神威が執務室に翠子を入れたのは、元カノだった彼女が気に入っているからとかではなく、がどういう反応をするのかが知りたかったからだ。


「アタシがつきあってた時の神威は…」



 翠子はこれ見よがしにソファーに座り、に向かって神威の過去の話をする。

 神威のことをよりよく知っていると見せつけたい。それは女特有の優越感に浸りたいという欲求からのようだが、彼女の話はの劣等感を煽ることはないようで、はいつも通り淡々と仕事に打ち込むだけだった。

 ただ、翠子の意図をの副官たちは理解しているようで、荼吉尼の赤鬼と青鬼、そして夜兎の龍山は心底不快そうな顔で翠子を見ると同時に、神威に対しても物言いたげだった。恐らく神威が追い出さないことに、苛立っているのだろう。



「…」



 神威は腕に東を抱えたまま、執務机で書類仕事をしているをじっと見る。

 伏せられた長い銀色の睫が影を落とす、漆黒の瞳。いつも通りぼんやりしていて、そこには焦ったり苛立ったりと言った感情の色は見えない。

 それを神威は悔しいと思った。

 前に元老の終月がの戦友である坂本から彼女の昔話を聞き、それを神威のいる前で話したことがある。その時神威は酷く苛々したし、彼がの過去を知っていて、自分が知らないと言うことが嫌でたまらなかった。

 なのに、はちっとも苛立った風を見せない。嫌でもないらしい。

 仕事をしていて、集中しているから、気にならないのだろうか。でも神威は他のことに意識をそらしても、やっぱりの話は気になった。



「ちょっとさぁ、うるせぇから、黙ってくんね?」



 阿伏兎は頭をかいて、低い声で言う。どうやらの隣で書類仕事をしていた阿伏兎の方が、翠子のうるささが気になったようだ。流石に副団長から言われるとどうしようもないのか、翠子は神威に助けを求めるように視線を向けてきた。

 ただ、別に神威も彼女に特別興味があるわけではないので、手をひらひらと振って退出するように促した。



「あの嬢ちゃん、無茶苦茶うるせぇな。おい、おまえも何か言えよ。」



 阿伏兎が軽く頭を抱えて、に言う。恐らくにコメントを求めたのは、神威がの反応を待っているからだろう。彼はこういう所については空気が読めるし、同じ男なので神威の感情も理解しているようだった。

 ただはじっと書類を眺めたまま、視線すらも動かない。



「おーい、聞いてんのか?その耳オブジェかなんかかよ。あぁ?」



 阿伏兎が言うが、は反応を返さない。



「姉御?」



 副官の赤鬼が少し大きめな声でを呼ぶと、「ん?」と彼女は今気づきましたとでも言わんばかりの真っ白な瞳で、赤鬼を見上げた。



「なに?どうしたの?」

「ほら、団長の元カノ、いただろ?」

「あぁ、翠子さん?お元気?」



 阿伏兎が話を振っても、はあっさりと言う。ただ目線はまた書類に戻っていて、今度は白紙の無駄紙を出してきて、流れるように何かを聞き出した。




「お元気ってかさ、さっきまでいただろ?うるさく団長のことしゃべってたじゃねぇか。」

「あぁ、そうだっけ?わたし、夜兎の生態研究に興味ないし、気になることがあってね。」

「何の話だよ!ちっとも人の話聞いてねぇじゃねえか!!」




 何も書かれていなかった無駄紙に、びっしりと文字が刻まれていく。阿伏兎は何に興味を持ったのか、の手元をのぞき込んでいたが、神威からすれば彼女の答えは期待はずれすぎて、おもしろみも何もない答えだったので、ソファーの上で横向けに転がった。

 東を抱いたままだったので、きゃはきゃはと笑う甲高い歓声が耳に響く。



「なんなのさそれ。」



 神威ばかり彼女を自分のものにしたくて、彼女はちっとも何も感じないなんて、不公平だ。

 は自分で何でも出来る。学もあるし、資格もある。顔良し、頭良し、腕よしで、宇宙でも引く手あまただろう。指名手配犯だなんて言っても、地球の指名手配なんて、宇宙にこれば関係ない。今となっては宇宙で資格も取っているから、東がいても、彼女はひとりで生きていける。

 よく考えれば、自分と一緒にいる理由って何なんだろうか、と神威は思う。

 神威はを自分のものにしたい、しておきたい。彼女は恐ろしく強く、頭も良くて、いつも神威の予想外の方法で神威を楽しませてくれる。料理もうまい。いつか神威はこの強いとの間に子供が欲しいと思っているし、を殺すだろう。

 僅かでもそれを思い浮かべるだけで、心が弾む程に、彼女は神威の本能も、何もかもを満たしてくれる。



「むかつく。」



 自分はこんなにも彼女がいるだけで満たされているのに、そして同時に今まで感じたこともないような感情を抱えて、心乱されているのに、ばかり平気そうな顔をして男と話して、神威が女と話していても平気で、それが悔しい。

 神威はぎゅうっと東を無意識に抱く腕に力を込める。東は何かを感じ取ってか、じぃっと怒りもせず神威の方をそのに似た、漆黒の瞳で見上げてきた。



「あのさ、神威。」



 は熱心に無駄紙に何かをかき込みながら、視線を上げることなく神威を呼ぶ。



「ん?」

「東、しばらく龍山に預けようか。」



 唐突な提案だった。ソファーに転がっていた神威はばっと東を抱いたまま身を起こす。



「は?何言ってんの?」



 神威が第七師団の団長になってから、は正式に師団に雇われたため、春雨の母艦にある団員の家族の居住区から、第七師団の母艦へと居を移し、団員たちと同じように母艦に住んで任務に向かうことになった。

 それに伴い、幼いの息子・東をどうするか、神威とは話し合った。

 は団員になればそれなりに給与ももらえるので、東を他人に育てさせることも考えたようだが、神威は反対した。ある程度の年齢までは、母親から離れるべきではないと、そう思ったのは神威自身母が愛情を注いでくれたことを、覚えているからかもしれない。

 代わりに神威は仕事に忙殺される彼女の代わりに、東の面倒を率先してみるようになった。に自分の子供を産んでもらおうとか、自分の手で殺したいと思えば、彼女を生かさなければならない。彼女が何よりも息子を大切と思っているし、息子に何かあればは迷わず命を絶つだろう。彼女を自分のものにしたいと思うけれど、わかってる。彼女は「わたしはわたしのもの」なんて言うけれど、彼女は彼女のものなんかじゃない。彼女の命はいつも、不安定ながら東が握っている。

 だから神威は真っ先に、東に手を伸ばした。汚い感情だと知っている。でも、東はよりもむしろ神威の方に懐いている。彼の命をこの手に携えることで、神威は少しだけ、自分の心を満たすことが出来るのだ。

 なのに、今更龍山に預けようだなんて、なんだというのだ。何が不満なのだと思ってを睨むと、は紙に視線を向けたまま、淡々と答えた。



「言っちゃうとさ。翠子は信用できないから、執務室にこれからも入れる気なら、龍山でも誰でも良いから副官の誰かに余分にお金払って、私室に部屋にいてもらおうかなって。」

「…なに?俺が信用できないってこと?」

「そういうわけじゃないけど、翠子がいると視線そらすこともあるでしょ?」




 要するには、翠子が執務室に出入りし、東が狙われることを警戒して、副官たちをつけて私室に置いておきたいと考えたのだ。ただそれは、神威よりも、副官の方が信頼できると言ったようなもの。

 女にうつつを抜かして、警戒を怠るとでも思っているのだろうか。

 先ほど感じた苛立ちや悔しさが腹の中で渦巻いて、神威は東を膝から下ろし、近くにあった傘の手元に手を伸ばす。



「ちょっとむかつくから運動しようか、。」

「は?」



 は神威の話を聞いていたのか聞いていなかったのか、少し面倒くさそうにペンを持ったまま顔を上げる。それにすら神威は苛々した。





鈍さが憎い