幼い子どもが一人で勝手に外に出たのは、神威がいなくなった日曜日のことだった。

 神威の恋人であるが子どもを預けるために出かけようとするところを捕らえようと待ち構えていた幽玄とその部下たちは、たったひとりで出てきた子どもに目を丸くした。だが子どもはそのままぽてぽてと居住区の外へと走っていく。

 そろそろ2歳と言うこともあり、その足取りは小さいなりに何故か驚くほど速い。ひらひらと黒い髪が、風に揺れていた。



「仕方ない、俺が餓鬼の方を捕らえよう。女の方を間違って殺しても困るからな。」



 幽玄は部下たちに指示をし、開け放たれている神威の部屋にいるであろうを捕らえるべく言って、幼い子どもを追う。

 子どもが夜兎なのか、それとも違うのかは知らない。

 だが子どもは危なげない足取りで第七師団の居住区を出ると、春雨の母艦の中にある通路を通り抜けた。迷うことなく淀みなく走っていく子どもを見ていると、どうやら行き先があるらしい。それに興味があり、幽玄は子供を止めなかった。

 幽玄が追った先にあったのは、広いポートだ。一台の小型の宇宙船が停泊している。




「よしよし、良い子だったね。」



 そこにいたのは、今日は任務で帰って来ないはずの神威だ。彼はにこにこ笑って、ぐしゃりと幼い子どもの頭を撫でていた。



「おまえ…」

「アズマは結構賢くてネ。何度かここに俺を迎えに来てたから、場所を覚えてるんだよ。」




 呆然とする幽玄に神威は笑って東を抱き上げ、東の背中をぽんぽんと叩くと、床に下ろした。代わりに神威の後ろにいた体が大きく、丸っこい云業が床に膝をつき、恐る恐る幼い東に声をかける。




「東坊、こっちだぜ。」



 東は変わった風貌の云業を恐れる様子もなくじっと見たが、すぐに神威の方へと振り返った。大きな漆黒の瞳が神威を丸く切り取っている。



「むい。」


 小さな唇が、神威の名前を呼んで、神威のマントを掴んだ。




「大丈夫。すぐに阿伏兎も来るだろうし、しばらくしたらも戻ってくるよ。」

「むいは?」

「もちろん、俺もすぐに帰るヨ。」



 神威が笑って言うと、東は納得したのか、こくんと大きく頷いて見せ、神威のマントから手を離して今度は云業の服を掴む。もともと人見知りがあまりないので、云業に任せても問題ないだろう。


「東に何かあれば、おまえも殺すヨ。」

「わかってます。」



 神威が脅すと、云業は神妙な顔つきで言って、東を見下ろした。東は不安そうな顔を見せることもなく、にこっと笑って神威に手を振ってみせる。



「後でネ、」



 神威も血のつながりなんてない癖に、同じ顔で手を振りかえす。



「東坊、」



 云業は東の手を引いて少し後ろに下がらせた。

 幽玄が何かを言おうとする前に、神威は壁にあったボタンを押し、云業との間にあった大きな隔壁を閉めた。あっという間に隔壁は降りて、東と神威の間に大きな壁を作り上げる。

 ポートを宇宙船の爆発からも守るほどの隔壁だ。夜兎といえど破ることは出来ない。



「おまえっ、」

「あはは、今頃気づいたんだ。」



 怒りに染まった顔で自分を見てくる幽玄に、神威は涼しい顔で笑って見せた。



「俺の部屋に行ったおまえの部下も、阿伏兎に返り討ちだよ。は部屋にはいない。」



 この間の会話を聞いて、幽玄は週末にと東が部屋に引きこもり、子どもを預けるために外に出てくると思っていたのだろうが、それは大間違いだ。

 今日は、部屋にはいない。こっそりと部屋を抜け出し、元老の一人に会いに行っているはずだ。

 代わりに東の面倒を見ていたのは、部屋に匿われていた阿伏兎である。神威が帰ってくる時間にあわせて東が出られるようにドアを開いたのも阿伏兎だ。

 部屋からこのポートまでの道を、神威を迎えに来るため、東は何度もと一緒に歩いている。に似て年の割に随分と賢い東がこの道を覚えているであろう事を、は心配していたようだが、神威は全くと言って良いほど疑っていなかった。


 部屋にがおり、外にひとりで東が出たと分かれば、を逃がさないために幽玄は部下にどちらかを追わせるだろう。



「ちなみに俺たちの部屋に行くのが、あんたでも良かったんだ。阿伏兎は隠れて、部屋に誰もいないことにした。そしたらどうせ、おまえもアズマを追いかけてくるだろう?」



 幽玄は東を追ってきたが、仮に東を追うのが彼の部下たちで、幽玄が神威の部屋に行ったところで、別に良かった。阿伏兎はソファーに隠れて部屋には誰もいないことにし、幽玄が慌てて唯一の手がかりである東を追うのを待つ、それだけだ。

 神威にとって部下を殺すくらいのことは簡単だ。だから少し待つ時間が増えるだけで、どちらでも良かった。



「おまえが阿伏兎を匿っていたのか。」




 幽玄は怒りの眼差しを神威に向ける。



「阿伏兎に興味があったわけじゃないんだけど、が助けちゃったからさ。」



 別に神威は阿伏兎を助けたいと思ったわけではないし、仮にあの日、神威しか部屋にいなかったら、神威は彼を助けなかっただろうし、助けられなかっただろう。神威に医療の心得はない。

 たまたまがいて、彼女が手術をして助けた。

 不測の事態が起こった時と不測の事態を起こした時は、神威は詳しく理由の説明を聞かなくとも、の言うことを聞くようにしている。彼女は賢く、短絡的な行動の多い神威を上手にカバーしてくれる。だから、理由は後で聞けば良い。

 今回のこともが後々のことを考えて、助けたのだろう。その方針に目立って異を唱える気はないが、神威にとってすこぶる阿伏兎はどうでも良かった。


 確かには女で、神威としてもを男ばかりいる表舞台に出すのは苛々するし、阿伏兎がいるといろいろと面倒ごとを押しつけるのに適しており、便利なのかも知れないが、神威としてはそういう将来的な利益はよくわからない。

 その些細な将来的利益についてから説明を受けたが、から聞いても神威は“絶対に”阿伏兎を助けなければならないと思うほどには至らなかった。

 阿伏兎を助けたのはたまたまだし、別に幽玄に反感があってのことでもない。入ったばかりで、しかももともと自分の思い通りにしか動かない神威にとって、団長の幽玄はどうでも良い存在だった。だから、幽玄を殺したいと思ったのは、もっと別の理由だ。



は嘘ついてたけど、俺は嘘はつかなかったヨ。ま、がついた嘘は2つだけ。1つはソファーの件。阿伏兎の血でべったり汚れちゃったからね。ピンで黒い布、留めてたんだ。」



 神威は愉快でたまらないという風に少し早口で言って、軽く笑って見せる。



 ――――――――――――同じサイズで通販したら、違う色送られて来ちゃったんです



 2つあるソファーの1つが黒、1つが緑だったのは、通販で違う色が送られてきたわけではもちろんない。阿伏兎の血で汚れてしまったからだ。それをが黒い布をはり、後ろを見えないようにまち針で綺麗に止めていただけだ。



「もう一つは怖いーって奴だよ。も本当によく言うよね。怖いものなんて何もないくせに。笑いを堪えるのが大変だったんだよ。」




 神威は笑いがこらえられないとでも言うように、ころころと話す。

 と出会ってから神威が人を殺そうが殺気を彼女に向けようが、彼女が怯えたそぶりを見せたことはない。そういう点で、彼女は非常に図太い神経をしている。なのに、口だけで怖いなどと言ってみせるものだから、あの時神威は吹き出してしまいそうだった。

 だがその軽薄な神威の態度が、ますます幽玄の怒りを煽る。



「貴様っ、殺してやる!」

「あははは、そう来なくっちゃ。俺たちは夜兎だ。」




 幽玄も夜兎。神威も夜兎。所詮はどちらも同じ穴の狢だ。もともと言葉で語るなど、相応しくはない。殺し合いさえ出来れば、過程などどうだって良いのだ。



「俺は強いもの以外に興味はないんだよ。」



 神威は青色の瞳をうっそりと細めて、自分の獲物を見やる。


「あんたと戦いたかったんだ。もちろんさしで、だよ。」



 幽玄は団長という立場で人を連れていることが多かったため、なかなか神威も近づくことが出来なかったし、雑魚に邪魔をされれば面白くない。からも厄介ごとになるからやめておけと随分止められていた。

 数ヶ月の願いがやっと果たされるわけだ。



「まず貴様を、そしてあの女を殺してやるっ、」 



 幽玄は怒りにまみれた瞳で自分の傘をぎりりと音がなるほど握りしめる。



「駄目だよ。」



 神威は彼の声に打って変わって冷ややかな声を返した。



は、いつか俺が殺すんだから。」



 あの鋭く研ぎ澄まされた刃のように黒光りする漆黒の瞳を奪うことができるのは、自分だけだ。誰にも許したりなんてしない。何年後になるかは分からないが、神威の至上の楽しみを奪うことは、誰にも許さない。

 今まで心を満たしていた興奮が、突然冷えていく。



「髪の毛一本まで、あれは俺のだよ。」



 その声も、あの体も、すべて自分のものだ。自分だけが好きにして良い、触れて良いのも、あの命を奪って良いのも自分だけだ。

 他人に僅かでも渡す気なんてない。彼女に手を出そうとしたことが、幽玄の罪なのだ。神威とてに彼が手を出そうとしなければ、もう少し彼と戦うことを我慢できたかも知れない。これほど性急に彼を殺そうなどと思わなかっただろう。

 強い人間と戦うという興奮を、に手を出されるかも知れないという不快感が上回る。



「馬鹿な男だ。」



 それは自分に向けられたのか、それとも目の前の男に向けたのか。

 どちらか考える事もないまま口にして、感じたこともない不快感とともに神威は自分の傘を握りしめて自分の本能に身を委ねた。


本能の命じるがままに