道場に響くのは男たちのかけ声と独特の汗のにおい。
それをのんびりと聞きながらも道場の縁側に腰掛け、少女は読書をしていた。
一昔前の舶来の兵法の書物は女が読むには物騒で、ましてやもうすぐ年頃という彼女が読むような本ではないが、彼女は師から借りたこの本がお気に入りで、すでに内容もほとんど頭に入れていた。
退屈しのぎ。
今日、新たな舶来の本が師のところに届くから、それまでの中継ぎとして頭に入った本を読み返しながら、は気のない様子で視線をあげた。
相変わらず、道場では竹刀を振る男たちが、汗水を垂らして強くなる努力している。
とはいえ、この道場で師範代級の弟子は、少年たちを監視している長髪の桂小太郎ただひとりで、他の二人はいつの間にかどこかに行っていた。
ぼんやりと見ていると、小太郎と目が合う。
「なんだ、もまざるか。」
「んー。やだ。今日は遠慮するよ、ヅラ。」
「ヅラじゃない、桂だ。」
いつも通りのやりとりをして、は笑う。
「また、あの二人はさぼり?」
「仕方ないだろう。おまえの兄貴はまたどっかで寝てるんだろうが、高杉と俺は折り合いが悪いからな。俺がいる時は来ない気がする。」
小太郎はため息をついて腕組みをする。
小太郎との兄・銀時、有名な藩士の息子である晋助はともにこの道場でも師範代級の手練れだが、剣に挑む態度は全く異なる。
銀時はともかく、晋助の方は勉強もよくできるので一目置かれており、しかも有名な半紙の息子である。そのためあまり厳しく注意されることもなかった。
それに比べて小太郎は先生の言うこともよく聞き、勉強も剣術も出来る優等生タイプなので、いまいち晋助とはそりが合わないようだ。
「ま、わたしもヅラ好きじゃないけどさ、誰が晋助と気があうの。誰もあわないでしょ。」
はあっさりと小太郎に返した。根本的に晋助は誰とも気のあわない、つるまない一匹狼だ。そのくせ勝手にまわりが信奉しているだけ。小太郎と銀時はたまにつるんでいるが、晋助は銀時ともそれ程仲が良くなかった。
所謂お互いに腐れ縁という奴だ。
「も道場で模擬戦でもせんか、俺の相手がいない。」
「無理だよ。小太郎には勝てないもん。」
小太郎の言葉に、は口をとがらせてすねたように言う。
は兄について歩き、剣術も女にしてはかなりの腕前でそんじゃそこらの男には負けないが、まだ小太郎と晋助には勝てた試しがなかった。
兄貴の銀時はろくに相手をしてくれない。
それは仕方ないと言えば仕方のないことだ。がいくら強いといっても女と男で、彼らとはいくつも年が違う。ましてや銀時にとっては可愛い妹。
普通に考えて11歳のとれっきとした大人とでは力の差は歴然なわけで敵うわけがない。
それでもこの道場内にに負けるやつがたくさんいるのは、その常識にすら追いつけない、努力しない雑魚が多いと言うことだ。
「何だよ、怖いのか。」
小太郎の後ろにいた、道場でと同じくらいの年頃の少年が嘲るように言う。
「はっ、弱虫だねぇ。」
「やめろ。弘敏、」
小太郎が止めに入ったが、弘敏はやめる気がないようで、一歩前に出てに近づく。
は興味もないので明後日の方向を見たまま振り向こうとはしない。才能のない男の醜い嫉妬などにかまっている暇はない。
我関せずの態度をとるに弘敏はいらだつ。どうしても同年代、しかも女に負けるのが弘敏には許せないらしく、勉学でも何でも張り合っていた。
「おまえの兄貴も負けんのが怖くていっつも来てねぇんじゃねぇのか。兄妹揃って弱虫だねぇ。」
「馬鹿っ!おまえっ・・・」
小太郎が制止しようとするが、弘敏は最後まで言い切る。の肩がぴくりと動いて、ゆっくりと弘敏の方を見る。
その漆黒の瞳には、苛烈な怒りがあった。
弘敏はの気迫に思わず後ずさる。小太郎が持っていた竹刀を一瞬にして取り上げたは、あっという間に弘敏の横っ面を竹刀で殴り飛ばす。
「がやったぞ!!」
道場の子供たちが騒ぎ出し、喧嘩に加勢して、それぞれ弘敏やに詰め寄る。子供はちゃんばらや献花が大好きだ。小太郎が止める暇もなく、後はいつの間にか乱闘になっていた。
右頬に青痣、左腕に二カ所打ち身、手首は捻挫、足には擦り傷と青痣。満身創痍、とまではいかないが、喧嘩が終わったは傷だらけだった。
元は彼女と弘敏だけの喧嘩は周りの観客をも巻き込んだ大乱闘に発展し、結果的には、数では不利だった派がの指揮のもと勝利を収めた。
「うーん。逞しいというか・・・・なんというか。女の子も時代ですかね。」
松下村塾の師である松陽はのんきな呟きと共に、困ったような顔でを見る。
が松下村塾や道場に来ている子どもたちとちゃんばらや小競り合いを繰り広げるのはよくある事で、特に同い年の弘敏とは仲が悪かった。弘敏は文武両道の優等生だが、に勝てないのがどうしても悔しいらしく突っかかる。
それに周りのものを巻き込んで乱闘に発展するということは、よくある話だった。
「大丈夫なのか、なぁ・・・、」
の兄、銀時が慌てておどおどする中、仏頂面の晋助が黙っての傷に薬を塗って手当をしていた。晋助はを鋭い目でにらんでいたが、はまったく気づかず、にこっと笑う。
「今回も勝った!」
自慢げに手を挙げて主張すると、晋助が間髪入れずにの頭を思い切り平手で叩いた。
「何するの!!」
「おまえの頭は紙切れのように飛ぶんじゃねぇかと思ってな。風圧で。。」
「そんな紙みたいに軽くないもん。少なくともお兄よりかは詰まってる、って痛い!晋助痛い!!」
「このくらい良い薬だろ。いい年こいた娘がとっくみあいの喧嘩するかぁ?!普通!?」
痛みに叫ぶに遠慮なく晋助はごしごしと乱暴に薬を塗りつける。
子供と言うにはもう微妙な年頃だ。
銀色の癖毛を赤の髪紐で一つに結い上げ、普通の町娘が着る常着ではなく、動きやすいように男のような袴姿のは、街でも有名なお転婆だった。
女性として背は普通だが、背筋を伸ばしているせいか幾分か高く見え美しいし、芸事だけでなく学にも秀で、剣術にも覚えがある。
の両親は早くに亡くなり、松陽に銀時と共に拾われたどこの馬の骨とも知れない子供だが、現在は町奉行の坂田家の養女になっている。年頃ともなれば嫁ぎ先の話の一つや二つ出ているはずだ。
なのに、彼女はまだ、精神的には年相応、子供だった。
「晋助痛いってば!!それに青痣なんて薬塗っても塗らなくたってかわらないよ。」
「かわる、ずっと青いままだったらどうする。それでなくとも少ない嫁のもらい手がますます少なくなるぞ。」
「別に嫁に行かないから良いの。」
「おや、は嫁にいかないんですか?」
二人の言い争いに、場違いなほど穏やかな声音で、不思議そうに松陽が尋ねる。
「うん。だってお嫁に行ったらお兄が一人になっちゃうでしょ。」
「ーーーー!!愛してるぞ!!」
の言葉に、銀時が後ろから思いっきり抱きつく。と銀時は仲の良い兄妹だ。
幼い頃から苦労を共にしており、特に両親が死んでから浮浪者のように暮らしていたため、絆は強い。
それに異存はないが、価値観は彼女の勉学の才に対して非常に幼い。
「別に嫁に行っても銀時に会えなくなるわけではないですよ。」
松陽は穏やかに言って、を宥める。
「そうなの?じゃあ行こうかな。」
「ちゃーん!そんな簡単に言うなよぉ〜〜〜〜!!」
あっさり意見を転換したの返答に銀時はつっこむ。
「ま、心配しなくてもこんなお転婆、もらい手なんてねぇだろ。」
「晋助は黙れ、意地悪め!」
は緋色の着物の長い袖を返して立ち上がる。
「まぁ、の義父上たちは逆に縁談が多くて困っているようですけど。」
松陽はニコニコと笑って二人の様子を見守る。
元もと孤児だった、銀時の後見人となり、身元を保証して坂田家の養子に入らせてくれたのは松陽だ。嫁ぎ先の話も当然松陽には届いている。
「は?」
なにやらもの凄く不満そうに晋助は松陽を窺うように見て、薬箱のふたを閉める。
「今は難しいご時世。勉学、剣術が出来る逞しい嫁を望む家も多いんですよ。」
晋助の使った薬箱をしまいながら、松陽は少し寂しそうな顔をした。
幕府の支配体制は、天人の襲来で揺らぎつつある。
天人にすべてを侵略されるのではないかという話もまことしやかに囁かれており、それが杞憂ではすまない時代になりつつあった。攘夷戦争が日々激化しており、それが天人相手ではなくきちんとした態度を表さない幕府討伐への気運になるのも時間の問題だった。
もう現実を知る年頃の晋助や銀時は、師の言葉に俯く。
「でも、難しいって言っても、戦略は通じるもの。お空をどんなお船がとんでもそれの有効的な落としかたはあるでしょ?」
はきょとんとした表情で松陽を見上げた。
「みんなで協力して戦い方を考えたら、勝てるじゃない。」
恐れ知らずの彼女の意見に、松陽は困ったような顔をしてそっとの頭を撫でる。
そのように簡単なものでないことを、年上の晋助や銀時は知るが、賢いと言ってもそれは兵法や戦略、文芸分野でのことで、はまだ幼く、実際の政治には極めて疎かった。
「そうですね。は賢いからできるかもしれませんね。」
松陽は少し困ったような顔をした。の言うことを国の全員が聞き、戦うならば、勝てるかもしれない。軍事的にそれは可能だ。
彼女は松下村塾では誰もが認める屈指の戦略家であり、天才と言える程の才覚がある。だからこそ、今回も人数こそ少なかったのに、を大将にした集団が勝利した。彼女はありとあらゆることに優れている。
だが、世界は彼女の言うとおりには動かない。そして戦略だけではどうしようも無いものがある。
「誰かにとっては良いことでも、誰かにとっては悪いことかもしれない。その逆だってあるんですよ。」
「侵略が、誰かにとって良いことなの?」
「今苦しい思いをしていて、天人たちと手を組んだ人たちには、良いことでしょう?」
松陽はよくわからないのか不満げなの頭を撫でながら、諭すように言う。その言葉の意味が、まだ幼いにはちっともわからなかった。
夢と現実の間の子たち