兄ちゃん、と悲しそうに名を呼んできた妹の姿を、覚えていないわけではない。病弱な母を一人で見続けることに、悲しみを、覚えていないわけではない。
だから、どうしても子どもを手にかける気にはなれなかった。
「むい、」
大きな漆黒の瞳で丸く神威を映して、の息子の東が神威を呼ぶ。
今日、珍しくは第七師団の団員たちと共に春雨の母艦に行っている。云業も一緒だ。そのため今日は東と神威が二人だ。は息子のことを心配して連れて行こうかとかなり悩んでいたが、神威が面倒を見ると言い切った。
彼女がいないのは2日で今日帰ってくるので、別に問題はない。
3歳にもなればトイレにも自分で行くし、食事も出しさえすれば勝手に食べる。は攫われたり、人質に取られたりしては困るのであまり第七師団の団員に東を関わらせることには反対だったが、神威はよく東を外に出す。
宇宙船の部屋の中など面白くはないだろうし、子どもは外に出て元気に遊ぶのが健康的で良い。もちろん神威も絶対に目を離したりしていない。
「おいで。」
神威が手を伸ばすと、東は安心したように神威に抱きついてくる。
に神威があったのは東が1歳くらいの頃で、それからずっと一緒にいるので東は神威によく懐いている。戦闘狂である神威と東の関係を当初は気にしていたようだし、無邪気に神威に構ってアピールをする東に困っていたようだが、神威としてはその幼くて無邪気な手を拒む理由はなかった。
幼い東には父は生まれたときからいない。
に直接聞いたところに寄ると、攘夷戦争時の凶悪指名手配犯のひとりで、がともにいる事は出来なかったのだという。元々相手はなんだか自然な流れで幼なじみ同士だったらしく、とんとん拍子にあっさり結婚が決まっていたという間抜けな答えだった。
曰く「好きだったんだけどね。」だそうだ。何とも適当な話である。
神威はを手放したくないし、連れ回したいし、絶対他人ものになどしたくないと明確に思っているが、は結構ふらふら症だ。一応身持ちは堅いらしく、案外そういうことをしたりはしないが、恋愛感情はよく分からないらしい。
もちろん神威とて恋愛感情なんて生やさしい物は認めないが、明確にこうしたい、して欲しいと言う感情はある。
対しては神威のことを気に入っているが、別にそういう感情はないようだった。
ふらふら状況に流され、それを賢いが故に適当に処理しながら甘受してきた。多分はそんな感じで、その結果が東なのだろう。
「かむいむい、」
嬉しそうに東は神威の首に手を回す。
幼い頃神威がそうして母に縋っていたように、そして神楽が兄である自分に抱きついていたように、東は神威に甘える。それに悪い気がしないのは、自分の幼い頃の記憶が邪魔をするからだと神威も知っていた。
東の姿は父親がいつもおらず、寂しかった神威をどこかで彷彿とさせる。
神威には妹がいたが、東は兄弟もいないので一人だ。だからこそ、神威はどうしても東を冷たくあしらうことは出来なかった。
それには東のことを父親似で自分には似ていないと言うが、似ていないのは黒髪だけで、大きな漆黒の瞳も、楽しそうに笑う笑顔も、よく似ていると神威は思う。
だから幼い頃の葛藤も全部見ないふりをして、神威は東の背中をぽんぽんと叩いた。
「そういえばも妹だって言ってたな。」
に兄がいるという話は、直接彼女から聞いた。
それなりの仲だった神威と妹の神楽とは違い、少なくとも攘夷戦争で離れるまで、とその兄はとても仲の良い兄弟だったらしい。生きているかどうかも分からないそうだが、今でもは兄の情報を追っている風がある。
「おまえも妹ほしい?」
神威が東に尋ねると、不思議そうに東は首を傾げる。
「いもうと?」
「うん。おまえと同じマミーの子どもだよ。」
「こども?」
それでふと神威は気づく。
東はそもそも同年代の子どもを見たことがないのだ。言われたって分かるはずがない。自分がの子どもだと言うことは分かっているが、それ以外まったくわからないのだ。
父親のことだって、父親という言葉の意味だって知らない。
「いつか子どもを作ったら、俺がを殺すから。」
「…?」
「だからいつか、俺の子供と一緒に、俺を殺しにおいで。」
神威は愛しそうに目を細めて、東の頭を撫でる。
きっとの子どもだ。この子は恐ろしく賢くなるだろう。そして何があっても負けないの精神性を受け継いで、心の強い男になるに違いない。
そして神威との間にいつか生まれる子どもは、きっとハーフだと言っても夜兎としての強い肉体を受け継ぐことだろう。
それを持って、いつか、その憎しみと強さを持って神威を殺しに来れば良い。
「そのために。」
今は精一杯この小さな命を強くなるように育てようと、神威は心に決めていた。
憧憬故の願望