縁談の話が本格化すると、小太郎の実家である桂家が引く形になった。なんと言っても高杉家は名門だ。元々が小太郎の幼なじみで、仲が良いからというそれだけでを娶る気だったので、引き際も心得たものだった。

 とはいえの義父である右衛門は高杉家との縁談には慎重で、何かと理由をつけて話し合いを伸ばしていた。





「なんか、言うことねぇのかよ。」





 晋助は隣でだらしなく寝そべって本を読んでいるに尋ねる。

 松下村塾の廊下は温かい光が差し込んでいて心地が良い。板張りの廊下に大量の本を積み上げて幸せそうに茶と茶菓子を盆にのせて寛いでいるは、女と言うよりも隠居した老人のようだ。

 今日は休日で、松下村塾で本を読もうなんて珍妙な奴はと晋助しかおらず、静かだった。





「言うことって?」





 は顔を上げて、心から不思議そうに尋ねる。日頃からこんな感じで賢いくせに馬鹿素直に問いかけてくるが、それが酷くいらだたしかった。




「おまえ、縁談の話、聞いたんだろ?」





 元々別に小太郎とに恋愛的な関係がなかったため、当初は知り合い同士の安易な縁談と理解していたが、晋助がに本気になって縁談に口を差し挟んで破談にしたとなれば話は別だ。松下村塾ではその話題で持ちきりで、誰もが根掘り葉掘り聞きたがる。

 なのに、本格的な話になっても、本人のが何かを晋助に聞くことは無かった。




「あぁ、そうだよ。面倒臭い事になったじゃないか。」




 は思い出したというように晋助を見上げて、言う。相変わらず寝そべったまま足をぱたぱたさせて、頬を膨らます。




「あぁ?」




 意味が分からないあんまりな返答に、晋助は思わず眉を顰めて見下ろす。




「おまえ、ヅラと、結婚したいのかよ。」

「え?別に?」

「だったら、」





 俺でも良いだろうが、と言いたいその言葉を、口の中で溶かす。

 昔から、晋助はいくつも年の離れた幼なじみであるが好きだった。彼女のシスコンの兄、銀時とは全くそりは合わないが、妹のは天然パーマの銀髪である事以外はあまり似ていない。

 無邪気で馬鹿で、そのくせ賢くてこちらの話にさらりとついてくるが、気づいた時には好きだった。

 だって他松下村塾の仲間や幼なじみたちの中では、晋助と一番仲が良く、過ごす時間も長いはずだ。恋愛感情を持っているかはともかく、少なくとも嫌ではないはずだ。




「でも結婚したら、相手のうちで暮らすんでしょ?」





 は丸くて黒い瞳を、晋助に向ける。





「ヅラはつまんないけど、ヅラのお姉ちゃん優しいから、きっとに優しくしてくれるよ。」





 自身はあまり晋助との結婚を正直なところ願っていない。理由は簡単で、結婚して相手の家で暮らすようになると仮定すると、晋助の家は礼儀作法に厳しく、挙げ句遊びに行ったとしても冷ややかで、疲れるからだ。対して小太郎の実家の桂家は両親がおらず姉だけで、しかも姉二人は優しく、とても過ごしやすい



「はぁ?姉と結婚するんじゃねぇだろ。おまえ、ヅラか俺とかって話だ。」





 晋助はの言っている意味が分からずますます眉間に皺を寄せた。

 普通に考えて結婚は本人たちの問題で、確かに親同士が最終的には決めるが、それでも好き嫌いぐらいは許されるはずだ。そしてその好き嫌いの価値は本人たちに委ねられる。

 晋助が聞いているのはの心だ。





「おまえは、どう思うんだよ。」





 晋助はぐっと拳を握りしめ、にはっきりと尋ねた。

 晋助とてまだには早い話だと分かっている。だがこのまま小太郎とが婚約してしまうことを考えればどうしても納得出来なかった。

 だからこそ、恥を忍んで両親に縁談を坂田家に持ち込んでくれと頭を下げたのだ。両親とてただの町奉行である坂田の、しかも養女であるを娶ることを認めているわけではない。だが、何も望まない、興味も抱かない晋助の初めての願いだからこそかなえてくれた。

 だが当のにはその覚悟も、思いも全くと言って良いほど分からない。





「でも結婚したら相手のおうちで暮らすんでしょ?」





 小首を傾げて本をぱらぱらとわざとめくる。





「そりゃそうだが。」

「だったらヅラんちが良いよ。晋助の家、お母さん怖いし。」





 にとって結婚相手の基準ははどうやら相手の家で暮らす時に心地が良いかどうからしい。それは晋助とともにいる事が出来ると言う事実が、家を上回らないと言うことだ。

 の価値観は幼い故だったが、それがどうしても晋助には許せなかった。





「おまえ、だから馬鹿なんだよ。」





 晋助は舌打ちをして、苛立ちもそのままに言葉を吐き出す。





「え?」





 はやはり不思議そうに黒い瞳で丸く晋助を映している。

 もうすぐ来るであろう夏の熱い風が、二人の間を吹き抜け、互いの髪を揺らしている。の長い銀色の髪が癖をひこひこと出したまま流れていく。

 明るい銀色の髪と晋助の漆黒の髪は全く混じり合わない。

 うつぶせに寝転がっていたの肩をぐっと掴み、晋助は彼女を板張りの床に仰向けに押し倒し、上にまたがる。





「う、い、痛っ、」





 勢いがあったせいか頭を打ったは自分の後頭部を痛そうに押さえている。





「なにすんの!痛いじゃん!頭打ったし!!」

「色気もへったくれもねぇ奴だな。おい。」





 晋助は本気でこちらを睨み付けてくる彼女に呆れと怒りの入り交じった目を向け、そっと彼女の頬を手で撫でる。

 くすぐったいその感触には不快そうに身を捩る。




「どいてよ。重たい、邪魔。」

「…」




 当たり前のように言うに晋助は大きなため息をついた。

 この状況で本当に何も分かっていない、理解できないは年齢の割にあまりに幼い。兄である銀時とじゃれ合って育ってきているせいか、男に抱きしめられても、スキンシップだと持っているのかもしれない。今のこの状況も何も思っていないのだろう。




「重たいっ、」




 乗っているのは晋助の下半身だけだが、それでも重たいのか嫌そうにぼやく。晋助はぐっとの手を板張りの床に押さえつけた。




「……?」





 流石に不穏な空気を感じたのか、はふと黙って不安そうに目尻を下げ、晋助を見上げる。その漆黒の瞳に吸い寄せられるように、晋助はの唇に自分のそれを重ねた。





「んぅ、むっ、」




 の目が丸く見開かれ、すぐにきつく眉間に皺が寄るほど目を閉じる。

 それを横目で確認して、晋助はの頬を優しく撫でながら、口付けの合間に彼女の唇を軽く人差し指で押して開いた。舌を滑り込ませると、押さえている細い手に力がこもる。

 それに気づいたが、晋助はそっと片方の手での袴の下に隠されている素足に触れる。途端にぴくんと足がはねた。

 晋助が女を相手にしたのは初めてではない。だが夢見た好きな女の唇は僅かに甘い気がした。だが次の瞬間痛みとじんわりとした気持ち悪い感触が広がる。




「こんのじゃじゃ馬っ」




 晋助は押さえていたの手を離し、口元を袖で拭う。どうやら舌を噛まれたらしい。





「な、何すんのっ!」





 僅かに息を荒げ、涙目になりながらもは勢いのままに晋助に叫ぶがその声は泣いているようだった。




「あぁ?夫婦になったらこういうことするんだよ、」




 晋助は冷たくを見下ろす。

 結婚はが考えているように相手の家で暮らすだけの物では無い。夫婦になればこういう行為だって当たり前のようにするのだ。

 だからこそ、好きな相手を選びたいと思うのだ。




「意味わかんない!」

「わかってねぇのはてめぇだけだ。」

「なんで、こんなことするの?!」

「何でじゃねぇよ。こういうことを普通にするんだよ。夫婦だと。何も分かってないくせに、わかったみたいに話すんじゃねぇ!」




 晋助が僅かに声を荒げると、は目をまん丸にしてはたと言葉を止めて瞳を瞬いた。その仕草は困惑して事態を飲み込もうとしているようだった。





「俺とこういうことすんのか、ヅラとすんのかって聞かれてんだよ。」





 酷なのかもしれない。でも現実的に考えて、が直面している選択というのはそういうものだ。は子どもだから、まだ分からないのかも知れない。だが、縁談が出た限りは理解すべき事だ。

 いつまでも子どもではいられない。




「結婚したら、お互いにそういう関係になる。俺たちの関係だって、変わるんだよ。」




 大人しくなって狼狽えるが可哀想になり、晋助は彼女の上からどいて、彼女の腕を引っ張り、身を起こさせる。はまだ答えが出せないのか、困惑しきった目で晋助を見ていた。

 その視線が痛くて晋助は目をそらし、自分がしたことの罪悪感も手伝って、彼女を慰めるようにぽんぽんとの頭を撫でる。





「…そ、そんな、の。」






 は絞り出すように珍しくしおらしく声を震わせた。だが、どこまでも彼女は彼女だった。




「あぁ?」

「か、変わるのもやだし、ど、どっちもやだ!」

「はぁ!?」




 予想だにしなかった答えに晋助はひくりと唇の端を震わせる。





「わ、わたし、結婚しない!」

「あぁ?んなこと許される状況じゃねぇってわかってんだろ?!」





 高杉家は大きな家で、坂田家はただの町奉行だ。状況的に断れない縁談だからこそ、坂田家も渋りに渋っているのだ。

 そんなの我が儘が許されるはずがない。





「しないー!しないったら、しない!変わりたくない!したくない!いーーーやーーーーー!」





 だが幼く、政略的な話など全く分からないは未成年の主張顔負けの大声で、叫ぶ。それが例え通らないものだったとしても、通らない理由がまだ分からない。





「何ごとですか?」




 流石に大声で怒鳴り合っていると晋助の声を聞いて松陽が驚いたように廊下の向こうからやってくる。





「詮子!わたしお嫁に行かない!」





 は縋り付くように松陽の元に駆け寄って言う。





「えっと…どうしたんですか?」

「絶対絶対お嫁になんて行かない!!」

「んなこと許されるわけねぇだろ!」

「行かない!知らない!」

「うちに勝てんならやってみろや!」





 松陽を真ん中に怒鳴り合う晋助とに松陽はため息をつくしかなかった。









独りよがりの片思い