がやっと立ち直り、松下村塾に行く頃には、既にと晋助の結婚は本決まりになっていた。




「…」





 松陽ときちんと話しはしたし、彼の話も納得したが、やはりは結婚をしたいとは思えなかったし、その変化が良い変化に思えなかった。

 義父の右衛門も酷く心配そうな顔で、口では大丈夫だと言いながら、来週の顔合わせをに伝えてきた。も不安で、兄も行くと言っているが、それでもあまり出たくなかった。

 正式な結婚は14歳になってから、あと二年は坂田の家に住み、月に数度高杉の家に行くということになったようだ。それも不安だが、結婚して高杉の家に住む不安を考えればまだましだった。





「全然面白くない。」





 は開いていた本を閉じてぽつりと呟く。

 廊下から見える空はもう赤く染まっている。既に松下村塾の生徒のほとんどが帰っており、もそろそろ帰らなければ、家に着くまでに辺りが暗くなってしまうだろう。でも、は中々動く気にはなれず、兄が先に帰ったというのにまだ本を読んでいた。

 大きな木は昔、晋助と一緒にのぼったもので、がここに来るずっと前から立ち続けているのだろう。そんな風に皆一緒にいることが出来れば良いのにと思う。

 いつもなら本を読めば心が弾むのに、ちっとも内容が心の中に入ってこない。




「何やってんだ。銀時はもう帰ったぞ。」




 廊下の向こうから、晋助が歩いて来てに言う。





「…」




 はこの間のことを思い出し、またされた事への恥ずかしさや怒りを悟られたくなくて、晋助をじっと睨む。彼は黙ったまま、の隣に腰を下ろした。

 いつもなら毎日のようにこうして二人で本を読みながら過ごしていたのに、随分と久々だ。はちっとも松下村塾に来なくなっていたし、晋助も自分のやったことに対する恥じらいや罪悪感もあって何も言えなかった。

 当たり前の喧嘩すらも口から出てこない。は意味もなくぺらぺらと何度も本をめくる。




「今日も暮れ、明日も過ぎなば、いかがせむ。時のまをだに、耐えぬ心に。」





 晋助は誘われるようにその和歌を口にする。それは新造物語の一句だった。

 今日も暮れて、明日も過ぎたとするなら、どうしたら良いのだろう。ほんの少しの間でさえ、貴方に会えないと耐えられない気持ちなのに。

 晋助は自分の恋心を自覚している。を想っている。だからこそ会えない時間も苦しく思っていたし、直接的に避けられれば傷つきもする。


 は松下村塾に行かず、会わなかったことを責められたような気がして俯く。

 だって、晋助と話せないと寂しいし、楽しみが減る。それは恋愛としての意味ではないが、一緒にいて楽しい。




「花の色は、昔ながらに見し人の、心のみこそ、うつろひにけれ。」






 は思わずそう返していた。

 元良親王の和歌で、花の色は昔のままだというのに、その花を見た人の心は変わってしまった、と言う意味だ。

 昔はお互いにただ楽しいから、一緒の時間を過ごしていた。

 でもその感情はいつの間にか変わってしまった。晋助はを恋愛感情を持つが故に別の関係を求めようとしている。は今まで通り、ただ大切に思っているだけだ。楽しいから一緒にいる。同じものを見つめていたはずなのに、感情は異なっている。




「五月雨に、物思ひをればほととぎす、夜深く鳴きて、いづちゆくらむ、」





 五月雨の中のホトトギスがどこに行くのか分からないように、自身も自分がどこに行くのか、行かなければならないのかわからない。そして分からないからこそ不安だ。

 皆が大人になっていくというのに、だけ取り残されている。まだ、大人には慣れない。




「…そんなに嫌か?」





 晋助はいつもはつり目だというのに、目じりを下げる。はそんな晋助を見た途端、はたっと凍り付いてしまった。





「…なんだよ。」





 晋助は予想していなかったの態度に、思わず眉を寄せる。





「…嫌なんじゃないよ。晋助と一緒にいるのは、お兄といるより楽しい。」





 はおずおずと口にした。




「高杉の家は、ぎすぎすしてて嫌だからあんまりそこで暮らしたくないけど、晋助との縁談が嫌なわけじゃない。このまま、一緒にいられたら、嬉しいよ。」




 恋愛はまったくわからないが、一緒にいるのが楽しいという気持ちに嘘はない。ずっと一緒にいられれば幸せなんだろう。




「だから、そんな顔しないで、欲しい…な。」




 は目を伏せて、語尾を濁す。

 晋助が彼女の表情を窺うと、怒られた子どものようにずっと彼女の方が落ち込んだ顔をしていた。自分は一体どんな顔をしていたのだろうと晋助は思わず真剣に考えてしまった。男は結婚しても実家に住まうことが多い。なのに女は男よりも遙かに若く結婚するというのに、相手の家で暮らすことになる。

 ましてやは晋助よりずっと年下だ。晋助よりも不安になるのは当然なのかもしれない。





「…悪かったな。」





 晋助はの銀色の髪をぐしゃぐしゃと撫でてやる。

 あんなことをされて、だって戸惑っただろう。兄しかいないから、恋愛ごとに疎くても当たり前だ。

 なのに晋助に口づけられて驚いたことだろうと冷静に考えれば、晋助だって分かる。

 年下でまだ子どもの彼女を思いやれなかったのは、晋助が小太郎との縁談の話を聞いて、冷静さを欠いたからだ。彼女に悪気がないことも、本当に何も分かっていないことも、いつものを見ていたら分かることだ。




「…うん。わたしも酷いこと言って、ごめん。」



 しおらしく謝るは、やはり可愛い。いつものだ。





「おまえが餓鬼なのは今に始まった事じゃねぇからな。」

「酷い。」

「俺より年下だから、当たり前だろ。」





 晋助はいつもの憎まれ口を叩いて、の頭を軽くこづいた。

 どうせ焦っても仕方がない。は本当に分かっていないし、悪気はないのだ。だからこそ、晋助も今は許そうと思う。

 きっとまた晋助はの子どもっぽいところに苛々するのだと思う。

 でも今は婚約が正式に成立し、が少なくとも自分のものになったという事実で満足しよう。もしかしたら後2年の間に、も成長するかも知れない。こうご期待だ。




「ふん、だ。もしかしたら突然わたしも大きくなって、晋助より逞しくなるかも知れないじゃない。」

「そりゃ気色悪ぃな。」

「何それ。酷くない?」

「おまえ弱いくせにふざけたこと言ってるんじゃねぇ。」





 晋助はいつも通りの頭を軽くこづいて、鼻で笑った。

 は確かに気が強いが、それは自分の弱さを隠すためでもある。は生まれたときから兄がいたせいか、寂しがりで結構心配性だ。彼女の学力の高さも知らないことが心配だと言う部分もある。





「うるさいな。今度の松下村塾のテストは絶対勝つもん。」





 はそっぽを向いて、自分の持っていた本を開く。





「なんだ、それ。」

「天人の本なんだって。沙翁だって。」

「ふぅん。おまえこんなのよく読めるな。」




 天人の言葉で書かれている本を読むに晋助は心底感心する。攘夷戦争は激化するばかりで、決して良い状況ではない。だがの学びにはまったく関係ないらしい。




「うん。松陽先生が取り寄せてくれたの。」




 は嬉しそうに笑う。

 年の功で知識の幅は晋助の方が広いが、記憶力はの方が遙かに良い。松陽は女でありながら非常に賢いの能力を随分と買っており、だからこそ女は学はいらないという人間も多いこのご時世にを松下村塾で教えているのだ。

 そして同時にのその能力が彼女を傷つけないかと危惧している。





「どこにいったとしても変わりゃしねぇよ。」





 どこにたどり着くのかなど誰にも分からない。は愚か、晋助にだって、松陽にだって分かりっこない。

 でもただ相手を大切に思うこの気持ちさえ変わらなければ離れずにいられると、そう思っていた。