神威において行かれたは珍しく目尻を下げて、刀を鞘にしまうと、しょんぼりとうなだれる。




「…なんで神威、あんなに機嫌悪いの?わたし何したの?」

ちゃんよぉ、おまえ学問の前に、男心の勉強した方が良いぜ。」



 阿伏兎は神威が出て行ったことでこれ以上痴話喧嘩に巻き込まれることはないと安心したのか、ぐったりとして執務机に突っ伏している。



「なにそれ。何を言われてもわたしは夜兎の生態研究に興味はないよ。」

「だからなんの話だよ!!」

「翠子の話でしょ?」



 は少しむっとして阿伏兎を睨む。



「意味わかんねぇんだけど。何、夜兎の生態研究って。」

「え?だって翠子毎日神威の昔の話してるけど、その価値って夜兎の生態とか、文化とか、風俗とかがわかる、くらいじゃないの?わたし工学専門だから、生態とか文系のことには興味ないんだけど。」 

「いやな、俺が言うのも何だけど、おまえさん鈍すぎやしねぇか?マジでなんも思わねぇの?対抗意識燃やしてんだぜ。」




 翠子がにつきまとい、わざわざ執務室までやってきてこれ見よがしに神威の話を始めたのも、への対抗意識故だ。神威が翠子を想っているということは100%ないだろうが、神威は翠子の対抗意識を利用して、にヤキモチを焼いて欲しいと思ったのだ。

 第七師団は男所帯でに言い寄る男は多数おり、鈍いに変わって神威はそいつらに牽制をかけたり、始末してみたり、それなりに苦労している。だからたまにはヤキモチを焼いて欲しいという気持ちは、阿伏兎にもよくわかる。

 ただ、はどこまでも強者だった。



「対抗意識…?わたしと決闘でもしたいの?それならいつでも受けて立つけど。」

「おまえさんなんでそんなに男らしく潔いの!?」



 女々しい戦いは一切理解できなかったらしい。翠子は神威の過去の話ばかりをこれ以上ないほどに語っていたけれど、からするとそれが対抗意識故とはわからなかったのだ。おそらく、決闘しろと叫んだ方がまだ望みがあったのだろう。



「んー…龍山にも似たようなこと言われたから、わたしが悪いんだと思うよ。だけど、神威が何を怒ってるのかはわからないし、翠子はうるさいし仕事の邪魔してくるし、東はわたしのこと悪いって言うし、なんか運んでる薬はなくなってるし、」



 なんなのよ、もぅ、とは口をとがらせて、力なく椅子に腰を下ろした。戸惑い一杯と言った感じのを見て、阿伏兎はため息をつく。

 多分は本当によくわからないのだろう。彼女は賢いが、どうも恋愛に関しては鈍いところがある。というか彼女はそういう感情を本気で考えたことがないのだ。



「アズマに副官をつけようなんて言い出したのは、麻薬の件か?」



 阿伏兎はの机に置かれた無駄紙に手を伸ばして、それを見る。

 びっしりと文字の書き込まれたそれを見れば、週別に入った団員の名前とともに、他の師団の団員の名前も、そして翠子の名も並んでいた。行方不明になった麻薬についても書かれている。はおそらく、このことで頭がいっぱいで、翠子の話など聞いていなかったのだ。

 息子に副官を護衛につけようとしたのも、神威を不足と思ったというよりは、おそらく翠子のことを真剣に警戒してのことだろう。



「うん。神威がいるとは言え、やっぱり東には、ここは危ない場所だからね。」



 は僅かに目を伏せて、椅子の背もたれに実を預け、東のことを思い出す。

 仕事に忙殺されてばかりいて、構ってやってはいないけれど、は東がいなければここにもいないし、きっと松陽を殺して、自分の首に刃を突き立てて、それで終わりだったはずだ。

 それが世界のためだったのかも知れないと言う気持ちは今もある。




「でも」



 たまに、必死で守りながらも、東が死ねば、全て終わりに出来ると思う心も確かにあるのだ。東の無邪気な寝顔を見ていると、彼さえいなければ、楽になれるのにと、残酷なことを考える瞬間がある。

 子供が病にかかって死ぬなんてことはよくある話だ。

 そうなればは、迷いなくその瞬間に命を絶つ。もしそうなれば、阿伏兎は書類に困るだろうし、第七師団は恐らくすぐに瓦解するだろう。かつての仲間たちは全部に背を向けて逃げ出したなど覚えていないだろうし、残るものはない。

 ただ、神威だけはきっと、強い奴を殺し損ねたと、思ってくれるかも知れないな、なんて、くだらないことを考える。少しだけ、少しだけ残念な顔をする神威を見てみたい気がする。



「阿伏兎、この人たち、見張っといてね。」



 は阿伏兎の持っている無駄紙を示し、いくつかの名前に蛍光ペンで線を引っ張る。その中には翠子の名前も含まれていた。



「わかったわかった。ただ、ひとまず、坊ちゃんに護衛をつけることと麻薬事件はセットだろうが!団長ときっちり話せや。」



 神威も突然理由もわからず、自分が面倒を見ている東に護衛をつけると言われては、自分が役不足と言われているような気がするだろう。もちろん執務室に神威が翠子を入れたため、が東の安全に不安を覚えたのは本当だが、その大きな原因は麻薬事件だ。



「えー。どうせ麻薬がなくなったのを処理するのはわたしでしょう?戦いになるまで黙っておけば良い。」

「いや、ぼっちゃんの護衛の話は?」

「あの感じゃ、神威から離れないでしょ。わたし、最近嫌われてるから。」



 神威と一緒にいるようになってから、東は神威にべったりだ。母親なんて見向きもしないほどに懐いているので、の言うことなど聞かないだろう。東が納得しないならどうしようもない。どうにか危険を回避するためにも、早く麻薬を盗み出した犯人を捕らえるのが一番だ。



「わたし、おかしなこと言ってないと思うんだけど。」

「おかしなことは言ってねぇ。ただ、断片的すぎんだよ。」




 阿伏兎は額に手を当てて、大きなため息をつく。

 は賢いため、多くのことを頭の中で考えているが、口にするのは本当に一部だ。そのため、他人には何をしたいのかがわからないし、自身改めて説明しようともしない。

 だから周りと不和を産むのだ。




「話し合いたくても食堂行っちゃったし、面倒ごとは後にして、ひとまず仕事処理しちゃお。あ、あと副官とか呼んで、ご飯食べさせたげよう。」

「はぁ?おまえさん、ヤキモチって言葉の意味、わかってる?」

「だって、神威の昼ご飯、いらないみたいだし、捨てるのもったいないし、夜の分は別にあるから、みんなに食べさせたら良いじゃない。」



 神威が食事を食堂でとるのなら、朝に下ごしらえした神威のための昼ご飯はいらないということになる。ただそれは大食いの夜兎の中でも大食いの神威のために莫大な量で、生憎放って置いたら腐るだけなので、消費しなければならない。



「また団長の奴、怒るぜぇ?」



 阿伏兎はなんでこんなには鈍いのだろうと目眩がした。

 副官を呼んで食べさせれば良いというの案は確かに妥当だが、今回神威が焼き餅を焼いて欲しいと思ってしでかしたことの経緯を考えれば、良いことにはならないと馬鹿な阿伏兎でも予想できる。

 神威の食べなかった昼ご飯を他の男が食べたと言われればいい気はしないだろう。



「神威は何がしたいのかな。」

「いや、明白だろ。おまえを独占したいんだよ。単純じゃねぇか。ついでに翠子使ってすましたおまえの鼻っ柱を折りたいだけ…」



 本心からわかっていないであろうの疑問に、阿伏兎は即答してしまった。




「は?いや、なんで翠子を使ってわたしの鼻っ柱折るのさ。面と向かってきなよ。それに翠子が面と向かってきても、一発KOでしょ?」

「いや、そりゃ面と向かってきたらね。」




 戦いという点で夜兎とは言え、刀を持ったに翠子が勝てるとは阿伏兎とて一ミリも思わない。ただ、翠子が求めているのも、神威が求めているのも、そういう意味での戦いではないだろう。




ちゃんよぉ、おまえさんが強いのはわかってるが、なんでそうも男が女を取り合うみたいな発想しか出来ねぇの?もっとさぁーこー女としてのスキルで…」

「わたし、芸事も名取りだし、料理も出来るし、容姿もまぁ、普通だと思うし、なんかたりない?」

「すんませんっした。天パ以外なんの欠点もございません。」

「死ねよ。」




 は腕組みをして、阿伏兎を睨んでくる。漆黒の瞳に鋭さはあったが、鋼のような覇気はない。




「案外落ち込んでんのかぁ?」

「うるさい。」




 返ってくる反論に力がない。阿伏兎は素直に少しだけ驚く。存外神威と東に背を向けられたことを、彼女はこたえているのかもしれない。




「よし、仕事しよ。」



 は自分を切り替えるようにそう言う。彼女の態度はいつもと変わりなかったが、阿伏兎は少しだけ彼女の小さな背中に不安げな感情が透けて見えている気がした。



愛しいけど、理解できない