今日一日を振り返る24時





 なにかが肌にすれる感触がくすぐったくて、はゆっくりと目を開く。



「あ、起きた?」



 目の前には明るい青色の瞳があって、彼の手が自分の襟元の着物を掴んでいるのを見て、体を離そうとした。だが、体中が鈍く痛んで、だるい。動かす気になれず彼を見上げると「大人しくして、」と一言告げられた。




「あのままじゃ汗かいてて気持ち悪いだろ?」




 神威の手が、宥めるようにの髪を撫でる。

 どうやら風呂に入れて汗を流してくれたらしい。体力の違いからか、大抵情事の後は気絶していることが多いので、後処理は神威任せだ。襦袢の襟元を正し、紐をしめてから、神威もベッドの上に横たわった。

 は仰向けのまま、彼の方を向くだけの気力もなく、天井を見上げる。泥の中にいるように体が重たくて、なのに変にほてっている気がするのは、神威が風呂に入れてくれたからなのかも知れない。ただじんと下腹部が痛むのは、彼のせいだ。



「こっちにおいで。」



 神威の腕が伸びてきて、の腰に周り、ぐっと引き寄せられる。怪力の彼にとってが動けなかろうが、少し動かすくらい簡単だ。神威の体に押しつけられるように抱き込まれて、恥ずかしい気持ちはあったが、は体の力を抜いた。

 素手で神威に抗うなんて本当に時間の無駄だ。勝てっこない。




「こうやって抱いてると非力で弱いのにネ。」




 神威は戯れるようにの背中を撫でる。



「…わたしは刀と頭脳が命なの。」



 反論するその声は、酷く掠れていた。神威の手が労るようにの首を撫でる。



「そうだね。」



 神威はそう言うと、の首筋をぺろりと嘗めた。くくっていない神威の髪が首筋を撫でるのがくすぐったい。



「いつか抱きつぶしちゃいそうだ。」

「…東みたいに殴るよ。頭。」



 神威はたまにその怪力で内臓が出そうな程を強く抱きしめることがある。が逃れようと腕を叩くとわかるらしく、腕を緩める。だが幼くてまだ分別のないの息子の東は、そういう時、思いきり神威の頭を叩くらしい。まさに神威の恐ろしさを知らない子供だから出来ることだ。

 が言うと、彼は青い瞳を丸くして、不思議そうにを映した。



「なに?」

「そういう意味じゃないヨ。気持ちよすぎて抱いてる間に殺しちゃいそうだなって思っただけ。」



 神威はくすくすと笑いながら物騒なことを言う。

 夜兎の体力は底なしで、実際はこれほど疲労困憊なのに、神威はけろりとしている。彼が疲れるくらい情事につきあえば、は確かに死ねるかも知れない。それでなくとも力の加減を間違えられ、腕の骨にひびが入ったことはある。




「腹上死とか絶対いや。死んでまで恥晒したくないわ。そんな気配があればわたしは全力で逃亡するから。」

「…全力で追いかけるヨ。」



 いつも高い神威の声が僅かに低くなり、抱きしめている腕に力が入る。

 それはが本気で逃げる気ならば、夜兎の神威とて追いかけられない方法を考えると、知っているからだ。

 彼は存外のことをよく見ているし、信頼している。僅かな変化も見逃さない。めざとい男だといつも思うが、うぬぼれではなく、それはに対してだけだ。他人にそれほど興味のない彼にしては、本当に珍しい。

 それなりに、多分大切に思われているのだろう。少しだけ、うぬぼれても良いのかも知れない。




「嘘。」




 は身を起こして、少し濡れた自分の髪をかき上げ、もう片方の手で神威の唇に触れる。




「わたしはここにいる、」




 笑って見せると、神威の手がの背中を撫でる感触がして、突然体が反転した。いつの間にか神威に跨がられ、青い目が熱を孕んで、こちらを見下ろしている。




「神威?」

「あはは、結構満足したと思ってたんだけど、やばいネ。おまえ。男をたぶらかす才能あるよ。」

「今の話のどこに貴方を煽るものがあったの?!」

「その細い首筋、いつでもそそるよ。折りたくなる。」

「全然嬉しくない!」




 は掠れた声で叫んで、神威の体をどかそうとするが、悪あがきだ。ざっとベッド近くのものを見回すが、手の届く範囲に武器になりそうなものはない。



「よそ見しないでよ。」




 神威の指がまだぐずぐずと熟れたままのの中に滑り込む。組み伏せられてしまえば彼に勝てる女なんて絶対にいない。は楽しそうに笑っている精悍な顔を眺めながら、諦めて快楽に身を委ねた。





キスマーク


「何これ。嘘、虫刺され?スプレーしたのに。」




 は襟元を正して着物を着ながら、鏡を見て眉を寄せる。



「しばらくしたら治るんじゃない?」




 神威は彼女の着替えをソファーに座って眺めながら、心中呆れた。

 相変わらずキスマークを虫刺されだと思っているらしい。そういえば前つけた時も、シラミがいるとか言いだし、バルサ○をたいていた。これでしばらく彼女に思いを寄せる団員たちも、遠巻きにするだろう。牽制に苦労していることを、彼女は全く知らない。



「それは虫刺されって言うか、虫に刺されないように、だよ。」

「は?何言ってるの?」



 は首を傾げて、自分の袴の帯を締め、用意を終えた。







聞きたいことがあります


「そうだ。聞きたいことがあったんだけど、神威、なんでわたしの携帯の画面割れてるの?東が落とした?」



 朝起きたら、スマートフォンの画面の硝子が割れていたのだ。

 別に保証に入ってるので良いのだが、それでも理由くらいは知りたい。そう思って事情を知っているであろう神威に尋ねると、真顔での顔をじっと見てきた。



「え、なに?」

「俺も聞きたいことがあるんだよね」

「…なんでもどうぞ?」




 は珍しい彼の前置きに内心では少し驚きながら、平静を装って尋ね返す。するとが持っていた携帯電話を神威は取り上げ、すこし触ると、に画面を突きつけた。



『暴君虎公』



 割れた画面に大々的に映し出されているのは、神威の登録名だ。



「さて、お話、聞かせてもらおうか。」










聞きたいことがあります

「酷いよね。」




 唇を子供っぽくとがらせて、ソファーに寝そべっている神威は言う。




「何だよおまえさん。不機嫌そうだな仕事もせずにこのヤロ−」




 阿伏兎は悪態をついて、書類をぽんぽんとまとめた。

 ここはの執務室で、今日彼女は昼からの出勤だというので、阿伏兎が代わりに仕事をしている。昨日息子の東を副官である青鬼に預けていたことから、自ずと想像がつく。艶々した顔しやがってコノヤローと思わざる得ない。



の携帯の登録名が酷いんだよ。」

「俺の話は聞く気ねぇのかよ。」

「何か話してた?」



 聞く気がないどころか、既に聞いていない。何この扱い、酷い、と思うが、この適当な扱いが既にスタンダードだ。



ってば、俺をなんて登録してたと思う?」

「名前か?」

「そうだよ。」

「…兎とかか?」

「暴君虎公」

「ぶはっ!ぎゃははははは、なんだそりゃっ!!」




 阿伏兎は我慢しようと思っていたが、笑いをこらえられず吹き出してしまった。

 なかなかも面白い例え方をするものだ。確かに一匹狼で強い神威は虎っぽいかも知れないが、しかも暴君だ。彼女は神威をどう思っているかが如実に表れているし、なかなかぴったりくるイメージだと思う。

 だが、何か背筋を悪寒が走った気がして、神威の方を見ると満面の貼り付けたような笑みで、傘を振り上げていた。



「殺しちゃうぞ。」




 振り下ろされるのと、言葉が同時だった。












聞きたいことがあります



「でだよ。酷いよね。」

「おまえさんが一番酷いんだけど。」

「何か言った?」

「何でもないです。」



 頭に巨大なたんこぶを作る羽目になった阿伏兎は、頭を押さえて萎縮する。またもう一度殴られてはたまったもんではない。神威はソファーにいつも通りまた転がって、「そういえば。」と阿伏兎を振り返った。



「青鬼と赤鬼は、そのままだったんだヨ。」

「俺は何だったんだ。」

「中年ハイエナ。」



 神威が軽い調子でいった言葉に、阿伏兎は眼を丸くする。



「え、なんて?」

「だから、中年ハイエナだって。なかなか特徴を捉えてると思うんだよね。」



 先ほど自分の登録名は不快そうだったのに、ころころ神威は笑って言った。要するに彼も彼女の阿伏兎に対する登録名を、妥当だと考えているのだ。




「…中年って酷くね?おじさんって言ってもまだ俺30超えたばっかりだぞ。」

「10離れてたら十分中年に見えたんじゃない?」

「おまえさんも十分ひでぇ。」












キスマーク





 昼から仕事に出てきたは相変わらずてきぱきと仕事をしていた。だがどうしても一緒に仕事をしている阿伏兎には気になるというか、いたたまれないことがあった。




「ねー、おやつは?」




 神威がの束ねた銀色の天パに触りながら言う。重たそうに揺れるポニーテールからのぞく白く、細い首筋には赤い痕がある。



「部屋にあるから、食べてきたら?くすぐったいからやめて。」



 書類仕事の邪魔をする神威に、は目尻を上げて怒る。彼女の機嫌が比較的日頃より悪いのもまた、その赤い痕が原因だろう。



「わかったヨ。そんなかりかりしないで。」



 かりかりする原因の大半を作り出したであろう神威は、の頭を撫でて、執務室の隣にある居住区のリビングに戻っていく。それを確認して彼女はまた書類にかじりついた。



「なぁ、おまえさん。」

「何。」

「それ隠さねぇのか?」




 阿伏兎は思わず、彼女の赤い痕を指さして聞いてしまった。

 神威の独占欲の塊。それを晒しているというのは、彼との間に情事があったと示しているようなものだ。もちろん神威は彼女に横恋慕している団員たちに対する牽制のつもりだろうが、真面目な彼女はいたたまれないだろう。

 だが、は「あぁ、」と阿伏兎を見た。



「目立つ?虫刺されっぽいんだよね。念のため防虫スプレーふったんだけどなー。」

「いや、それ違うだろ。」




 阿伏兎は冷静に突っ込む。




「え?」




 は漆黒の瞳を阿伏兎に向けて、不思議そうに阿伏兎の答えを待っている。

 これは言うべきだろうか、言わないべきだろうか。ただもしも言った場合、彼女は間違いなく隣の部屋にいる神威に怒るわけで、この部屋にいるのは阿伏兎だけだから、当然後から神威に逆襲されるのは阿伏兎だ。

 冷静に考えて、阿伏兎は首を横に振った。




「いや、なんでもねぇわ。」




 保身は重要ですよ。