は被っていた着物のフードをとり、小さくため息をつく。




「…」



 そこに転がるのは血まみれになり、欲を体にそのままくっつけたように肥え太った、ただの無様な男の死体だった。

 にとっては誰よりも敬愛した師と、義父の仇。

 牢の中に横たわっている男の体はもうぴくりとも動かず、晋助の刀に力なくただ貫かれて絶命しただけだった。

 彼に抵抗するだけの気力も、強さもない。生まれながらに与えられた家と権力がなければ何も出来ないちっぽけな男。それが人望もあり、あれほど人に慕われた師を処刑したのだから、世の中というか、時代というのは不思議なものだなと心の底から思う。



「…汚い。」



 は小さく呟いて、ふっと小さく息を吐く。

 汚名とたくさんの処刑者の首、そしてあがく薄汚さと、肥え太った体を血で満たして、徳川定々は死んだ。自分が処刑した、松陽の弟子、高杉晋助に殺されて死ぬことになった。それはあまりに滑稽で、ちっとも納得できるものではなかった。

 は晋助と万斉を残し、屍を振り返ることもなく、牢に背を向けて歩き出す。

 月の明るい夜で、薄暗くて、血なまぐさい牢を出れば、散歩をしたくなるような夜だ。血のにおいも少し風があるのですぐに霧散する。少し冷たいけれど、心地良い。頬を撫でる風に、幼い頃の光景を思い出した。



 ――――――――――――――だらだら腐って長く生きるより、




 ふと、兄が言っていたことを思い出す。蛍を見ながら、晋助や兄の銀時、小太郎とともに、歩いた日々は、永遠に失われた。



 ――――――――――――――俺も自分の命を燃やしてまっすぐ生きたいもんだね



 松陽も、同じことを言っただろう。

 腐って長々生きるよりは、自分の命も、意志も通して、まっすぐ生きていたいと。だからこそ彼は、処刑されるという道を選んだ。自分の未来や思いを全部弟子たちに託して。それを、はちゃんと知っていたはずだったのに、こんな所に来てしまった。




「満足、した?」



 神威は同じようにフードを被ったまま、にっこり笑って尋ねる。

 それは間違いなくに向けられた言葉だ。月を背にしている彼の笑顔は鮮やかだったが、その絵美からはいつもはに向けられない殺意が溢れていた。不機嫌なんだろう。当然かも知れない。



「うん。」



 は短く答えて、目を伏せた。



「なに、わがまま言って見に来た割に、随分と浮かない顔だね。」



 神威は少し早口でまくし立てて、視線を下げているの方に歩み寄ってくる。突きを背にしている彼の影が地面を見つめるにはゆらゆら揺れていて、酷く不安を煽った。

 神威はを傍から離すことを基本的に望んでいないし、それが春雨でそれなりに危険だと言うこともわかっている。今回鬼兵隊が江戸に入る手助けをするのは春雨の役目だったが、今は提督にまで上り詰めた神威が直接行くことはない。

 だから本来ならも行く必要はないのだが、定々を殺すと聞いて、どうしても行きたいとごね、珍しく行けないなら無理矢理行くと実力行使宣言にまで出たのだ。

 がなにかをしたいというのは珍しいことだし、神威はが行きたい場所について、自分がついて行くことを条件にするならば、文句を言うことは基本的にない。だが今回は珍しく、を止めたのだ。は生憎手足を折ったところで這ってでも行く性格だ。阿伏兎からの仲介もあって、仕方なく許可した形だった。

 にもかかわらず、が嬉しそうな顔をしなければ、神威が不機嫌になるのは無理もないだろう。



「ごめん。」

「謝るくらいなら、最初から無茶言い出すなよ。」

「…ごめん。」



 俯き、は謝る言葉以外が見つからない。

 何故あんな男に自分たちは負けたのだろう。どうして大切なものを守れなかったのだろう。どうすれば良かったのだろう。自分の非力さを恨み、死にたくなってくる。手が震えるほどの悲しみと悔しさがこみ上げてくる。

 あんな腐った男ひとりの命であがなえるほど、死んでいった者たちの命が、軽いものとは思いたくない。



「自分で自分の傷、えぐりたかったの?」



 神威の言葉は辛辣だ。八つ橋にちっともくるまれていないから、ぐさりと突き刺さる。




「もっと、嬉しいものかなって思ったんだよ。」

「俺、最初から言っただろ。後悔するって。人の話は聞きなよ。」





 返す言葉もない。どこまで彼がの心境を看破していたのかはわからないが、彼は最初から言っていたし、を止めようとしていた。

 わがままを通した挙げ句、自分の傷をえぐって立ち上がれないほどに沈んでいるのだから、馬鹿みたいな話だ。




「馬鹿じゃないの。」




 神威は少し呆れたように言って、の額にデコピンをかました。



「いっ、いっっっっっっっっっっっっっっっっったあああああああ!」

「これでも手加減してるよ。本気なら頭吹っ飛んでるからね。」

「でもでも、痛いいいいいいいい!!」



 は額を押さえて蹲る。神威は些細な制裁のつもりかも知れないが、相当痛い。絶対に明日になれば青あざが出来ているだろう。神威を見上げると、片手を腰に当てて、もう片方の手を蹲るに差し出していた。



「帰るヨ。」



 は無言のまま、神威の手を取り、立ち上がる。

 可愛い顔をして、存外神威の手は大きく、の手よりもずっと分厚くて固い。その温かい手を握ると、生きているとわかって、酷く安心できて涙が出そうだった。



「生きてる、ね。」

「当たり前だろ。まだ俺の子供も産んでないんだから、殺さないし、死んだら許さないよ。」

「…うん。」



 神威は当たり前のように酷いことを言うが、それすらも生きている証拠のように思えて、は目尻を下げたまま笑った。








前を向く