で笑っての手から饅頭を勝手にとった。


 はちらりと彼を横目で見る。これが兄だったら殴るだろうが、何となく彼なら嫌な気にならない。

 ふっと木の下を見ると、騒いでいた少年たちはもう諦めたらしく、まばらだ。兄だけが何かを叫んでいたが、遠くて言葉が聞き取れず、がなりたてているようにしか聞こえなかったので、は放置する。

 雨を避けるように鳥が群れをなして山に帰っていく。

 もうそろそろ家に入らないと、灰色の雲は徐々に空を覆ってきている。帰ったほうが良いのかもしれないが、この空気が心地よくて動くのがためらわれた。




「なぁ、明日暇か。」




 沈黙に身をゆだねていると、彼の方が先に喋り出した。




「ひまー。」




 どうせ幼いには家事の手伝いすら出来ないし、松下村塾に行って書庫にこもるか、道場で竹刀を振るかですることもない。

 明日は松下村塾の講義もないと言うからなおさらだ。





「隣街に行かねぇか。古本市が出る。」

「となりまち?でもはおうまにのれないよ。」




 は少し俯いた。

 隣街までかなりの距離がある。馬に乗らなければいけないが、は馬に乗れない。

 一人で馬に乗るには背が足りないので誰か大人に手伝ってもらわなければならないが、町奉行をしている養父は忙しいので練習につきあうことは出来ない。

 ましてやは馬に乗る練習を始めるには早すぎる年頃だ。そんなこと、晋助には承知だった。





「俺が乗れるから別に良いだろ。乗せてってやる。」

「ほんと?、このまちからでたことない。」

「なら、決まりだな。」





 彼は勝手に決めて、に言う。

 おそらく、街へ勝手に出て行けばふたりとも怒られるだろうが、ふたりとも別に気にならなかった。否、二人だからあえて気にしなかった。

 平凡な日々に退屈ばかりしていた少年と、賢いながらも幼い価値観しか持っていなかった小さな少女。


 まだ世界を知らなかった 忘れゆく 大切な 日々。







空眺めるただ安穏たる愛しき日々