利川は小さく息を吐いて、残念そうに目尻を下げた。



「そうっすか、もうこの町を出るんですね。」




 鬼兵隊にいる頃から、彼は随分と人なつっこい人物で、周りを巻き込んで馬鹿騒ぎをしていたと思う。の夫はうるさいことがあまり好きではなかったので彼を傍に寄せ付けなかったが、他の面々と馬鹿騒ぎをしているのを見たことはよくあった。

 彼が変わったのは多分、彼の弟が亡くなったくらいからだろう。が立てた陽動作戦の囮になって、死んだ。



「うん。ここには長居しすぎたから。」

「次はどこに?」

「まだ聞いていないけど、今日あたりかな。」



 は腰の刀に手を当てて、息を吐いた。

 紅梅の着物に、濃蘇芳の襟。緑の袴。上は“つぼみ梅”と呼ばれる古来からの色あわせだ。腰の刀に手を当てて、小さな笑みを浮かべる。昔の着物の中には処刑された義父に買ってもらったものも含まれていたが、それに袖を通すことはどうしても出来なかった。

 これに袖を通したのは、本当に一年以上ぶりだ。

 気分まで明るくなるのは、もう覚悟が決まっているからだろう。もっと早く、こうして覚悟を決め、戦うべきだったのだ。本当は。



「皆さんはどうなさってるんですか?」

「さぁ、どうしてるんだろうね。」



 夫をはじめ、戦後仲間たちがどうなったのか、はほとんど知らない。唯一知っているのは攘夷戦争からはやめに足を洗い、宇宙に行って商売をしている坂本だけだ。彼は順調のようで、一番にを見つけ出したのも彼だ。

 とはいえ、さしのべてくれると言っていたその手を、一度もとったことはなかった。

 幼い頃から兄が、幼馴染みが、そして夫が、をいつも守ってくれていた。たくさんの人に助けられて、は今ここに立っている。それが彼らの重荷になり、死地に向かわせていたとわかったのは、多くの仲間をなくした後だった。

 だから、東が出来たとき、誰にも頼らず、ひとりで逃げだし、ひとりで子供を産んだ。もう誰の重荷にもなりたくなかった。大切な人たちに、死んで欲しくなかった。

 でも多分、本当は、は怖かっただけだったんだ。



「言い出す勇気も、探す勇気もなかったんだよ。逃げたわたしが、会うべきじゃないよ。」



 は刀の鐔を親指で押し上げ、ふっと息を吐く。

 腰にある刀の一振りは、松陽から与えられた物だ。彼を助けたいが一心にたちはこの刀を振るってきた。ということになっているが、はただ単に、兄や夫と、仲間たちと離れたくなかっただけだ。松下村塾で一緒だった仲間たちのほとんどが、戦争に参加したから。

 その後片付けすら、はせずに後ろを向いて逃げ出してしまった。



「そっか、その通りだな。」



 利川はいつも通り屈託なく笑って、軽く首を傾げて見せる。は刀の束に手を当てて、彼に笑った。



「どうして、松陽先生を売ったの。」




 先ほどとは打って変わって低い声で問う。彼は驚いたように目を見開きを凝視したが、納得したように大きく頷いた。




「なんだ、知ってたのかよ。」




 利川の声があっという間に軽薄なものに変わり、嘲笑ともとれる歪な笑みを口元に浮かべる。




「うん。知ってた。」




 松陽の逮捕は国家転覆罪だったが、それは疑いのみだった。しかし将軍・定々の要求と松下村塾の生徒でもあった彼の漏らした、証拠とは言えない、ねつ造された証言が原因で、処刑にまで発展した。

 攘夷戦争の際もずっと鬼兵隊で戦っていた彼は、幕府側と和議を結んだ天人に情報を漏らし続けていたのだ。夫が気づいていたかどうかに関しては知らないが、は既に随分前から彼が内通者であることに気づいており、それを常に利用してきた。

 しかしまさか、松陽の処刑にも関わっていたとは、彼の処刑の前に戦争を抜けたが知るはずもなく、それを知ったのはたまたま流れ者の町で出会った浪人が教えてくれたからだった。




「おまえらについてたら、命いくつあっても足りねぇ。」




 利川はぐっと拳を握りしめて、呟いた。彼の弟は松陽を助けるために死んだ。彼はその意味を、見つめ直したのかも知れない。



「それは否定しないけどね。」



 松陽を助けるために、かつての松下村塾の仲間の多くが攘夷戦争に名乗りを上げ、立ち上がった。しかしその多くは既になくなっている。たったひとりのために、多くの仲間が、子供たちが犠牲になることを、松陽はよしとしただろうか。

 は彼の判断を、責めようとは思えない。だが、の中では肯定できない。



「おまえが高杉か。」




 ふと声をかけられ、顔を上げてみると、右側の家の屋根の上に、豚の顔をした天人が右手に槍を持って立っていた。囲まれているのはわかっていたが、予想していたよりもずっと数が多い。




「白い悪魔と言われた女か、ただの嬢ちゃんじゃねぇか。」



 天人はケラケラとを嘲るように笑う。



「ふぅん。今度はわたしを売ったの。」



 は何の感慨もなく、鼻で笑った。



「あぁ、町の人間全員な。」




 利川はにやりと笑って、手をひらひらさせた。周りの家を見れば、きちんと雨戸まで閉めていて、知らない振りを通すつもりのようだ。




「おまえを引き渡せば、それで俺たちを許してくれるってよ。」

「これだから短絡的な考えの人は嫌だな。そんなこと、信じてるの?」




 は思わず彼らの浅はかな考えに笑ってしまった。

 天人にを引き渡したとしても、全員殺される可能性は高い。この町にいる男のほとんどが攘夷志士か、やくざか、何らかの罪を犯しているはずだ。しょっぴかれて適当な罪状を決めることは、難しくない人間ばかり。

 それでも利川は自分が今、死なずにすむというのならば、の命など安いと思ったのだ。

 町の人間も同じだったようで、を天人に引き渡すことにためらいを覚えなかったのだろう。今は誰もが自分のことで手一杯。誰かを助けることなど出来はしない。だからはそのことについて、彼らを責める気はなかった。

 見返りを求めたことなどない。自分で勝手にしたことだから。



「ちょっと長くいすぎたってことかな。」



 神威を運良くというか、悪くと言うか拾ってしまったため、長居してしまった。だが、代わりには手をさしのべてくれると言っていた昔なじみに連絡を取ることにしたし、に何かあったとしても彼は戦友二人の息子である東を粗雑に扱ったりしないだろう。

 には息子に対してだけは責任がある。とか言いつつ彼を理由にして、攘夷戦争に背を向けたは、結局で言うと責任なんて果たしていなかったのかも知れない。

 だからここからは、が過去と決別するための、本当に姿勢を正して生きるための戦いだ。



「攘夷戦争を通じて三つわかったことがあるんだ。」



 は後ずさる利川を見て、大きく息を吸い込み、自分の、いや、松陽の刀に手をかける。腰をかがめ、視界に入る全てのもののすべての動きに意識を集中させる。感覚が研ぎ澄まされる、全てを忘れ、目の前の敵の首を取りに行くことだけを求める、この感覚が、は嫌いではない。



「一つは、このままじゃ地球は天人に食い尽くされちゃうってこと。」




 剣の届かないところまで利川が離れたところで、天人はの背中にめがけて大きな矢を放った。そちらを振り返ることなく、は体を後ろ向きに反らすようにして飛んでよけ、そのまま後ろにいた天人へと襲いかかる。

 首を落とされた天人は呆然とした表情のまま地に落ち、体が次の瞬間に地面へとたたきつけられた。は次にその隣にいた豚の天人へと切りつける。緑色の血がぱっと広がった。

 天人の全てが悪いとは言わない。神威を見て、色々な天人がいるのだとわかった。


 だが、多くの天人が豊かな資源を狙っており、幕府が彼らに従うことを決めた今、天人を排そうとする攘夷志士は、天人にとって邪魔な存在だ。幕府もまた、天人に食われていく地球の後押しをしているに過ぎない。

 戦って抵抗して天人に殺されても、迎合し、命を長らえても、結局は地球の終わりが早いか、遅いかだけだろう。



「二つ目は、一番の敵は、同じ人間の欲だってこと。」



 利川のように、天人の言葉に、そして天人がもたらす一部の利益のために、協力する人間が、二つ目の敵だ。

 結果的に天人と戦っていた攘夷志士は同じ人間の、そして侍の作り出した幕府によって殲滅されようとしている。それは天人のせいでも何でもなく、天人の甘言にだまされた、人間の欲そのもの。

 まさにそれこそが、松陽を殺したのだ。


「斬りかかれ!!」



 豚の形をした天人が、大きな斧を振り上げる。だが、振り下ろすよりも早く、は身をかがめ、その巨体に不釣り合いな足を切り裂く。重い体がバランスを崩したと同時に、刀で左から右に駆けて大きく心臓に達するように切り裂く。




「ぐっ、ああああああああ!!」




 豚が後ろ向きに倒れる。豚の巨体の影という死角を利用して、次の天人に斬りかかった。

 どうやら幕府は攘夷志士を捕らえるために随分と多くの天人を雇っているらしい。攘夷志士に賞金を賭けたのは知っていたが、こんな辺境の町まで、こんな大人数で来るとは流石に思わなかった。挙げ句の果てに神威の怪我の具合を見ながらずるずるここにいた。

 そう、いつもは甘い。



「三つ目は、自分がどこまでも馬鹿だってことだよ。」




 今も昔も変わりなく、は大馬鹿者だ。

 先生を助けたいという気持ちに、嘘はなかった。彼は自分を育ててくれた恩人で、大切な人だった。でも子供過ぎたには、彼に会いたいという気持ちはあっても、助けたいというのはまだよくわからなかった。

 きっとただ、傍にいたかった。攘夷戦争に参加すると多くの松下村塾の仲間たちが言っていた。だからもみんなの傍にいたかったから、ただ言われたとおり、自分の出来ることをすべてやった。何もわかっていなかった。自分の作ったものが人を殺すってわかっていたのに、わからないふりをしてた。



 ―――――――――――大丈夫だ。おまえには指一本触れさせねぇ



 不安がるに、夫は、そして兄はいつもそう言っていた。長髪の幼馴染みは、悪態をつきながらもを守ってくれた。そうやって、目の前の人だけ見て、大切にして、何も見ないふりをしていた。

 ただみんなと一緒にいたかった。結果、どんどん仲間はいなくなってしまった。

 は逃げた。自分が目の前の屍を作り出していると気づいた時、守られて何も決めてこなかったの心は限界で、いつ自殺してもおかしくないほど追い詰められていた。だから、子供が出来て、それを守るために逃げられるとわかった日、心のどこかで安堵したのだ。


 一人になることは不安だった。でも、戦争から逃げる理由が出来たことは安堵した。


 本当は子供が出来たあの日、夫に、兄に、そして幼馴染みや仲間たちに、本当はきちんと事実を話し、どうするのか、何が出来るのかを考えなければならなかったのだろう。

 でもはもう、戦うことに限界だった。

 だから逃げる理由を子供にして、何も告げずに全部放り出し、戦争に背を向けた。結局は弱くて、守られてばかりで、頭が良くたって、大馬鹿者だった。



「神威、ちゃんと外に出たかな。」



 は刀を振り下ろす。左側にいた天人がちをまき散らしながら倒れるが、血に濡れた手で柄を握りしめ、は襲ってくる天人を休みなく切りつけた。

 予想していたより数が多いため休んでいる暇などない。

 が隠れ家にしていた家には地下へと続く逃げ道があり、その向こうで今日、坂本が待っているはずだ。神威がいることは既に話してある。東のことはまだ話していないが、どちらにしても情に厚い彼は神威と東を保護してくれるだろう。


 東のことを坂本に話したら、彼はなんと言うだろうか。

 馬鹿だと怒られるかも知れないし、底抜けの馬鹿だから、理解してくれないかも知れない。少しだけ、少しだけ彼に会うのが楽しみになった。



「っ、」




 腕を小さな銃弾が打ち抜く。痛みに右手の刀を取り落としそうになったが、間髪入れずに襲ってきた天人の首を切り落とす。力の入れ具合が悪かったのか、血だけが吹き出て、首は半分程度しか切れず、そのまま胴体とつながったまま倒れた。




「撃て−!遠くから狙撃すれば大丈夫だ!!」




 天人の叫び声が聞こえるが、それがどこか遠い。




「まだ、いける。」




 は打ち抜かれて酷い痛みを放つ自分の腕を切り離したい気分になったが、自分の体を叱咤して、膝に力を入れる。

 大切だったものは、全部あの戦争が攫っていった。でも、



 ――――――――――いやだな。しけた面さげた女と、ガキひとり背負うくらい、小さなことだよ。



 あの馬鹿みたいにまっすぐで、今しか考えていない神威の言葉が、ふと心の中に浮かぶ。彼は過去のしがらみにがんじがらめになっているを、子供ごと宇宙につれて行ってくれると言った。いつまでたっても巣から出られないに、手をさしのべてくれた。



「だから、」




 今まで兄やたくさんの人に助けてもらってここに来た。

 神威が看破したとおり、は兄や仲間たちから逃げながら、自分の過去を知らない、自分のことを誰も知らないところに行くのが怖かった。誰も助けてくれない、自分の力のみで生きていかなければならない場所に立つことを、望みながら、どこかで拒絶していた。

 中途半端な覚悟で、ただ息子という守らなければならない弱者を抱える、後には戻れない追い詰められた強さだけでここまで来た。

 はある意味で自分の力を全く信頼していなかった。与えられた立派な牙はあったのに、心がちっとも伴っていなかった。

 だから、自分で過去に向き合えるのならば、その強さが確かにあるのならば、過去なんて全部捨てて、ただのとして彼の手を取ろうと思った。

 自分の力で、生きていくために。


彼の強さを求めてみたいと願ったから