が神威を連れて外に出ると、ふたりを除いて蜘蛛の子を散らしたように脱兎の如く逃げていった。
「まさに兎。」
はぱちぱちと気のない様子で拍手をし、逃げ遅れたふたりに目を向ける。
「ぱぱ!」
血まみれの神威に、東は何の躊躇いもなく抱きつく。小さな手で神威の血もついている足にしがみついた。まだ腰に抱きつけるほどの身長はない。ただ神威の服には全体的にべったりと血がついていたため、東の服も、手も血まみれになる。
「おいおいおいおい、やめろよやめろー!」
慌てて龍山は東を神威から離れさせようとする。だが神威の足に蹴られたのは龍山だった。
「邪魔。」
神威は一言言い捨てた後、その血にまみれた手で東を抱き上げる。東も気にした様子はなく、神威の首に抱きついた。
「心配かけて悪かったね。」
ぽんぽんと小さな背中を叩く。
「心配?」
「うん。俺とのこと、結構心配してたみたいだから。」
「そんなのわかる?」
まだ東は3歳だ。は首を傾げて東を見たが、まだ小さくて、いつも神威にしがみついたり、一緒に遊んでいるだけで、どのくらい人の感情の機微や、状況がわかっているのか、わからない。
「子供って言うのは、結構わかってるもんだよ。」
子供を嘗めきったの発言に神威は少しむっとした顔をして反論する。
「そう?」
は悪びれもなく首を傾げていると、東の小さな手が、の長い癖毛を引っ張った。
「ごめんなさい、は?」
「え?」
「むいに、ごめんなさい、は?」
謝ったか、と聞かれて、は顔を背ける。
阿伏兎も副官たちも神威に同情的だったし、が悪いことをしたのは間違いないんだろう。だが、わからないことを謝らなくてはならないのだろうか。潔く謝っておいたほうが良いのか、それとも理由を考えた方が良いのか。
は息子に言われて懸命に宙を眺めて考える。
母親の態度でだいたい察したのか、東は不満を示すようにの髪をぐいっと引っ張ってから、ペちっと小さな手でその頭を叩く。子供の力なので別に痛くはなかったが、結構心にぐさっとくるものがある。
「そんなにまみーをいじめちゃだめだよ。今からお話し合いするんだから。」
神威は東を軽く揺すってから、ぽんぽんと背中を叩いた。そして、床に尻餅をついている龍山を見下ろす。
「兎なのに逃げ遅れたの。」
も神威の視線が動いたのを見て、龍山に哀れみの目を向ける。
「ちっ、ちげーよ!アズマ放って逃げる訳にゃいかねぇだろ!!」
「これで震えてなかったら、格好もついたんだけど。」
神威の拷問まがいのやり方を見てしまったのだろう。龍山の神威を見る目には恐怖が混じっている。
目の前に迫る恐怖から逃げたい気持ちは団員たちと同じだったらしい。ただ龍山は東を抱いていたし、どうやら東を連れて逃げようとして東に抵抗されたらしい。そして逃げ遅れた、と。東は多分、神威が何をしたか見ていない。龍山が東の目をふさいだのだろう。
そういう点では龍山は、良い仕事をしたのだ。
「あははは、の言う通り根性だけはあるんだね。」
神威はにこにこと笑う。その笑顔に恐怖が倍増したのだろう。龍山の青い顔にはだらだら脂汗まで流れている。
の副官の採用基準は『根性』で、それさえあれば馬鹿でも良い。ただし根性で勉強も仕事もやってもらうということになっており、龍山は字も読めないのに根性があると見なされて副官になった希有な夜兎だ。
その意味が神威にも少しわかった。
「ということで、アズマ風呂に入れて、着替えさせて、ご飯食べさせといて。よろしく頼むヨ。」
神威はにっこりと笑って、神威の服の血がべったりついた東を龍山に渡す。尻餅をついてびびっている龍山は、東を自分の上にのせられても、一ミリも動かない。
「一応、彼わたしの副官であって、貴方の使いっ走りじゃないんだけど。」
「おまえのものは俺のものでしょ」
「何そのジャイアン理論!」
「え?不満なんてないよネ。」
神威は満面の笑みを龍山に向ける。だが龍山には、じゃないと殺しちゃうぞ、なんて声が耳に届いた気がして、全力で頷いた。
「後始末の指示はおまえに任せるよ。阿伏兎。」
神威は廊下の角に隠れていた阿伏兎に声をかける。
どうやら巻き込まれないように遠巻きに見守っていたらしい。団員たちが逃げたと同時に角まできちんと逃げているところが阿伏兎だが、心配で見守っているところもどこまでも阿伏兎だ。
「…やっぱり俺かよぉ。」
阿伏兎は心底嫌そうな顔をして、角から出てきた。
「え?俺が暴れても良いの?」
「良い訳ねぇだろ!このスットコドッコイが!!」
「じゃあやれヨ。」
神威はさらりと言って、を抱きしめる。
「俺とはもう働いたから良いだろ。」
「今日、俺が団員の部屋の検分行ったんですけどぉーーー」
「でもの10分の一しか仕事できないんだろ?おまえは時間的にはの10倍働けヨ。」
「それ俺死んじゃうじゃねぇか!?」
阿伏兎は力の限り突っ込んだが、もう何を言っても無駄だと言うことはわかっているのだろう。叫ぶと疲れたように肩を落とした。
「見積書とかはの優秀な副官たちがとってきてくれるよ。良かったね。」
「あぁ、良いよな。うらやましいよな。部下を大切にする優秀な指揮官のおかげであいつらはいつも楽できて。」
「えー?何か不満があるの?」
神威はにっこりと笑って阿伏兎を見る。笑顔にまったく隠されていない殺意に、阿伏兎は一歩後ずさって「何もありません」とぶんぶんと首を横に振った。
「なんかどっと疲れた、早く仕事に戻ろう。」
は袴の裾や袖についた血を見て、息を吐く。だが、その肩を神威ががしりと掴んだ。
「おまえは俺と部屋に戻るの。もう今日の仕事は終わり、」
「え?全然終わってないよ。」
は神威を振り返ってあっさりと言う。
この後、汚してしまった食堂の掃除の手配と、次の星に着くまでの食堂のかわりに食堂代わりになる場所と火元の確保。死んだ団員の生命保険などの手続きなど、やることは山積みだ。神威は仕事が終わったかも知れないが、の仕事は終わっていない。
「、言っただろ。俺が言ったら、出来ることはかなえるって。」
「いや、女に二言はないけど、勤務時間は勤務時間でしょ。」
「俺、団長だもん。勤務時間は俺が決めるんだよ。だから、帰ろう。みんなもそう思うよね。」
神威は笑顔を貼り付けたまま、龍山と阿伏兎を見る。一瞬きょとんとした二人は、青い顔で頭が落ちるのではないかというくらいの速度で頷いた。
「そうだよ、そうだ!、神威さんの言うことが一番だって、だって団長だもん!!早く行けいけ!」
「ちゃんよぉおお、ひとまずそいつつれて 部屋帰ってくれや!!団員のためにぃいい!」
先ほどの拷問的な光景を見てしまった団員たちの精神衛生上、神威には早く部屋に帰ってもらったほうが良いだろう。少なくとも阿伏兎と龍山は心穏やかになれる。
「いや、毎回思うんだけどさ。わたしを神威の犠牲羊にされても。」
「仕方ないよ。おまえ俺のだから。」
「神威…」
後ろから抱きついてくる神威にしつこいな、と呆れながらも、外向きにはそういうことにしておいてやろうかと思った。
向き合うとわかる