が死にかけたのは、神威の失態だった。
危ないと言われたのに、神威は強い奴がいるという噂に駆られてそこに足を踏み入れてしまったのだ。罠に気がついたのは、賢いの方が早くて、咄嗟に神威が押された時には、の体には大きな槍が突き刺さっていた。
辺りにいた天人を皆殺しにして、を医務室に運んだときには失血で意識が混濁しており、すぐに意識レベルは下がって声にも反応しなくなった。
「…」
人工呼吸器につながれているは、青白い顔で目を閉じている。
いつもは一つに束ねて、彼女が歩く度に揺れる銀色の癖毛も今は大人しくベッドに広がっているだけだ。お腹の包帯は真っ赤に染まっていて、一応縫って血は止まっているらしいが予断を許さない状態で、医師もお手上げ状態だった。
「馬鹿、」
神威はぽつりと呟く。
あの時、が神威を庇わなければ、槍に腹を貫かれていたのは神威だったかも知れない。だが手負いの神威を抱えたでは、あの人数の天人をすべて始末することは出来なかっただろう。夜兎の傘のように防御の術と飛び道具を持たないは、人を庇いながら戦うのに向かない。
だから、二人が生き残る可能性を高めるためにはあの選択は間違いは無かった。
「団長、アズマが来てるぞ。」
阿伏兎がのベッドの隣の椅子に座る神威に躊躇いがちに言う。
予断を許さない状態だから、の息子である東も呼んだ方が良いと医師が判断したのだろう。母親が血まみれの所などあまり見せたい物では無いが、最後になるかも知れないのだ。
「むいー」
まだ2歳半でよくわからない東は、阿伏兎に促されて病室に入ってくると、神威を呼んだ。神威は無言のまま、東を自分の膝に抱き上げる。
僅かに柔らかく波打つ漆黒の髪に、と同じ丸い漆黒の瞳。
「むい?」
いつもみたいに返事をしない神威に東は少し不安そうに名前を呼ぶ。
「うん。」
神威は東の小さな体を抱きしめて、背中を撫でた。
あの時自分がの言うとおりに罠の方へと入っていかなければ、なんていう後悔、無意味なことだと分かっている。既にはこうして大怪我をして、死にかけているのだ。
だが、このままが死んでしまったら、神威はこの小さな子どもになんてわびたら良いのか、言葉も見つからなかった。
「しかないな、」
ぽんぽんと小さな手が、神威の頭を撫でて、言う。神威が顔を上げると、東は拙い口調で、もう一度言った。
「しかたないな。」
それはいつもが神威に言う言葉だった。
彼女は神威が強い奴と戦いたい、何かをして欲しいと願う度に「仕方ないな。」と言って苦笑して、いつもやってくれた。
今回だってそうだ。罠のある方に行きたいという神威に、仕方ないなと一言でついてきてくれた。
「…いつ覚えたの、そんな言葉。」
まだ東はたった2歳だ。なんでそんなの変な口癖ばっかり覚えているのだ。
神威が小さくぼやくと、何故か東は誉められたと勘違いしたのか、にこっと笑って見せた。その笑顔もやっぱりに似ていて、神威は眉間に皺を寄せる。
最近が書類仕事出構わないせいか、東は神威にべったりだ。
継子だとか血が繋がっていないなんて事、まだ幼い東には分からない。と言うかそもそも血のつながりにどれほど意味があるのか神威にはよく分からない。自分自身も父親の腕をとって殺されかけ、ここにいるくらいだ。
小さくて温かい手は、少しだけ神威の心を落ち着ける。
「どうしよう、」
倒れ伏すを見た時、神威が一番に思ったのは、それだった。
どうしよう、血が止まらない。彼女が倒れ伏している。どうすれば良いんだろう。襲ってきた男たちを皆殺しにして、慌てる自分の心は感じたこともないほど余裕がなかった。
「俺、おまえのマミーに庇われちゃった。」
「?」
「俺の手で、殺すはずだったのに。これじゃ、台無しだよ。」
自嘲するように笑って言うと、また東は「しかない。」とぽんぽんと小さな手で神威の頭を二回叩いた。なんだかあっさりと言われてしまって、神威は目をぱちくりさせる。
「なんだか、ばからしくなって来ちゃった。」
東はまだ子どもで、が死にそうなこともよく分からないのだろう。死そのものが、まだ理解できない年頃なのだ。
どれだけ神威が悩んでいても罪悪感に駆られてもわからない。考えるだけ無駄だ。
「もこんな気分だったのかな。」
いつも神威の考え方がシンプルでくよくよ悩まないため、はよく神威を見ていると自分が悩むのが馬鹿みたいになると言っていた。
それが今になって何となく神威にも分かって、笑ってしまう。
がこのまま死んでしまったらどうしようと恐怖に駆られる心は未だに残っているけれど、腕の中にある温もりは少しだけ神威の心をいやしてくれた。
崩れた選択肢
は3日後に潔く目を覚ました。
「お腹に穴開いたのか、さすがのわたしも初めてだね。」
槍が突き刺さっていたという話を医者から聞くと、彼女はあっさりとした様子で言った。
丈夫で強いと言っても流石に夜兎ではないので、しばらくは絶対安静。腹の傷のせいで座ることも出来ない彼女は気楽なもので、書類を阿伏兎に押しつけられると気楽に喜んでいる。
「…」
神威は無言でをその青い瞳で見つめた。
「なに?」
が大怪我をした原因は、が止めたにもかかわらず神威が罠のあるエリアに入ったからだ。ある程度来ることが分かっていたため、の方が反応が早く、神威を突き飛ばしたのだ。なのには全く神威を責めない。そのことに言及もしない。
「馬鹿だなって思って。」
「何それ。酷い。たまには労ってよ。わたしはあの瞬間最善の方法を選んだつもりだよ。」
は仮に神威を見捨てたなら、あの場では大怪我をした神威を抱えて、大量の天人の相手をしなければならなかった。
飛び道具を持たず、傘のような防御の術もないにはそれは不可能だ。そうなれば神威もも生き残れない。
だが神威ならを庇い、傘で防御しながら敵を皆殺しにすることも出来るだろう。だからはあの瞬間、神威を庇うという形で生き残れる可能性を増やしたつもりだ。一番確実な方法を選んだ。
「うるさい。馬鹿は馬鹿だよ。」
もちろん神威とてそんなことは理解している。だが、が死んだかも知れないと思ったあの瞬間の感覚を言い表すことは出来ない。
「何すねてるの?」
は心底不思議そうに尋ねる。それは彼女があの瞬間の選択の正しさを全く疑っていないからだ。
確かに彼女の選択は正しかった。でも、原因を作ったのは神威自身で、そのくせに被害を被ったのはだという事実は変わりないから、少しぐらい怒ってもよいのだ。
「俺に、何か言うことはないの?」
苛立ち紛れにそう尋ねると、は少し考える。
「書類はどうなってるの?」
「阿伏兎とおまえの部下がやってるよ。」
「東のご飯は?」
「厨房の奴が心配してちゃんと作ってくれてた。」
「お洗濯ものは?」
「云業がやった。」
「…あと、」
「そういうことじゃなくて、俺に言うことはないの。」
そんないつもの業務の話じゃなくて、自分にかける言葉はないのかと神威はもう一度問う。
「んーーーー、ただいま?」
は随分と考えてから、だっこをねだる子どものように神威に向かって手を広げた。虚を突かれた神威は青色の瞳を丸く見開く。
「…本当に馬鹿だなぁ。」
まだ起き上がれないから、抱きしめることしか出来ない。それでも神威は彼女に求められるがままにベッドに横たわる彼女を抱きしめる。
「お帰り。」
「ん。」
はぽんぽんと神威の背中を二つ叩いて、小さく頷いた。
我が道を歩く